礼拝説教要旨(2004. 5. 9)    
主の目にかなう生き方とは (列王記第二 10:1〜36) 

 列王記第二10章は一つの時代の終わりを告げる章・・。オムリ以来栄えたアハブの家が絶たれることが記されている。それとともに、アハブの家と関わってきた預言者のエリヤとエリシャの時代の終わりでもある。その終わりをもたらすために、主はエフーを立て用いられるのであったが、彼の人となりについては、評価するのは容易でないそんな出来事が記されている。

1、エフーは確かに主によって選ばれ、用いられていた。エリヤのときに主のご計画が明らかにされ、エリシャのとき、謀反を起こし、たちまちの内にヨラムとアハズヤを打ち倒し、イゼベルをも退けて権力の座に着いたのであった。それらはエフー自身が言うように、主が告げられた通り、事が成っていた。
(10節)

 けれども、主はエフーの全てをよしとしておられたのだろうか?(私たちが聖書を読むときの判断の難しさがここにあるようである。)

 エフーはアハブの家を打つために立てられていたが、そのためにはどんな方法を使ってもよかったのだろうか。権力闘争には勢いが必要である。ほんのわずかのためらいも命取りとなる。また勝手な温情は主のみ旨を曲げることにもなりかねなかった。彼はアハブの子どもたち70人を殺し、見せしめにした。他にもアハブの家に属する者でイズレエルに残っていた者を皆殺しにし、さらにはアハズヤの身内の者をも殺したのである。

 その激しい殺りくをエフーは「私の主に対する熱心さ」と言い、聖書は皆殺しや根絶やしの事実を、「主がエリヤにお告げになったことばのとおりであった」と記していいる。(16〜17節)

2、エフーは主から告げられた通りのことをしたのであろう。また彼自身、「私の主に対する熱心さ」と理解して事に当たったのは間違いなかった。主に対する熱心さは、バアル礼拝を退けるための策略によく表れていた。盛大な集会を催して、全員を討ち滅ぼしてしまう作戦を見事に成功させ、バアル礼拝者を根絶やしにしたのである。

 こうしたことは主の目にかなったことで、よくやり遂げたと主ご自身が認めておられた。ところが彼は、全き心で主に仕え、主に従っていたわけではなかったというのである。ヤロブアムの罪から離れなかったからである。
 ・金の子牛に仕えることをやめようとはしなかった。(29節)
・心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず・・(31節)

 一方で主の目にかなうことをよくやり遂げていながら、他方で主のみ心に反することを行い続けていたのである。エフーの生き方において、相矛盾する生き方が同時進行していたわけで、人はそういう風に生きられるという事実を私たちは見せられ、突きつけられるのである。

3、人がどれだけ熱心に主に仕えていると自分で確信していても、また主のことば通りに行っていると確信していても、そして実際に主のことばの通りに事が起こっていたとしても、それでもなお人は間違いを犯している可能性があるということを、このエフーの姿から学ぶことができる。

 エフーは主が確かにアハブの家を裁くために用いられた器であった。だからといって、彼が実際に採った方法の全てを主がよしとされていたとは言えない。その殺りくの激しさは、自分の思うままやりたい放題という一面を否定できないのである。もし、主に聞きつつ自分の務めを探っていたならば・・・と考えると、ヤロブアムの罪をやめることが導かれたに違いなかった。また主の律法に「殺してはならない」とあることに目が留まったかもしれなかったのである。

 生き方において、神の前に慎みをもつこと、また人の命に対して畏敬の念を抱くことは、全ての人にとってとても大切なことである。主の律法に歩むことを心がけなかったエフーは、そのような心遣いを全くすることなく突き進んでいたのであろう。

<結び> 「エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず」(31節)と記されているが、私たちが主の目にかなって生きようとするなら、「主の律法に歩もうと心がける」ことが求められている。「心を尽くして」そう生きようとするか否かである。

 どのようにしてか? 十戒を思い浮かべるか、それともその要約として主イエスが教えて下さったことばを思い出すか・・・・。
 =マタイ22:37〜40=

 どこにいても、また何をしていても、主の前に主の教えに照らしつつ自己吟味すること、それが「主の律法に歩もうと心がける」ことになる。(参照:詩篇1:1〜6)祈りをもって始めたことが順調に進むとき、感謝してさらに前進しつつも、慎みを忘れず、自己吟味するように導かれたい。自らの不完全さや欠けを知ってこそ、主の教えを聞き、導きを求めて主が歩ませて下さる道を歩ませていただきたい。そのような生き方こそが尊い!!と。