「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
私たちは2004年度主題聖句にこのみ言葉を掲げることにした。大切な教え、、忘れてはならないみ言葉である。福音の中心を示す「恵み」が説かれているからである。
1、「恵み」という言葉は福音の中心、本質を示すという点で、だれも異存はない。よく分かっているつもり・・。しかし、「恵みとはなんですか?」と問われて、即座に「これこれです!」と一言では答えにくいのも事実である。
※「明解国語辞典」(三省堂):「めぐみ」:あわれみ、ほどこし
「恩寵」:主君(神)のめぐみ
「広辞苑」:「めぐみ」:めぐむこと、なさけをかけること、あわれみ、いつくしみ
「恩寵」:めぐみ、いつくしみ、恩遇、寵愛、
キリスト教で神の人類に対する愛
ヘブル語の「ヘーン」、「ヘセドウ」、そしてギリシャ語の「カリス」が「恵み」と訳されている。 「ヘーン」は神が人に示す愛顧を意味する。そして「ヘセドウ」は「いつくしみ」とも訳される。「カリス」は一般的には「魅力」や「感じのよさ」を意味する言葉で、「感謝」を意味することもある。新約聖書では神が人を慈しんで下さること、あわれみを注いで下さることとして、パウロが特に神の愛とあわれみの注ぎかけを「恵み」と言い表している。神の救いのみ業そのものが、ただ神の恵みによること・・・・と。(4〜6節)
パウロは、神が私たちを愛して救って下さったこと、それは神の豊かな愛とあわれみによるもの・・と説くのであるが、そのことを冷静に8節で告げようとしたが、筆を進めるうち、感情がほとばしり出るように5節のところで、「ただ恵みによるのです。」と、叫ぶようにして語るのである。
2、パウロはクリスチャンの救いの確かさ、救いの素晴らしさを説くにあたって、救いに与る以前と以後の大きな違いに目を留めている。
かつての悲惨がどれほどのものだったかを先ず指摘する。(1〜3節)「罪過と罪との中に死んでいた者・・・」と。外に表れた咎と内なる心の中の悪、行為に表れる罪と心の中に潜む罪等など、人は絶えず罪と戦い、これに打ち勝ちたいと願っているが、本当のところは罪の中に死んでいたという悲惨、これが全て人の現実なのである。打ち勝とうともがいていたつもりであるが、悪魔の言いなりになって、身をまかせていた状態だったのである。
パウロは自分も例外でなく、その悲惨の中にいたと告白する。世の流れに従い、肉の欲の中に生き・・、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした、と。
その悲惨から救い出されたのは、ただ恵みによる。(4〜6節)それは死んでいた者をキリストとともによみがえらせ、生かして下さること、しかも天に迎えて下さることであり、神がどんなにか愛に富み、慈しみ深いかを代々に渡って示すためなのである。かつての悲惨と今の幸いや祝福のコントラストを通して、神の恵みとあわれみが明らかにされるというのである。
3、ところで以前と以後の違いは、周りの人々に果たしてどれくらい明らかになるのだろうか。かつてと今の違いを一番よく知っているのは本人の筈である。私たちクリスチャンにとって、今ある自分を心から喜ぶためには、8節に示された救いの根拠を、私たち自身がよくよく心に留めていることが肝心である。救われる筈のなかったかつての自分を忘れないこと、そして今あるは恵みのゆえ、信仰によってであると、いつも覚えて心から感謝することである。
神は一方的な恵みを注いで下さった。神の側から、なぜか自由で自発的な好意、まさしく愛顧が私に向けられ、その圧倒的な恵みを信仰によって受けとめて救われたのである。ところがその信仰も実は神が備えて下さっていたもので、従って救いは神からの賜物、プレゼントなのである。
それこそ行いによるのではなく、救いを誇れる人は一人もいない。ただ、救いに与った者が喜びの内に、良い行いに進むようにキリストにあって生かされていることを知るべきなのである。今新しいいのちに私は生かされていると。
<結び> ガラテヤのクリスチャンたちの問題は、恵みによる救いで始まっていながら、行いによって救いを完成させようとしたことであった。コリントのクリスチャンたちは十字架を仰ぎながら、次第に知恵や知識、人間的な誇りから仲間割れしたのであった。一世紀のどの教会にも、行いに頼り、その行いを誇る過ちがあった。今日の教会も肝心の恵みを忘れる大きな落とし穴があるようである。
教会にいて、本当は平安を得たいにも拘らず、なぜか気持ちが静まらず、心が安まらないことがある。何か心に責めを感じるのである。他の人のことが気になるのか? 自分で自分を責めているのか? 祈りが足りない・・? 奉仕も余りしていない・・?等など、恵みを見失うと、たちまち心が騒ぐのである。
もし自分で自分を責めているのなら、そんなことは全く必要のないこと! 救いはすでに成り、もう救われた!!救われてしまっている!!!というのである。恵みにより、信仰によって!!!! 日々の生活において罪を犯すことがあっても、もはや罪の中で死んでいる者ではなく、キリストとともに生かされ、天に迎えられた者として生きているのである。罪を悔い改めて立ち上がり、良い行いへと進むことができるのである。
主イエスは私たちを責めることはなさらない。かえって、心安まるように招いていて下さる。(マタイ11:28以下) 主イエスは心優しい方であり、主に従う者もまた、みな同じく心優しくされるのである。自分にとって、恵みのゆえに、信仰によって救われる救いの確かさを知る人は、必ず心優しくされ、救いを喜び、ただ主を誇る者となって生きるに違いない。私たちはそのように生かしていただきたい!!
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