礼拝説教要旨 2022年8月28日
手を上げているときは
(出エジプト記 17:8~16)
今日の要点

祈りの力、真価を見直して、祈りに励む。

あらすじ

荒野での信仰の訓練が続きます。パン、水が枯渇する中で、主がその必要を満たしてくださった経験をしたイスラエルでしたが、今度は彼らを襲う敵が目の前に現れました。しかし、困難の種類は変われど、訓練の目的は一つ。救いは主から来るということ、主は彼らとともにいて、彼らを守ってくださることを、彼らが知ることです。8節「さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。」場所は、前回と同じレフィディム。このあたり一帯を縄張りとするアマレクという好戦的な遊牧民が、突如、襲い掛かりました。自分たちの縄張りに大群衆が入ってきたので脅威を感じたのか。あるいは、イスラエルが神から与えられた「水の出る岩」を奪うためか。イスラエルは、戦いたくなかったことは明らかです。ついこの間まで奴隷だった彼らは、戦闘の訓練など受けておらず、ろくな武器も持っていなかったでしょう。彼らはただカナンの地に行きたいだけ、できれば戦いなどせず、とにかく無事に着くことを願っていたでしょう。しかし、彼らは望まないのに、かまわず敵は襲ってくるのです。心無い力ある者が、弱い者を餌食にする。神に背いた世の忌まわしい現実…。この事態にモーセはどう対処したか。

今度は祈るだけではなく、祈りとともに彼ら自身が戦うという体制を取りました。9節「モーセはヨシュアに言った。『私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。』」ヨシュアは、後にモーセの後継者になる人物。「主は救い」という意味で、新約のギリシャ語ではイエスースとなります。イエス様のことです。モーセは彼に戦いの指揮をとらせることにしました。今回は、ただ主がなしてくださる救いを見てればよい、ということではありませんでした。これまで、イスラエルがエジプトを出るとき、また追撃してきたパロの軍勢を完全に断ち切るときは、すべて主おひとりでなさいました。イスラエル人の出る幕はありませんでした。しかしエジプトの支配を断ち切ったあとは、主に依り頼みながら、彼ら自身が戦います。この両方の原理が、私たちの信仰生活にもあります。私たちの救いは、100%主のみわざによって救われる。私たちの出る幕は1ミリもない。救いは完全に主にのみ、かかっている。これは死ぬまで、いや、未来永劫変わらない。

けれども、救われた後、聖化の歩みや福音宣教、教会を建て上げるわざにおいては、主に依り頼みながら、私たち自身も努力して罪と戦い、労苦するべきものとされています(第二ペテロ1:5-7、新約p. 460、第一コリント9:27、新約p. 330、第二コリント11:23以下、新約p. 359、コロサイ1:24、新約p.390参照)。御霊に従う、御霊によって歩むというのは、自分が努力しないことではなく、御霊に導かれ、励まされながら、その御霊の助けを無駄にしないよう、自分でも努力して行うということです。パウロは自分のからだを打ちたたいて従わせると言いました。救いの土台の部分と、その土台の上にどう自分の生活を、クリスチャンとしての人生を建て上げるかという部分と、それぞれにおける二つの原理を区別することが大切です。さて、モーセは実際に戦うのはヨシュアに任せて、自分は神の杖をもって丘の頂に立つと言いました。と言っても、高見の見物を決め込むわけではありません。主に祈ることに専念するのです。翌朝、体制を整えて、ヨシュアはアマレクと戦います。10-11節「ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。

モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。」今回はヨシュアたちが実際に剣を取って戦います。しかしだからと言って、勝敗が人の力にかかっているのではありません。「手を上げる」は祈ることを表します(詩篇63:4, 旧約p. 965、第一テモテ2:8, 新約p.407)。ですから、この箇所は、戦いの勝敗を決定するのは、ヨシュアではなく、モーセだと教えているのです。アロンは83歳。フルは初登場ですが、歴史家ヨセフスは、モーセの姉ミリヤムの夫としています。だとすると、フルはさらに高齢かもしれません。しかし、自分たちは年を取っているから、戦いは若い者にまかせて、自分たちは祈りでも…というのではありません。祈りはつけたしや、気休めではなく、実に戦いの勝利を決定するものです。実際に剣を取って丁々発止の戦いをしている、ヨシュアたちから離れて、丘の上で手を上げたり下げたりしている人のことなど、普通は、誰も気に留めないでしょう。せいぜい、手を振って応援してるのかな、くらい。しかし勝利の秘訣は、その祈りの手だったのです。

このときの様子を観察して、モーセたちも、祈りの手を上げ続けることこそが、イスラエルを勝利に導くと、わかったのでしょう。祈りの手を下ろしたら負け、と。12節「しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。」アロンとフルも頑張って、長い時間、左右からモーセの手を支えました。民の存亡がかかっています。何としてでも祈りの手を上げ続けなければなりません。三人がかりで、日没までモーセの手が上げられ続けて、ついにアマレクを撃退することができました。13節「ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。」ヨシュアは、敵が逃げ去るのを見て、民を守りきることができたと安堵するとともに、主に感謝をささげたことでしょう。そして、戦いが終わって、主はモーセに語られました。14節「…『このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。』」

主は、アマレクの存在を地上から消し去ってしまうと宣言しました。これは大きな励ましになったでしょう。アマレクは神を恐れず、冷酷で凶暴で悪質な性質だったようです(申命記25:17-18、旧約p. 347-348)。今回は勝ちましたが、次は体勢を立て直して、復讐に来るのでは、と考えると脅威です。しかしその恐れを取り払うために、主は、ご自身があの凶暴なアマレクを滅ぼすと宣言してくださった。あのエジプトを打ち、パロの軍勢を海に放り込んだ大いなる主ご自身が、彼らと戦い、滅ぼしてしまわれると。その御言葉を受けて、勇気百倍。モーセは祭壇を築き、主を礼拝しました。15-16節「モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、『それは「主の御座の上の手」のことで、【主】は代々にわたってアマレクと戦われる』と言った。」「アドナイ・ニシ」「主はわが旗」の意。祭壇を築いて主を礼拝して、この主の旗印のもとに、自分たちは荒野を行進し、襲い来る敵と戦う。自分たちは主のものだ、と旗印を鮮明にしました。そして次の16節は、訳も解釈もいくつかありますが、今日は、ここの「手」を祈りの手ととって、「主の御座に向かって手を上げよ。主は代々にわたってアマレクと戦われる

と取りたいと思います。主は、アマレク人の記憶を完全に消し去ると言われました。聖書の中で、ここまで言われるのは、アマレク人だけだと思います。そのため、アマレク人は肉の性質を表すと言われます。肉は御霊に対立し、まことのいのちを奪うものなので、肉の行いは十字架につけなければいけないと言われています。ローマ8:13、新約p. 301もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。肉と御霊については、ガラテヤ書5:16-26(新約p. 370-371)を参照。最後に、祭壇は主に礼拝を捧げる場所ですが、それはいけにえがささげられる場所でした。聖なる神の御前に、罪ある人間が受け入れられるためには、人間の罪を背負わせた犠牲がほふられ、血を流されなければならないのです。ですから祭壇は、キリストの十字架を表します。この十字架が、アドナイ・ニシ、わが旗です。私たちは、このキリストの十字架の旗のもとに集められた者たちです。讃美歌379番の歌詞が浮かびます。見よや 十字架の旗高し 君なるイエスは 先立てり…また、この旗は神の愛をも表します。

雅歌2:4、旧約p. 1117。…私の上に翻るあの方の旗印は愛でした。私たちは、この、神のこの上ない愛の現れである、キリストの十字架の旗のもとに集められた者たちです。この十字架の旗のもと、互いに祈りあい、助け合い、赦しあいながら、荒野を行進し、祈りの手を上げて、襲い来る敵と戦い、最後は約束の御国に入れて頂くのです。「父の大前に すべての求めを」新聖歌190番今日の個所は、祈りこそが、霊的戦いの勝利を決定づけるものだと教えています。このことを心に刻みたいと思います。私たちは、祈っても、祈らなくても、事態は変わらないんじゃないか、と思ってしまいがちではないでしょうか。またこの箇所は、神がイスラエルを守ることは、決まっていることだからと言って、祈らなくていいのではなく、やはり祈りが必要であることも教えています。古代教父アウグスティヌスは、自分をクリスチャンにしたのは、母の祈りであると言いました。彼が若い頃、神に背を向け、放蕩し、異教に走り、神から遠く離れたかのように見えたときも、あきらめずに、十数年も祈り続けた末に、母モニカは彼を取り戻したのでした。

もちろん、主は、私たちが祈らなくても、救うと決めた人を救われますが、しかし主の御心は、あえて私たちの祈りに答えて人を救う、という形をとることもあるのでしょう。主は私たちの捧げる心からの祈りを喜ばれるのだと思います。聖書は祈りに満ちており、詩篇は全篇これ祈りです。神は、祈れと促しておられます。しかし祈ったら、何でもスンナリと行くというわけではありません。紆余曲折があり、忍耐、聖なるしぶとさ?が試されます。ちいろば先生の榎本保郎牧師のところに、T君という高校生がいました。彼はよく勉強のできる子で、彼の両親は、自分たちは貧しくて勉強できなかったから、息子には思う存分、勉強させたいと期待を寄せていました。あるとき、T君は迷った挙句、高校生の献身キャンプに参加しました。彼は親の気持ちもわかるので、散々迷いに迷いましたが、最後は献身の決心をしました。一緒に参加していた榎本師は、ご両親の気持ちを知っているので、「どうか彼を助けてください」と一心に祈ったそうです。すると「石はすでに取りのけられた」という聖書の言葉が浮かびました(マルコ16:4)。そして真っ青な顔をしている彼にこの御言葉を伝えて、一緒に祈りました。

キャンプから教会に戻っても、T君は家に帰りづらそうにしているので、もう一度、一緒に祈り、「石はすでに取りのけられた」の御言葉をもって家に帰るように、と送り出しました。翌日、心配になって理髪店をやっている、彼の家の前まで行ってみると、「臨時休業」の札がかかっています。三日目にT君がげっそりとやせた顔で教会に来て、ぽつりと「石は取りのけられてなかった」と言って、あとはうつむいてしまいました。しばらくしてようやく口を開き、父親は誰がお前をそそのかしたのか、と言って、とても怒っている、母親はあの日から食事もしないでただ泣き続けていると言いました。榎本師は胸が詰まり「どうする?弱ったなあ」とつぶやくと、「先生、石はすでに取りのけられたという、あの御言葉はどうなっているんですか。」と問い詰められました。この言葉に榎本師はハッと自分の不信仰に気付き、「そうだった。あの御言葉は必ず君にも成就するよ。」と言い直したそうです。それから半月ほどして、ご両親が教会に見えました。てっきり怒鳴り込みに来られたかと思ったら、「先生、よろしくお願いします。」と手をついて言われました。その後、T君は神学校に行き、牧師となったそうです。

祈りによって勝利を得るまでには、「あの御言葉はどうなっているんですか」と言いたくなるときもあるかもしれません。信仰というのは、試されるのです。そこでなお、信仰に立つことの大切さを心に留めたいと思います。最後に、初代教会で祈りに励んでいた兄弟の姿を模範に。コロサイ4:12、新約p. 394。あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。