序文)今朝の記事は四つの福音書に共通に載せられている唯一の出来事です。5000人以上の人々に5つパンと2匹の魚で必要を満たされた主イエス・キリスト様の憐れみと力とが強調されています。マルコの福音書では、宣教の働きのために疲労が蓄積している弟子たちに、主イエス様が休息するようにとすすめられました。彼らが船に乗って寂しいところに出かけたにもかかわらず、出かけた先に大群衆が押し寄せてき、その休息を破ったのでした。普通なら自分たちの休息が破られたので怒るところですが、イエス様は彼らの必死な熱心さに、ご自分だけが与える事の出来るものを惜しみなく与えようとされました。
1 主はその飼う者のいない羊のようであるのを見て、深く憐れまれて、魂のために教えのみことばと、体のために食べもので養われたのでした。
飼う者のない羊は、自分で道を見つけだすことができません。人生の道に迷うのです。導く者がいないからです。飼う者のいない羊は、食物も飲み水も見つける事が出来ません。飼う者のいない羊は羊を脅かす危険に対して無防備です。羊は盗人や野獣から自分を守ることが出来ません。自分に襲いかかる誘惑、自分を攻撃する世の悪から、自身を防御出来る者はいないのです。主イエス様は、彼らのと私たちの羊飼いとなってくださいました。
詩篇23篇「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」
人は生きてゆくために霊の糧と体の糧が必要です。主イエス様は、まず霊に糧をお与えになりました。私たちの回りの人々は霊的な必要があります。海浜幕張めぐみ教会のあるベイタウンは、最先端の未来都市というふれこみです。私たちが開拓伝道のために移り住んだとき6.500人だった人口が、3年半で17.000人になりました。現在もどんどん高層住宅が建ち続けており、すぐに20.000人に近づきます。都市計画通り26.000人にまでなります。幕張メッセを含めてニュータウン計画を立てた人々は、この街に宗教施設を建てるスペースを考えに入れていません。商業スペースでさえも、教会のために借りようと正式に申し込みをしましたが、宗教はだめと断られました。古い地域にある教会も、あそこは難しい地域といって伝道に入り込もうとしません。そのライフスタイルは霊的な必要を本当に満たそうとしているといえません。人間存在の本質に主イエス・キリスト様の福音による変化が起こらない限り、どこに住んでも変わらず人間関係の罪深い中傷や陰口やうわさ話や、比較によって、互いに傷つけ合っていたり、関わり合いの無さ過ぎるために孤独になって居る方々が大勢おられるのです。関わり合いを自分から持とうとしなければ、何年住んでいても孤独のままなのです。
今も、主イエス・キリスト様は一人一人をごらんになると深く憐れみそれぞれに救いの道を備えてくださるお方です。私たちはそのために関わり合いの持てる機会を設定して、開拓伝道の方針として関係作り伝道をしています。1999年7月から始めた準備伝道と、2001年5月から定期的礼拝を開始しました。何らかの集会に来られて、住所を登録出来た方は、昨日現在で386人です。この内でつながりが有効と思われるのは250人ぐらいです。教会の主催する諸集会に来ている方々は100名ぐらいです。礼拝に来る段階の人々は20-30人前後を行き来しています。一人一人をジッと見ているとまさに飼う者のいない羊のようなのです。高学歴、プロフェッショナル、高給取り、何でも先端を行く気風ですが、その心は寂しいのです。
2 さて、ここでは、霊の養いと共にもっと詳しくのべられていることがあります。それは主が、神のことばに耳を傾けていた、群衆のためにその空腹を満たすために働かれたことです。
ヨハネの福音書によると、イエス・キリスト様は人々の食べ物について、早くから心を配り、自分では何をなさろうとしているか既に決めておられたのでした。「ご自分では、しようとしていることを知っておられた。」私はこの言葉に強く引きつけられています。主は、しようとしていることを知っておられた。実に幸いな励ましの言葉です。
ルカの福音書によると「日も暮れ始めたので」と書かれております。主の熱心を見ます。イエス様はピリポに問いかけました。「どこから買ってきて、この人々に食べさせようか。」ピリポは答えます。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」群衆は男だけで5000人、女、子どもを入れると10.000人は越える。計算すると200デナリすなわち年収の3分の2の給料に相当するお金が必要です。そのような大金は持ち合わせていない。実はピリポは弟子として主イエス・キリスト様をどのようなお方と考えているかが試されたのでした。
ピリポは、統計を見て物事を事務的に実務的に見ることができた。しかし判断をくだすときはとても悲観的な傾向がありました。こんな彼も、後になって、盛んに伝道している町から、田舎につかわされてそこでエチオピアの宦官に伝道し、エチオピア伝道のきっかけを作りました。
アンデレは、「ここに少年が大麦のパン五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」と答えます。そう言いつつも、あるいはひょっとしてと、何かぐらついていました。ルカの福音書では解決のための弟子達の提案は「解散させて、それぞれに家に帰らせること」でした。かくしてピリポをはじめアンデレも他の弟子達も、現状調査と、必要な金銭の計算と其の結論として解散やむなしとなったのでした。
少年が持っていた五つのパンと2匹の魚が用いられました。人々が、十分に食べたのです。ピリポは「少しづつ取るにしても」といいましたが、全員十分食べたのです。残りが十二のかごに一杯になった。
パンと魚のことでしょうとすませられないのです。
これが主イエス・キリストの福音だったら、どのようにして大勢の群衆に届けられなければならないかを考えさせられます。主はご自分ではしようとしていることを知っておられるのです。福音を届けらるために、私たちのすでに与えていただいた福音と、それを伝えようとする少しの信仰をも、敢えて用いくださって、教会がない地域の17.000人に届いて下さることを信じます。
私たちは、自分たちが直面しているいのちのパンを必要としている大群衆を目の前にして、自分たちの経験から来る計算と金銭感覚と結論を優先して、主がご自分ではしようとしていることを知っておられたのにもかかわらず、何もなさらないように、さっさと群衆を解散させていないでしょうか。計画中止を声高に叫んで、そのような挑戦を無謀といっていないでしょうか。これまで一緒に歩んで下さった主イエス様を思えば、ピリポももう少し違った答を出せたのではないか。私たちは、これまでよくしてくださった主を忘れないようにしましょう。悔い改めと信仰の恵みに再び満たしていただいて、主がなさろうとしていることを全部していただくために前進しましょう。
3 どのようにしていのちのパン福音は配付されたか?
パンと魚はどのようにして10、000人以上の人々の混乱なく配られたのでしょうか。それはルカの福音書に書かれているように、主が弟子達に「人々を50人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」と命じられた事から分かります。
小グループに分けられたのです。福音が届けられ、信じた人々の信仰の成長のためにフォローアップは、この小グループによる組分けをする事で、数千数万に及ぶのです。訪問したアメリカ長老教会で大きく成長している教会は皆この仕組みを持っていました。福音の恵みが一人一人に届くために、求道者も信者も組分けられて生き生きとして仕え合い愛し合っていました。
ニューヨークのリディーマー長老教会は会堂がありません。最初から持たない方針でした。しかし4000人以上の教会になりました。礼拝は朝から2回と夕方1回行われます。私たちが出席したのは夕方の礼拝でした。若者たちが1000人以上詰めかけていました。その中の40%はアジア人だそうです。その教会員に求められる大原則は、小グループのどこかに属することです。「もしあなたが小グループに入っていないなら、あなたはこの教会の一員ではありません。」とまで言い切っています。それは、福音の恵みにあづかり、他の人々の為に仕えるために絶対的に必要な事だからです。50人づつの組に入らないで、一人でパンと魚をいただくことはできなかったのです。どこかに入って弟子達が配るのをいただく必要があったのです。
私は小グループによる教会形成をずっと考えています。会堂をたてることは出来ない地域なのです。35近い高層ブロックがあり、それぞれに家の小集会を始めたいと願っています。これは望みですが、一つの集会に、7人づつ集まっても245人の教会になります。長老が4人起こされれば35のブロックを治めることが出来ます。現在は家の教会となっています。88ヘイホーメートルの広さで、1LDKです。玄関が二つ台所が二つもついています。私たち夫婦は1DKに住み、50脚は椅子を列べられる空間で礼拝をしています。満席になれば、メッセの国際会議場を毎週借りるつもりです。会議場は空間的にいろいろの寸法があり、宗教にも貸してくれるのです。これが集会場に関するVISIONです。何時になると自前の長老を立てることが出来るでしょうか。まだまだ走り始めたところです。
結び)あなたのために、主は何をしようとしておられるか知っておられます。信仰の目で祈り求めて、信頼と従順が私たちに今必要なのではないでしょうか。
エペソ1:15-23
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