「安心」の元の語は「シャローム」で、ここでは、単にトラブルがないという消極的な意味ではなく、神と人との関係が正しく、完全に回復した状態を表します。彼女は罪深い女性でしたが、彼女の信仰をご覧になって、イエス様は罪の赦しを宣言し、神との関係が完全に回復した状態の中へと送り出されたのです。
私たちも、ただキリストへの信仰によって、神との平和な関係の中へと入れていただきました。その信仰に立って、今日の一日へと歩み出しましょう。260601
日常の生活を過ごす中で、気がつくと心が乾いていることはないでしょうか。今日のみことばは、真の「恵みと平安」がどこから湧き出るのかを示しています。それは、神と私たちの主イエスを「知ることによって」です。
祈りと聖書のみことばを学ぶことによっても、神とイエス・キリストがどんな方かを知ることができます。しかし、聖書の「知る」は、単なる知識ではなく、体験を通して「知る」ことです。私たちも、実際にみことばに従うことによって、「ああ、神様って、本当におられるんだ。」「イエス様のみことばは真実なんだ」と知ることができます。そのように「神と、私たちの主イエスを知ることによって」、恵みと平安がますます確かなものとなって、私たちの心を支配するようになるのでしょう。
信仰をもって、主に従う歩みをしましょう。260602
「栄光と栄誉によって」のところ、以前の訳では「栄光と徳によって」となっていました。神の偉大な輝かしい栄光と、そして神のご性質と言いましょうか、ご人格、品性に、いわば惹かれて、引き寄せられて、召されるということでしょうか。神のきよさ、義、と同時に、神の慈しみ深さ、憐れみ深さ、優しさ、寛容、忍耐深さなど、神がどういう方であるかを知れば知るほど、惹かれていく。そんなふうに、人格的に神を知ることにおいて、深められたいものです。
その結果、イエス様の超自然的な力が私たちに働いて、私たちもまた、神のご性質に似たものとされていくのでしょう。すなわち、罪から清められたきよいいのちと、神に望みを置いて慎み深く生活する敬虔さとを増し加えられていくのでしょう。それも、イエス様の超自然的な御力(=キリストの御霊)によって。
神という方を人格的に正しく知るにつれて、神の子どもである私たちも、ますます神に似たものとされていく。このような、神の子どもとしての歩みをもっともっと味わいたいと願わされます。
神が私たちに与えてくださった「尊く大いなる約束」とは、永遠の神の御国を受け継ぐことです。その神の国は、神の栄光と徳(ご人格)によって召された者たちが、神の子どもとして神に似た者になって営む、神の御姿を映し出す国です。
一人ひとりが、神のご性質にあずかっている、イエス様の似姿である国。右を見ても左を見ても、イエス様の似姿の兄弟姉妹たちで、罪や悪はそこにはチリほどもありません。自分自身も似姿に変えられています。想像してみてください。それはどんなに素晴らしい場所でしょう。
この確かな約束があるからこそ、私たちは目先の誘惑や肉の思いを振り捨てて、神の国の民にふさわしく神のご性質へと内側から変えられていくことができます。私たちの本当の居場所、永遠の安息の故郷は、この世ではなく、神の国にあるのです。260604
ここには、神の性質に与(あずか)るステップが教えられています。私たちはキリストを信じて、神の子どもとされました。愛されている子ですから、父に似た者となりたいという願いが心に起きます。それで、あらゆる熱意を傾けて「信仰」の上に「徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、そして愛」を積み重ねていきなさいと勧めます。まるでドミノ倒しのように、信仰が人格(徳)を磨き、御言葉の理解(知識)を深め、感情のコントロール(自制)と粘り強さ(忍耐)を養います。それが神を敬う心(敬虔)となり、主にある兄弟姉妹を愛する心へと開花して、敵をも包む「神の愛」へと完成されていくのでしょう。この豊かな霊の実りは、私たちを「役に立つ者」へと変えていきます。今日も小さな一歩、目の前の「自制」や「忍耐」に熱意を傾け、キリストに似た者へと変えられていきましょう。今日、みなさんにとって、特に熱意を傾けて加えたいステップはどれでしょうか?
救いとは、私たちの努力ではなく、神の完全な主権と一方的な恵みによって与えられるものです。しかし聖書は、神に選ばれた者として「いっそう励みなさい」と語りかけます。これは、救いを得るために頑張るということではありません。すでに与えられている尊い「召しと選び」の価値を深く理解し、それにふさわしく生きようとする応答の姿勢です。
私たちが日々、神を信頼し、昨日語られた信仰の成長のステップの道を歩むとき、私たちの信仰は成熟し、誘惑や困難に直面しても「決してつまずくことはない」確かなものへと変えられていきます。それだけでなく、キリストの永遠の御国に入る恵みの豊さを、この世にあって味わうことができるのでしょう。地上での歩みは、やがて迎える「永遠の御国」へとつながっています。私たちの生活の中で、神の「召しと選び」を確かなものとするために、今日新しく踏み出せる小さな一歩は何でしょうか?
老ペテロは、信徒たちがすでに真理に堅く立っていることを認めつつも、「いつも思い起こさせる」と言いました。信仰の歩みにおいて本当に必要なのは、常に新しい知識を追い求めることよりも、すでに与えられている恵みと真理を、日々新しく思い起こし、心に刻み直すことです。
知っているはずの神の愛、すでに受け取っている十字架の救い、確かな復活と永遠の御国の希望。それを日々、思い起こすとき、私たちは再び新鮮な命で満たされます。
ルターは毎日、自分自身に向かって福音を語ると言いました。福音はそれに値する深さを持っています。私たちも日々、福音という尽きない恵みの泉から救いの喜びを汲み取りましょう。
この手紙は使徒ペテロ最晩年に書かれたものです(14節)。彼は、自分の地上での生涯が残り少ないことを意識しながら、愛する信徒たちにこの手紙を書き残しました。ここの「地上の幕屋」という言葉は、私たちの霊魂の住処(すみか)である肉体を指します。幕屋とは旅の間、住むための移動式のテントのことであり、いつかは畳まれる、一時的で壊れやすいものです。本建築の家には故郷で住みます。老ペテロは天の故郷を見上げて、地上では寄留者と弁(わきま)えていたのです。地上は腰を据え、根を張るべきところではなく、やがて帰る天こそ、永遠の我が家と。
私たちも、地上の幕屋にいる限り、神から与えられた使命や役割があるはずです。老ペテロは、真理を語るにもただそのまま語るだけでなく、これまでの豊かな経験を踏まえて、励まし、奮い立たせることにはげんだのでしょう。老聖徒の経験は後に続く者たちへの貴重な宝です。あるいは、とりなしの祈りや、ただ誰もいないところでも神を賛美することも立派な奉仕です。
天の故郷に戻った時に、天の父に良い報告ができるように、与えられている地上の命を最後の一日まで有効に用いることができますように。
イエス様がひととき、神の御子としての栄光をあらわされた、変貌山での出来事を語っています。ペテロはその目撃者でした。
イエス・キリストは、神が愛する子、神が喜んでおられる方です。私たちは、愛されるに値しないのに愛されている者、むしろ裁きに値するものなのに、愛されている者ですが、キリストは聖なる神に愛されるに値する方、神が手放しで喜ばれる方です。永遠の罪なくきよい神の御子ですから。これから人々のために十字架の死にまで従われる方ですから。このような方を神は愛し、喜ばれるのでしょう。
そして、神が十字架に渡されたのは、このようなお方なのです。神ご自身が愛し、喜んでおられたお方を、私たちの救いのために、十字架に渡してくださったのです。
どれほど愛されているかは、払った犠牲の大きさによってわかります。私たちは、どれほど神に愛されているか、改めて思いましょう。そしてその愛されている確信に立って、歩みましょう。
ペテロは、イエス・キリストの栄光を「聖なる山」で直接目撃するという、特別な体験をしました。若い頃のペテロなら、ドヤ顔で自慢したことでしょう。しかし老熟した今の彼は、その劇的な体験以上に、「さらに確かな預言のみことば」があると言います。
ここには、個人的な体験よりも、聖書の方がさらに確かだという、みことばに対する信頼が伺われます。私たちの感情は高ぶる時もあれば、この世の終わりだみたいに落ち込む時もあります。実に不安定です。しかし、神のみことばは決して揺らぎません。聖書はどんなときにも私たちの足元を照らす「ともしび」です。
心を重く覆うような夜の時期に、悪あがきをして、あれやこれやに手を出すよりも、確かなみことばにじっと目を留め続けて、私たちの心に真っ先に明るく輝く「明けの明星(キリスト)」が昇るのを待つのが良い。この老ペテロのアドバイスは、彼のこれまでの豊かな経験と深い知恵が込められているように思われます。みことばに親しみましょう。
生きておられる神様との関係が、形だけの関係になっていませんか、とこの聖句は問いかけるようです。「神様は私の父であり、人生の主人です」と、口では告白していますが、日々の生活の中で、どれほど心からの敬意と畏れ(おそれ)を持って神様に向き合っているでしょうか。いつの間にか神様を「都合のいい存在」として扱ってはいないでしょうか。
主は私たちの口先だけの言葉ではなく、心の奥底にある真実な尊敬を求めておられます。今日の一日の中で、神様へのふさわしい尊敬の思いをもつ瞬間を恵まれますように。
有名な「五つのパンと二匹の魚」の奇跡です。目の前には男だけで五千人の腹ペコの群衆。弟子たちの手元にあるのは、五つのパンと二匹の魚だけ。これでどうしろと?弟子たちは当然、思いました。
しかしイエス様は、足りなさを嘆くのではなく、まずそれを取り、天を見上げて「神をほめたたえ」ました。
私たちは困難に直面すると、手元に「ないもの」ばかりに目を奪われ、不安や不平に陥りがちです。しかし、まず、今、与えられているものに目をとめ、天の父をほめたたえましょう。心が不満から感謝へ、不安から賛美へと変わると、ものの見方、捉え方、考え方も変わってきます。新しい考えやアイディアが浮かんだりします。主の祝福が臨む時、私たちのわずかな力、時間、隣人愛のわざは祝福され、周囲を豊かに満たすものへと変えられます。
今日、私たちの手にある「五つのパンと二匹の魚」は何でしょうか。「これでどうしろと?」ではなく、「主よ、感謝します、ほめたたえます」という心の一新から、主の奇跡は始まるのかもしれません。
世の人がイエス様をどう言っているかを尋ねた後、イエス様は弟子たちに尋ねました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
主が何よりも聞きたいのは、誰かが言った言葉ではなく、「あなた自身の告白」です。あなたにとって、イエス様はどういう存在でしょうか。単に気休めの言葉をかけてくれる方でしょうか。それとも、あなたの罪のために身がわりに呪いの木である十字架にかかってくださった救い主でしょうか。
祈り
主よ。あなたは、この私のために、自ら進んで十字架にかかってくださった、私の救い主です。
自分を捨てるとは、自分のエゴやプライド、自分の力で人生をコントロールしようとする執着を手放すことです。そして、日々自分の十字架を負うとは、毎日の生活の中で、自分の思いではなく神の御心が成ることを選び取る決断です。
その歩みは一見、苦しく損な生き方に見えるかもしれません。しかし、自分の十字架を負ってイエス様に従う時、私たちは古い自分から解放され、本当の命と平安を見出すことができるのでしょう。
今のあなたにとって、今日手放すべき「自分の思い(エゴ)」は何でしょうか?
今日、あなたが負うべき「自分の十字架」とは具体的にどのようなことでしょうか?
祈り
道であり、真理であり、いのちである主よ。あなたについていくことを選び取らせてください。
目を奪うもの、心を奪うもの、世の魅力的なものは、時に大切なものを見えなくさせるものです。近くの大切な人のこと、そして自分自身。そして後になって後悔するものです。
本当に大切なものは何か。落ち着いて、よく考えましょう。聖書は、まことのいのち、永遠のいのちこそ、何よりも大切であると教えます。それは、造り主である方とともにいることによって、私たちのうちに満ちるいのちです。
一時的な利益や人からの高評価に心をすり減らすのをやめましょう。ご自身のいのちに代えて私たちを救い出してくださった、キリストの愛と、キリストをくださった父なる神の愛のうちに歩みましょう。神のみこころを行いましょう。それは永遠の益を私たちにもたらします。
祈り
イエス・キリストは、私のいのちです。何ものにも代えることができません。
日々の生活の中で、思い通りにならないことや理不尽な出来事に直面したとき、私たちの心には「苛立ち」の感情が湧き上がってきます。しかし伝道者は、その感情を軽々しく、不注意に受け入れてしまわないように気をつけなさい、と警告します。
イライラは怒りのはじめと言います。放置していると、やがて怒りとなって心の中に留まってしまいかねません。愚か者はすぐに怒るとは、箴言でも言われていたことでした。怒りを抱えていると、ろくなことになりません。時に取り返しのつかない失敗をおかしてしまうこともあります。苛立ちは、私たちの霊的な目を曇らせ、冷静な判断をできなくし、状況をさらに悪化させる言葉や行動を生み出す源泉となります。
苛立ちは、神の主権への信頼を忘れ、自分の思い通りに状況をコントロールしようとする高慢さから生じることも少なくありません。今日、心が騒ぎ、苛立ちそうになったなら、少し立ち止まり、その感情をそのまま主に打ち明け、すべてを治められる主に委ねましょう。そして、主からの平安を与えていただきましょう。
祈り
苛立ちが心に起こりそうな時、いったん立ち止まり、主にお委ねして、主の平安に憩わせて下さい。
これは、この世での成功や賞賛よりも、それらとは比べ物にならない、はるかに大きな喜ぶべきことがあなたがたには与えられているでしょう?と、弟子たちを諭しておられる言葉です。
名前が天に記されるとは、私たちが天に属する者だということ。籍が天にあるということです。それは決して当たり前のことではありません。アダムが罪を犯した時、エデンの園から追放されました。ましてや、アダムの子孫たる罪人である私たちは、神の御座のあるきよい天に受け入れられることなど、望み得ないことでした。それが今や、天に属する者とされたのです。
そのために払われた犠牲は、計り知れない尊いものでした。尊い生ける神の御子キリストが、私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかって死んでくださったのです。その払われた犠牲によって、私たちが得たものの価値も知られます。
私たちの名がキリストの血によって天に書き記されていることの価値を改めて思いましょう。
祈り
イエス様。あなたの命と引き換えに、私たちに与えてくださった尊い救いを、何にもまさって喜びます。
イエス様は「隣人とは誰か」と問う律法の専門家に対し、良きサマリア人のたとえを語られた後、「誰が隣人になったか」と問い返されました。当時、半径何メートル以内とか、同胞とか、さまざまな「隣人」の定義があったと言います。つまり、愛する対象を選別していたのです。この人は助ける、あの人は助けなくていい、と。しかし主が求めているのは、「私は誰の隣人になっているか」という主体的な姿勢です。
強盗に襲われ、瀕死の状態で倒れていた人に対し、祭司やレビ人は関わりを恐れて見ないようにして、道の反対側を通り過ぎました。しかし、当時見下されていたサマリア人は、憐れみに突き動かされて足を止め、傷を包み、自らの費用で介抱しました。民族の違いなど関係なく。
イエス様こそ、罪によって死に瀕していた私たちに歩み寄り、命をかけて救ってくださった最高の「隣人」です。この十字架の愛をいただいた私たちは、誰の隣人になるでしょうか。
祈り
誰であれ、目の前の必要を抱える人のために、勇気を出して、手を貸すことができますように。
交わりと訳されたコイノニアという語は、分かち合う、分け合う、共有するという意味です。一枚のピザを8等分して8人で分け合うとか、一つの荷物を何人かで一緒に担うとか、悲しみや喜びを共にするとか。福音のゆえに、キリストと苦難を共にするのもそうです。
さらに、御父と御子イエス・キリストとの交わり(コイノニア)となると、御父が御子を愛しておられるその愛を、キリスト信じてキリストと一体となった私たちもにも分かち合って、共有させて頂ける。キリストのきよいまことの命を共有させて頂ける、キリストの品性を共有させて頂ける等々と、その恵みは計り知れません。
祈り
御父と御子の永遠の豊かな交わりに、私たちも入れて頂いたことを信じます。
使徒ヨハネがこの手紙を書き送った目的は、「喜びが満ちあふれるため」でした。ここで語られている喜びとは、環境や状況に左右される一時的な感情ではありません。御父とその御子イエス・キリストとの親しい「交わり」から湧き上がる、永遠の喜びです。
さらにヨハネは「私たちの喜び」と書いています。ある人がキリストを信じて、神の家族に加わることは、先に神の家族とされていた人々のうちに大きな喜びを満ちあふれさせます。
日々の歩みの中で、時に私たちは喜びを見失いそうになります。しかし、私たちがすでにあずかっている御父と御子キリストとの交わりに立ち返り、そこに加えられている兄弟姉妹との交わりを思う時、私たちの心にはこの世のものではない、天からの喜びが与えられるのではないでしょうか。
祈り
主よ。あなたから与えられている喜びを、誰かと分かち合うことができるように導いてください。
クリスチャンになったからと言って、完全な人間になるわけではありません。むしろ、誠実な人ほど、かえって自分の罪の性質に悩み、落ち込むことでしょう。だからでしょうか、老使徒ヨハネはこのみことばをもって、そんなクリスチャンたちを励まし、いのちの道へと導いてくれます。
そんなこと、気にしなくて良いよとか、みんなやっていることだからとか、苦しい言い訳や自己弁護に走るのでなく、自分の罪を神の御前に告白すること。これが光の中を歩むということであり、いのちの道を歩むということです。主はその告白を喜ばれます。そして喜んでその罪を赦し、聖霊によって祝福してくださいます。
祈り
主よ。罪が示された時、逃げたり、言い訳したりせずに、あなたの前に告白します。イエス様の十字架の恵みを無駄にしません。
私たちの語る言葉には、人の心をいやす力もあれば、関係を破壊する力もあります。箴言の記者は、対立や緊張が生じたときに私たちがどのような態度を取るべきかを、実践的に教えています。
「柔らかな答え」とは、相手の感情的な高ぶりに飲まれず、キリストの柔和さをもって応答する姿勢です。生まれながらの肉の性質に従えば、激しい言葉には激しい言葉で返したくなりますが、それは火に油を注ぐようなものです。御霊の実は柔和、自制です。自分の感情をぶちまけるよりも、自制して、穏やかな応答をすることこそが、相手の心を和らげ、怒りの炎を鎮める知恵となるのでしょう。
「言うは易く、行うは難し」ですが、そのような場面ではいったん深呼吸して、心の中で主に心を向け、「柔らかな答え」を選択できるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。
祈り
今日語る言葉が、誰かの怒りをあおるものではなく、平和をもたらすものとなるよう、御霊が私の口を守ってください。
時に私たちは、神が遠く離れているかのように、いや、私のことなど、そもそも眼中にないかのように、感じることがあるのではないでしょうか。80億とも言われる人類の中で埋もれる一人の人間に、神は本当に心に留めておられるのだろうかと。
しかし、神の全知を侮ってはいけません。当時の市場で最も価値のないものとして売られていた雀一羽でさえ、神の御前に忘れられていないと主は言われます。それどころか、私たちの髪の毛の数さえも知られているというのです。神は私たちのことをどんな細部までも完璧に把握しておられるということです。
だから、恐れることはありません、と主は言われます。私たちは多くの雀よりも価値があるのだから、とも主は言われました。神の全知と自分自身の価値と、どちらも過小評価してはいけません。
祈り
天の父よ。あなたが、私のことを大切に思ってくださり、どんな細部までも完璧に知っていてくださることを信じます。
御国(=神の国)とは神が王として治める国のこと。神のきよさと義と、慈しみと愛が支配している所です。
最初の人アダムとエバが住んでいたエデンはそのような所だったでしょう。その時、彼らは満ち足りていました。ところが、サタンの悪巧みによって、神の真実を疑い、欲に惹かれて、神に背いてしまいました。その時、彼らは神の国を失いました。平安、喜び、満ち足りた魂、そして永遠のいのちといった神の良きものに代わって、恐れや不安、怒り、憎しみ、そして死が支配するサタンの国の住人になってしまったのです。
しかし、そんな私たちのために、もう一度、神の国を回復してくださるためにイエス・キリストが来てくださいました。それで今や、私たちが求めるなら、天の父は喜んで神の国を与えてくださいます。
問題は、私たちが神の国を求めているかということ。神の思いよりも自分の思い通りにしていたいという自己中心が根を張ってしまっているのでは?ということです。聖霊の助けにより、神の国を求める心へと変えていただきましょう。
祈り
あなたを避けようとする私の罪をお赦しください。素直に神の国を求める心をお与えください。
老使徒ヨハネは、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを「考えなさい」と言いました。さらっと聞き流すのでなく、よく考えを巡らしなさいと。
それは、罪人であった私たちを、御子の犠牲を払って、神の子どもへと身分を変えてくださる、実体を持った愛です。私たちが受けるべき地獄の苦しみを御子が代わりに受けてくださった愛です。そして滅ぶべき私たちに永遠の御国を受け継がせて、永遠にご自身のそばに居させ、交わりを喜び楽しむ「子」としてくださった愛。
この愛を深く黙想し、天の父への信頼に満ちた確信をもって、今日の一歩を踏み出していきましょう。
祈り
あなたがどれほど私を愛しているかをキリストの十字架によって深く思います。
考えてみたら、全宇宙の造り主である、永遠の神である方の子であるということは、とんでもない特権、栄誉、恵みです。神があらゆる祝福を惜しみなく与えられる、それも喜んで与えてくださる、かけがえのない存在だというのです。
それは、自分の力で勝ち取ったのではありません。私たちがどこそこの家に生まれるのが、自分で選んだのでも勝ち取ったのでもないのと同じです。神が、御霊によって、私たちを生んでくださったから、私たちは神の子なのです。私たちのアイデンティティはこれです。神が御霊を私たちに送ってくださったから、私たちのうちに信仰が与えられ、キリストを信じて、神の子として生まれたのです。
神は完全な親として、片時も私たちから目を離さず、完全な守りの中に保ちつつ、慈しみつつ、愛のうちに私たちを訓練し、きよめ、神の子として成長させてくださいます。時に、神が遠く離れているかのように感じられることがあっても、その神の愛はみじんも変わりません。
祈り
あなたの子であるというアイデンティティをしっかりともって、今日の一日を歩みます。