礼拝説教要旨 2022年7月17日
主に対してなのです
(出エジプト記 15:1~21)
今日の要点

つぶやきが出て来きたとき、福音に立って悔い改める。

あらすじ

イスラエルがエジプトを出てから、荒野の旅が続きます。約束の地には、祝福が満ちている。けれども、そこに入るまでは試練があります。信仰が練られます。訓練が施されます。前回、主はモーセに、心を尽くして主の御声に聞き従うよう、命じられました(15:26)。それは苦い水を甘くした場所で、与えられた戒めでした。主はこのように、あなたがたのために必要を備えてくださる。主はあなた方を愛しているから、あなたがたのためにこのようにいつでもどこからでも、必要を与えることができる。目に見えるところで必要な物があるから安心、ないから不安という、神がいてもいなくても変わらないようなあり方ではなくて、たとえ目に見えるところではピンチであっても、目に見えない神が助けてくださると、心を尽くして信頼するように。荒野でその主への信頼が試されるのでした。この16章はその続きです。12の泉と70本のなつめやしの生えるオアシス、エリムを後にして、シナイ半島を南へ下りました。1-2節「ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。

そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。」イスラエルが住み慣れた家を出たのが第一の月の十五日ですから、ちょうど一か月経ちました。これまで緊張の連続で、心身ともに疲れが出て来たところに、また荒野に入りました。酷暑でもあります。彼らがつぶやく条件は整いました。「全会衆」ほとんど全員がモーセとアロンに怒り、不満をぶつけてきました。不満の内容は食べ物のことでした。3節「イスラエル人は彼らに言った。『エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは【主】の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。』」エジプトは出たものの、思ったほど食糧も豊かではなく、というより、あるかないかの状態。こんなところで飢え死にするくらいなら、エジプトでたらふく食べて、主の手にかかって死んだ方がよかった、と爆発しました。エジプトは食糧は豊かだったので、奴隷として貴重な労働力だった彼らも食べるものはそれなりにあったのかもしれません。

しかし、たとえそうだったとしても、彼らは奴隷として過酷な境遇にあり、鞭打たれ、虐げられて、彼らは苦しみから神に叫んでいたのです(2:23、3:9等)。そのことを忘れて、この言い草はありません。パロの軍勢が迫ってきたときも彼らは、まだエジプトにいたとき、自分たちのことは構わないでくれ、自分たちはエジプトに仕えたいのだ、と言ったではないか、などとモーセを非難しました (14:11-12)。彼らの変わり身の早さに唖然とします。こんな民をも、主はお見捨てにならず、彼らのためにパンを備えてくださると仰います。彼らが、主に信頼し、従うということを学んでくれるようにと。4-5節「【主】はモーセに仰せられた。『見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。六日目に、彼らが持って来た物を整える場合、日ごとに集める分の二倍とする。』」パンが天から降ると言っても、雨やあられのようにあんぱんやカレーパンが降ってくるわけではなく、朝、霜のような細かいものが、あたり一面にあらわれるようです(13-14節)。

それを毎朝、一日分ずつ、集める。一日分という制限が加えられます。つい二日分、三日分、ため込みたくなりますが、ダメ。これで、彼らが心を尽くして主の教えに従って歩むかどうか、試され、また主を信頼する訓練がなされます。なお、六日目に二倍のものを集めるのは、七日目は安息日として全き休みの日とするため、パンを集めるという労働からも解放してくださるためでした(22節以下)。主のことばを受けて、モーセとアロンは民に言いました。6-7節「それでモーセとアロンは、すべてのイスラエル人に言った。『夕方には、あなたがたは、【主】がエジプトの地からあなたがたを連れ出されたことを知り、朝には、【主】の栄光を見る。【主】に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう。』」民はモーセに対して、お前は俺たちを飢え死にさせるために、こんな荒野に連れ出した、と言ったのに対し、モーセは、自分ではなく主が、あなた方をエジプトから連れ出されたことを知るだろう、と言い返しました。先に苦い水を甘く変えたように、夕に、朝に、主が奇跡をもって彼らの飢えを癒してくださる。

それであなた方をエジプトから連れ出したのは、私モーセではなく、主であることを知るようになるだろう、と。モーセの願いは、民が、主が彼らを導いておられるということを、知ることでした。それで、「主に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれた」と続けました。民はモーセに向かって言っているつもりでしたが、それは主に対するつぶやきであり、それを主が聞かれたのだ、と。なぜなら、出エジプトは、モーセが勝手にやったことではなく、主がなさったこと、主のみわざですから、それに対してエジプトにいた方がよかった、などというのは、主に対するつぶやきです。そしてモーセは「あなたがたがこの私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何者だというのだ」と今度は少々、モーセがつぶやき気味かもしれません。自分たちは主の命令に従っているに過ぎない。事を行っているのは主。なぜ私たちに文句を言うのか、と。モーセの意図していることは、彼らをエジプトから救い出し、約束の地に導かれるのは、主ご自身であることを知るように、ということだったでしょう。そして8節。具体的に主の答えを告げつつ、もう一度、あなた方は主に対してつぶやいているのだと繰り返します。「モーセはまた言った。

『夕方には、【主】があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを【主】が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、【主】に対してなのです。』」目に見えるモーセしか、見ていない民に、何とか、目に見えないお方に気づいてほしい主に目を向けてほしい。信仰の目を持ってほしい。そう願って、ひたすら主を指さすモーセ。このモーセの言葉を追認するかのように、主は例の雲によってご自身の栄光を現されます。9-10節「モーセはアロンに言った。『イスラエル人の全会衆に、「【主】の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたから」と言いなさい。』アロンがイスラエル人の全会衆に告げたとき、彼らは荒野のほうに振り向いた。見よ。【主】の栄光が雲の中に現れた。」雲は、主の臨在を表しました。民にわかるように、ご自身の栄光を雲の中に現わされたのでしょう。これを見たとき、民はどう思ったか。少しは恐れたのでしょうか。そして主はモーセにこれまで語られたことを繰り返して、モーセに確証を与えます。

11-12節「【主】はモーセに告げて仰せられた。『わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。「あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、【主】であることを知るようになる。」』」ここでは主ご自身が、イスラエル人のつぶやきを聞いたと仰いました。モーセの言っていることは正しかった。そして、彼らをエジプトから導き出された主に対する不信、不敬、不満、そんな無礼千万な言葉を聞きながら、主は彼らをさばかれるのでなく、むしろ彼らの願い通り、肉を与え、パンを満ち足らせます。見渡す限り、荒涼とした荒野で、彼らのために肉とパンを用意される主。この主のみわざを体験することによって、彼らは主を知るようになるようになる、なってほしいと祈るような気持ちで、主も願っておられるかのようです。「赦しの御誓い 救いの恵み 聖むる力は 皆主にぞある」新聖歌206番こういう困難に遭ったとき、つぶやくのでなく祈るべきだ、と言われます。祈って、祈って、それで不安や恐れが消え、平安になったら、それは感謝なことです。信仰と恐れは互いに排他的です。

それは光と闇のような関係で、両方同時に私たちの心を占めることはできません。信仰が大きくなると、恐れは小さくなり、信仰が小さくなると恐れが大きくなります。祈りの中で、私たちの信仰が強められるほど、平安が大きくなります。ただ、祈ってもやっぱり心配で仕方がない、ということもあるかもしれません。そういうときに、どうしたらよいのでしょう。今日は福音に立った対処法を紹介したいと思います。まず、つぶやきは罪であることを理解しましょう。つぶやき、不平、不満は、神への不信のあらわれです。それは神の基準に照らすと、まぎれもない罪です。こういうときに、私たちがやってしまいがちなのは、こういう状況だったら、誰だってつぶやくと言って、自分を正当化することです。それは神の基準を事実上、骨抜きにすることでもあります。そしてそれは、キリスト抜きで、自分を義としようとすることです。神がせっかく、私たちの罪のために御子をなだめの供え物としてお与えくださったのに、キリスト抜きで自分の義を保とうとする。そこには、キリスト(神)を避けようとする、根深い罪の性質が働いています。それは単につぶやくよりも、もっと深いところにある罪です。

ですから、つぶやきが出るときに私たちがするべきことは、自分の不信仰を認めて、この罪のためにもキリストが十字架にかかってくださった、と福音に立つことです。自分にはどう逆立ちしても、この状況で神に信頼しきれません。この私の不信仰の罪のために、御子イエス・キリストを備えてくださって、心から感謝します、と神に感謝することです。これが福音に立った悔い改めの第一ステップです。そしてその次に、少しでも不信仰を悔い改める方向に踏み出しましょう。福音は、私たちを罪の中にとどまらせるためのものではありません。変な言い方かもしれませんが、私たちは、キリストのゆえに、身の安全を保証されたうえで、安心して悔い改めることができるのです。たとえば、ピリピ人への手紙4:6-7によって祈ります。4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。「あらゆる場合に、感謝をもって

何を感謝するのかというと、もちろん、神が最愛の御子を私たちのためにお与えくださったことです。神にとって、天にも地にも御子より尊いものは存在しません。その御子を、私たちのためにお与えくださった、そのご愛、ご真実です。またそのキリストのゆえに、私たちが永遠の御国に入れて頂ける救いです。これはどんな場合にも、変わることがありません。あらゆる場合に感謝するべきこと、感謝に値することです。私たちは、罪によって盲目になっているため、このことを正しく評価することができません。しかし本当は、神から一方的な恵みとしてこれらの計り知れない賜物を頂いているゆえに、私たちはあらゆる場合に感謝を捧げるべきでした。その神への感謝を背景として、自分の願いを神に申し上げていいのです。神の愛を確信しつつ、神が最善をなしてくださると信頼しつつ、自分の願いを神に知っていただくのです。自分の願い通りになるかどうかは、わかりません。けれども、私たちに御子をくださるほどに愛してくださった神の御手にすべてはあるのだからと、神にすべてをお委ねしたときに、理屈を超えた平安が心を支配するのでしょう。それが、人のすべての考えにまさる神の平安なのでしょう。

人間の考えでは、八方ふさがり、どうにもならない状況のように見えても、ご自身の愛する者のために、海の中にも道を造られる神、荒野にパンを備えてくださる神が、最善をなしてくださる。その神の愛の保証は、御子イエス・キリストです。悔い改めは、一生、続くものです。焦らず、根気よく、何度でも福音に立った悔い改めを繰り返しましょう。木の芽が、毎日見ていてわからないくらいの生長でも、何十年と経つと大木となるように、私たちの信仰もそのようであったら、と願わされます。