主イエスは十字架上で「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と大声で叫び、そして息を引き取られた。勝利宣言のように・・・。亡骸はアリマタヤのヨセフによって、真新しい墓に葬られ、慌ただしい埋葬の後、人々は安息日を休むのであった。
1、イエスの身体が墓に納められるのを見届けた婦人たちは、香料と香油を用意して安息日の明けるのを心待ちしていた。彼女たちは、慌ただしくほとんど何もできなかった埋葬の務めを、もう一度心おきなく果たしたかったのである。
それで、週の初めの日の朝早く、夜が明けるのを待ちかねるようにして墓に急いだ。彼女たちの心配は、墓には大きな石が転がされていて、封印されていたことである。果して思い通りのことができるか、確信のないまま墓に着いたところ、石はすでに脇に転がしてあって、墓の中にイエスの身体はなかった。
彼女たちはすでに空になった墓を見て、途方にくれた。主イエスがよみがえられたとは全く思い及ばず、悲しみは増すばかり・・・。
※もしや、よみがえったのでは・・・と考えもしなかったのだろうか、と思ってしまう。しかし、弟子たち、そしてガリラヤからついて来ていた女たちはそれほどにみな絶望していた・・・というのが真相である。
2、絶望し、その上空っぽの墓を前にして、途方に暮れるしかなかったその彼女たちの心に、光が指すのに何があったのだろうか・・・。
励ましや慰めの言葉・・・、御使いの同行・・・。
何よりも肝心なこととして、主のよみがえりの事実があったのである。このことの有無、それが最も重要であった。
御使いは「よみがえられた」と告げ、主は生きておられると宣言した。そして、それは主が予め語られた通りだ、と告げている。彼女たちはそれを聞いて、イエスが語ってくださったみことばを思い出した。みことばを思い出した彼女たちは、みことばとともに主イエスのよみがえり、「復活を」を信じることができたのである。
3、主イエスの復活を信じた彼女たちは、早速喜びの証人となって弟子たちの全部に、ことの一部始終を報告した。※マグダラのマリヤはその前によみがえった主イエスご自身に会っている。主はマリヤにご自身を現されたのである。
ところが、主イエスの一番近くにいたはずの使徒たちは、この話はたわごとと思い、彼女たちを信用しなかったというのである。すなわち、それほどに死人のよみがえり、復活は信じられない出来事である。
「たわごと」:精神錯乱した病人のうわごと、または熱にうかされた人のう わごと、たわごと。
使徒たちは女たちを全く信用しなかった。「そんな馬鹿な!!」と手を振って、振り払うようにあしらっていたのであろう。幻でも見たのか・・・、それとも気がふれたのか・・・と。
「喜びの証言」が「たわごと」として退けられてしまうのは、何故なのだろうか。少し聞いて信じられるわけでなく、また、いたずらに信じきってしまうわけにもいかない出来事、それが主イエスのよみがえり、キリストの復活だからである。人が退けたイエスを神がキリストとしてよみがえらせておられるのであり、これを信じることは神に全幅の信頼を寄せることになるのである。
4、ペテロはまだ自分ではどうすることもできず、墓に向かった。そして空の墓を見て、驚くしかなかった。
このペテロにやがて主ご自身が姿を現し、彼を信じる者に変えてくださっているが、「復活」を信じるか否か、このことは全ての人にとって、信仰の中心である。もちろん、キリストの復活そのものが事実として起こったか否かも肝心である。
聖書は、主イエスはよみがえって生きておられると言う。生きておられる方を墓に訪ねても、「ここにはおられません」と。その生きておられる主は、人に現れ、働きかけてくださる。女たちはみことばの約束を思い出し、イエスにお会いして証人となっている。※参照:コリント第一15:1以下
「復活」を信じる者になることは、復活の主イエス・キリストにお会いして全く変えられることである。価値観が転覆させられる大事件である。そのために人はためらうことになる。しかし、十字架で死なれた主イエスはその死からよみがえられた。神は人が退けたイエスをよみがえらせ、これに聞け!と言われるのである。人の思い、考え、そして生き方は覆すために。
<結び>神を信じない者から神を信じる者に変わること、この生き方の方向転換を、神は全ての人に求めておられる。この方向転換は、復活の主イエス・キリストにお会いするとき、私たちにも起こるのである。必ず、生き方が変えられる。よみがえって、今生きておられる主は、私たち一人一人にも近づいて、私たちをも復活の証人としてくださる。この御業に与っているだろうか。
◎今、信じている:主イエス・キリストはすでに会っていてくださる。
◎信じたい:主はその人の前に立って、手を差しのべて招いておられる。
◎信じているなら、考え方や生き方が変わっているか?
・すでに変えられていることを認めること・・・!
・すなわち、もはや新しいいのちに生かされているのである。しばしば私た ちはこの事実を忘れている。もはや死をも他の何ものをも恐れず生きる者 とされているのである。コリント第一1:18
・復活の主は共にいてくださる!
◎世の人々から「たわごと」と言われようと、復活の証人として私たちも生かしていただきたい!!
=7月第一週:海外宣教週間=
・復活の信仰に生きる者となって、自らその証人となること、そして海外に出て行った働き人を覚えてこの週を過ごすことができるように。
|
|