礼拝説教要旨(2003.07.27)
食事を共にする主
(ルカ 24:33〜43)
よみがえりの主は、望みを失い、心定まらないままエマオに向かう二人の弟子に近づいて、この二人と共に歩み、彼らをして復活を信じる者にされた。食卓でパンを取り、祝福し、裂いて渡されたとき、二人の目は開かれ、目の前におられるのはイエスご自身だとはっきり分かったのである。

1、復活の主イエスにお会いし、もう一度心が内に熱く燃え上がるのを強く感じた二人は、すぐさまエルサレムに戻って、他の弟子たちにそのことを伝えたいと道を急いだ。それは当然の思いだったに違いない。知らせないではいられない・・・。語らないわけにはいかない・・・。それ程の感動、感激!!

 戻ってみると、すでに皆が集まっていた。彼らは「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていたので、二人も興奮を隠せないまま、自分たちの話をした。主イエスのよみがえりの話で、その場はケンケンガクガク、騒然としていたようである。けれども、マルコ16:13によると、話を聞くだけの弟子たちはまだ信じられないでいた。(※参照・マルコ16:10〜11)

 シモン・ペテロに姿を現されたことも、ペテロ自身はそれによって信じることが出来たとしても、他の弟子たちには、まだ半信半疑、戸惑いばかりが増すしかなく、二人が加わって証言しても、なお疑いは晴れないのであった。一人一人が復活の主にお会いすること、そのことこそがカギであった。

2、主イエスの復活を信じることは、弟子たちの多くにとって、自分ではどうすることも出来ないことであった。信じようにも信じられず、信じたいと思ってもどうにもならなかった。しかし、自分たちではそれ以上話が進まない弟子たちの真中に主イエスは現れ、そこに立たれた。

 弟子たちは驚き恐れ、霊を見ているのだと思った。取り乱し、心に疑いを起こすばかり・・・。目の前に主イエスを見ても、人の常識は復活を否定するということである。

 主は彼らに語りかけ、ご自身の身体を示して、弟子たちの心の目を開いておられる。主の語りかけなしに、彼らは信じることは出来なかった。主が心を開いて下さることによって、人は信じる者となれるのである。主イエスが語り、そこで成されたことのすべては、弟子たちが信じられるように、固く信じて立ち上がれるように・・・というためだったのである。

 嬉しさのあまり、まだ信じられず、不思議がっている彼らに対して、ここに何か食べ物がありますか、と言って、魚を食べておられる。霊や幻でないことを食事をすることによって見せ、はっきりと証明して下さっているのである。

3、主イエスがそのようにされたのは、復活の主はそこまで弟子たちの近くにいること、そして身近な普段の生活の中で共にいる、ということを示しておられることに他ならない。エマオで二人の弟子たちと食卓を共にされたこともそのことを示しているのである。

 復活の主を信じることは、確かに常識を超えている。しかし、復活の主は、普段の普通の生活の中で現れておられる。それは普通の生活の中でこの主にお会いして、信じる者とされるということを意味しているのである。

 主イエスは弟子たちに約束されたように、決して彼らを見捨てず、彼らがどんなに弱って、希望を見失ってもしまっても、彼らに近づき、ご自分の方から姿を現された。特別な場所、特別なときではなく、彼らが今いる所、生活しているその場所に近づいて、食事を共にし、そうすることによって、ご自分が生きていることを示しておられた。(※参照・ヨハネ黙示録3:20)

 ※食事の時に祈る:主がこの所に共におられるとの信仰の表明・・・。食事の度に主を仰ぐ幸いを味わうことになる。(祈っているにもかかわらず、主が共におられることを忘れることも多いのでは・・・)

<結び>よみがえった主イエスが、順番に弟子たちの前に現れ、彼らを信じる者にして下さったことを知るとき、その一人一人は、初めは皆信じない者だったことはとても興味深い。そしてこの事実を心に留めることは、私たちの信仰のあり方を導いてくれる。

・女たち:復活を信じて墓に行ったわけではなかった。
・エマオの二人の弟子たち:絶望していた。
・シモン・ペテロ:三度も主を否定した。主を見捨てたわけで、悔いても自分からは何も出来なかった。
・他の弟子たち:聞いても信じなかった。トマスは特に・・・。

◎主は、ペテロにはたった一人のところで現れて下さったようである。その記事がほとんどなく、そっと触れられているだけであるのは、ペテロの慎みがあったからに違いない。しかし、ペテロには絶対必要なこの主との出会い、交わりがあって、十字架と復活の福音は今日まで伝えられているのである。

◎今日、私たちがどのような者であっても、主イエスは一人一人に現れて下さり、信じる者になるよう招いて下さっている。その主の働きかけによって、今信じて歩んでいるのでる。

◎私に近づいて下さり、普段の生活の中で共に歩んで下さる主イエスに確かにお会いし、慎みをもって、また感謝をもって主に従うものとして歩ませていただきたい!!