礼拝説教要旨 2022年7月31日
わたしの命令とおしえを
(出エジプト記 16:22~30)
今日の要点

命令と教えを与えた方が、どういう方かを思い、信頼して、従う。

あらすじ

荒野で200万人以上のイスラエルの民のために、うずら料理とホットケーキをふるまわれた主なる神。彼らは、主が用意した青空レストランで、舌鼓を打ったことでしょう。天の父なる神の、彼らに対するご慈愛でした。その後も、毎朝、神は天からのパンを備えました。このパンはのちにマナと呼ばれます(31節)。そのマナの取り扱いについて、神が定めた決まりが三つありました。第一に、毎朝一人あたり一オメル(約2.2~2.3リットル)、一日分だけ集めること(16節)。第二に、集めたパンは翌朝まで取っておいてはならないこと(19節)。一部の民は言うことを聞かず、翌日まで取っておきましたが、それには虫がわき、悪臭を放ちました。そして第三は、六日目には七日目の分とあわせて二日分集める、ということでした(5節)。今日はこの第三のルールについてのエピソードとなります。人々は、言われた通り、六日目にはいつもの二倍、一人あたり二オメルずつ、集めました。多く集める分には、彼ら文句を言いません。ただ前回、翌朝まで残しておいたものは、虫がわいたからでしょう。念のため、民の代表たちはモーセに指示を仰ぎに来ました。これは、取っておいても大丈夫なのか、腐らないのかと。

するとモーセは言いました。23節「【主】の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、【主】の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」臼で引いて、こねて、成形して、あとは焼いてよし、煮てよし。六日目にそれを食べて、残ったものは、心配せずに翌朝まで取っておけ、と言います。なぜそういうことをするかというと、七日目は全き休みの日、主の聖なる安息の日だから、外に出てマナを集めるという労働をしなくていいように、というのです。主のご配慮の行き届いていること…。のちに、シナイ山で与えられる十戒の中にも、安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ、とありますが、安息日自体は十戒以前からあったようです。この時から始まったのか、それとももっと前からそういう習慣があったのか(参考 創世記2:3)、わかりませんが。ともかく、そんなわけで、安息日に食べるためにと、神がこの日には二日分与えられたのだから、心配しないで、翌日の分を取っておくようにということでした。本当に大丈夫かなあ、と少し心配だったかもしれませんが、彼らは従いました。

24節「それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。」今度は腐りませんでした。不思議と言えば不思議、当然と言えば当然と言いますか。普通は腐るのでしょうが、主の安息を守るために、主の言葉に従って残しておいたものだけは、奇跡的に腐らなかったのです。目的が主の安息を守るという、主の戒めを守るためには、必要はすべて与えられるということでしょうか。マタイ6:33、新約p.11。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。さて、七日目の朝、マナが腐らなかったのを見て、民も驚き、ホッとしたでしょう。そこでモーセは言いました。25-26節「…今日は、それを食べなさい。今日は【主】の安息だから。今日はそれを野で見つけることはできません。六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」モーセは、今日はそれを野で見つけることはできないと言いました。今日は取りに行くな、でなく、今日は行っても無駄、ないと。

それでも、いやいや、モーセはああ言っているが、もしかしたらあるかもしれない、と欲に駆られた者たちがいました。27節。「それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。」ここまで来ると、笑ってしまいますが…。七日目に食べるものはあったはずですが、それでも集めに行くというのは、欲か。それとも、やはり少しでも蓄えておきたいと思ったか。天からのパンも不作の日が来ないとも限らない、と。翌朝まで残すなと言われても、翌朝まで取っておく。七日目は野に行ってもない、と言われても、出て行く。どこまでも神の言葉に従わない民。こんな民の姿を見て、神はどう思われたでしょう。これまで彼らがエジプトにいたときから、彼らのために数々の大いなるみわざを行って見せて、彼らをエジプトの支配から救い出し、パロの軍勢が追撃してきたときにも、彼らを守ってパロの軍勢を海に投げ込んで見せた。マラでは苦い水を甘く変えて彼らの渇きを癒し、つい数日前には、荒野でうずら料理とホットケーキをさえ、与えたのに。それでもまだ、わたしのことを信頼しようとしないのか…。神は悲しく思われたのではないでしょうか。28節。「そのとき、【主】はモーセに仰せられた。

『あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。』」主の嘆きです。期待するが故に、じれったくもなるのでしょう。彼らが主に信頼して、従ってくれるようになることを、主は首を長くして待ち望んでいるかのようです。新改訳は「守ろうとしないのか」と訳していますが、直訳は「守ることを拒む」で、しかも「拒む」は原語は強調形です。他の訳は「拒む」という語を入れて訳しています。守ろうとしているのに守れない、ではなく、そもそも守ることを拒んでいるということで、第三版は「守ろうとしない」と訳したのでしょうか。はなから守る気がない。主の命令を守るということが、始めから念頭にない。それは、神の命令を守ることを拒んでいることです。強い意志をもって拒否しているわけではなくても、神の命令を無視することも、実質的には守ることを拒んでいるのです。神は、私たちが神の言葉を守ろうと意識していても、できないのに対しては、責めるよりもむしろ、励まし、応援してくださるのだと思います。育てる者の目で、忍耐強く、寛容をもって見てくださっているでしょう。しかしはなから神の命令を守るつもりがないなら、神は嘆かれ、時に責められもするでしょう。悔い改めに導くために。

幸い、このときは、主は民をお裁きにならず、モーセを通して注意し、諭しただけでした。29-30節「【主】があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。』それで、民はようやく七日目に休んだ。」私たちもこのような主のご忍耐を、どれほど頂いていることか、と思います。おかげで、ようやく彼らは七日目ごとに労働を休むことを学びました。この七日目の安息というライフスタイルが、彼らの霊肉の健康のために神が定めたリズムですし、のちには彼らが神の民であることのしるしともなるものでした(出エジプト31:13)。「げに主は 依り頼みて 従う者を 恵みたまわん」新聖歌316番イスラエルが約束の地に入る直前、モーセは彼らに言いました。申命記8:3、旧約p.319…主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

この16章では、人間が生きるのに必要な「食べる」ということにおいても、主の言葉に従って食べることを訓練されました。食欲という、生存本能の最も強く現れる所においてであっても、神の言葉などお構いなしで、ただ目の前にあるパンを本能や欲の赴くままに食べるのでなく。それでは動物と同じ。そこには神のかたちに造られた人間の尊厳はありません。人は、神の言葉を聞き、従うことにおいて、神の栄光を現す存在です。食べるにも、何をするにも、神の言葉に従って、適切にコントロールすることが、人間本来のあり方です。イエス様が、荒野で40日の断食をした後に、サタンが近づいてきて、「あなたが神の子なら、その石をパンに変えてみなさい」とそそのかしたとき、イエス様はこの御言葉を引用されました(マタイ4:4、新約p.5)。またそのようにすることが、人間自身の幸せにもなるのです。本能や欲を否定しているのではありません。ただ神の言葉に従って、適切にコントロールするということです。食欲は罪ではありませんが、神の戒めに背いて、禁断の木から取って食べたエバは、罪を犯しました。夫婦は神の定めですが、姦淫は罪です。人を不幸にします。

神が創造された世界は、神の言葉に従って用いてこそ、祝福となるのです。神は私たちを、祝福にあずからせたいと願っておられます。神は、私たちを祝福し、喜ばせるために、世界を造られたのですから。そのために、神の言葉に従うことを訓練されるのです。主は、私たちを幸せにするために戒め、教えを与えています。申命記5:29, 旧約pp.314-315。イスラエルの指導者たちが、主を恐れて、主の語られることをみな、聞いて行います、とモーセに言ったところで、主は次のように語られました。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。民の幸せを祈るような気持ちで願われる神です。申命記には同じような表現がたくさんあります。できれば、開いて確かめて頂ければ。4:40, 5:16, 5:33, 6:3, 6:18, 6:24, 8:16, 10:13, 12:28, 12:25, 22:7。これらの個所を読むと、神の命令は重荷ではなくて、私たちを幸せにするために与えられていることがわかって、神の命令に対する印象が変わるかもしれません。

主の戒めが自分にとって良いもの、幸せにするものであって、慕わしいものであることを、ダビデはよく知っていたのでしょう。彼はそれらが、自分にとって金よりも好ましく、蜜よりも甘いと歌い、それを守ると報いは大きいと言いました。詩篇19:10-11、旧約p.92219:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。主の戒めを守らないのは、もったいないことだったのです! たとえば、主は赦しなさい、握りしめているものを手放しなさい、と命じている。しかし、いやです、私は絶対、手放しません、と握りしめる。これは、七日目に集めるなと言われても、いやだ、俺は集めに行く、と出て行ったのと同じです。主の言葉を守りたいと願うなら、簡単には手放せなくても、手放せるようにと祈るべきです。それは、赦せない苦しみから解放するため、また憎しみや怒りから、道を誤ることのないためです。この主の命令に思い切って従った人は、主がこう命じてくださったことが、どれほど、ありがたいことだったか、わかると思います。

それが、主の口から出る言葉によって生きるとは、どういうことなのか、体験することです。そして最後に覚えたいのは、聖書の命令、教えは、どなたの命令、教えなのか、ということです。ここを良く考えないといけません。主は、イスラエルの民に「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。」と言われました。そうです。彼らはどなたの命令を拒んでいたのか。パロの命令ではありません。主なる神の命令です。彼らはこれまで、神の彼らに対する並々ならぬ恵み、特別扱いをたくさん体験してきました。これまで彼らのために、至れり尽くせりで、大いなるみわざをしてくださった方の命令また教えなのです。この後、与えられる十戒にしろ、そのほかの命令にしろ、教えにしろ、それらはすべて、彼らが体験した神の救いということを背景として、受け取るべきものです。そこから切り離されると、神の命令や教えの本質を見誤ってしまいます。キリストを信じる私たちはなおさらです。聖書の命令、教えは、どなたのものなのか。ここを良く考えないといけません。私たちを愛して、私たちのために御子をさえお与えくださった方の言葉。

それは、神が私たちを愛して、私たちの益となるように、私たちが幸せを得るようにーこの世だけでなく、永遠の御国において幸いを得るようにー願って、与えておられるもの。私たちにとって良いもの、祝福を与えるものです。今、皆さんに語られている主の命令、あるいは教えは何か、あるでしょうか。それがなんであれ、主が語っておられることの背後には、御子を与えてくださったほどのご愛があることを心に刻みましょう。また、ダビデのように主の言葉を慕い求めて、信頼して、行う者でありたいと願わされます。この一週間が、私たちが御言葉を行うことによって、祝福に満ちたものとなりますように!