礼拝説教要旨 2022年6月5日
昼は雲の柱、夜は火の柱が
(出エジプト記 13:17~22)
今日の要点

尊い御子の十字架の贖いがなされて、いつもともにいてくださる聖霊が私たちに与えられた。

あらすじ

今日の個所は、いよいよイスラエルの民が、エジプトの地を出たときの様子を伝えるものです。これまで過越の祭り、種を入れないパンの祭り、そして初子を聖別すること、と神の民としてのライフスタイルをしっかり教えられて、いよいよ歩み出します。目的地はカナン、約束の地。先頭に立って導いてくださるのは、主なる神ご自身です。主なる神が先頭に立ってくださるんだから、向かうところ敵なし。無敵。何しろ、あの強国エジプトを打ち負かしたのだから、立ちはだかる敵など片っ端から蹴散らして、あっという間にカナン到着!と思いきや、そうはなりませんでした。神は、意外な針路をとられました。17-18節。「さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。『民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。』それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた。」近道とは、エジプトからまっすぐ東へ、地中海沿いにほぼ真横に、シナイ半島の北側を進んでカナンに至る最短距離で、昔から幹線道路として利用されていました。この道で行くと約2週間で着くと言われます。

しかし、当時はその道の一部、おそらくカナン南部、ベエル・シェバのあたり(今日のガザのあたり)をペリシテ人が縄張りとしていたのでしょう。「民が戦いを見て」とありますから、イスラエル人がそこに行くと、ペリシテ人がどこかと戦っていることが前提となっています。いつも絶え間なくどこかと戦っている。そんな、根っからの好戦的な民族であるペリシテ人を相手に、まだ生まれたばかりのイスラエルが怖気づくのは、無理もないこと。彼らにはまだ、戦う準備ができていないのです。神はそれでも、わたしがついているのだから、恐れるな、気合を入れて戦え、などとは言いません。後には、彼らも戦うようになりますが、今は戦いを避けて南に向きを変え、葦の海(ここではスエズ湾を指すと思われる。)に沿った荒野の道へと導かれました。ここに神の御配慮がうかがわれます。神は無理な試練にはあわせないということです。ということは、試練を通らせるときは、必ず脱出の道が備えられているということです。Ⅰコリント10:13、新約p.331。あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。また、神は必ずしも最短距離に導かれるとは限らないということも、汲み取るべき教訓です。私たちにはわからなくても、何か理由があって、遠回りさせることもある。そして神が遠回りさせるときには、遠回りが最善だということです。イスラエルの場合、単にペリシテ人の道を避けるだけでなく、彼らは、人の住まない荒野の中でも、神が彼らに水とパンを与えられることを実地で教えられます。またこの間に十戒をはじめとするさまざまな律法(みことば)が与えられて、神の民として神を正しく礼拝し、聖く生きることを教えられます。また荒野ではいろいろなストレスがかかりますから、いろいろな問題も起こります。ときには、神がさばきを行われることもありました。それによって、神をあなどってはいけないこと、神が聖なる方であることを学ばされます。こうして彼らは神の民として整えられて、約束の地を受け継ぐのです。のちに主はこう語られました。申命記8:14-16、旧約p.3198:14 …主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、

8:15 燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、8:16 あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった主の訓練は、そのときは苦しいものですが、そこでヤケになってしまわず、そこで忍耐し、主の訓練を受けきることができたなら、後に平安をもたらす義の実を結ぶことになります。こうしてイスラエル人は、編隊を組んで、エジプトの国を出ました。彼らは急いでエジプトを出ましたが、無秩序ではなく、秩序をもって進みました。このとき、彼らは先祖ヨセフのなきがらを携えたと言います。19節「モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、『神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない』と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。」このヨセフの遺言・預言は創世記50:24-25に記されています。さかのぼること三百数十年でしょうか。ヨセフは、先祖アブラハムに与えられた神の約束を伝え聞いていたのでしょう。

神は必ずイスラエルを顧みて、再びカナンの地へと連れ戻してくださると確信していました。そしてそのヨセフの遺言・預言も忘れ去られることなく、イスラエル人の間に語り継がれて、今このとき、実現に至ったのでした。口伝えで、数百年前のヨセフの遺言・預言が忘れ去られていなかったということは驚きです。神の約束が大切にされていたということでしょうか。イスラエル民族が奴隷として虐げられている間も、その約束を伝え聞いていたがゆえに、いつかは神が顧みてくださるという希望となって、彼らの支えになっており、それで彼らは、神に叫んだのかもしれません(2:23-25)。その彼らの叫びが神に届いて、神は立ち上がられたのでした。神の約束は、信じる者には試練の中を支える力となります。こうして彼らは、しばらくとどまったスコテを出て、荒野の端にあるエタム(「とりで」の意)という場所に宿営しました(20節)。そしてあたかも、羊飼いが羊の群れを見守るように、主が片時も離れず彼らの先頭に立って彼らを守り、導いてくださいました。印象的な21-22節「【主】は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。

彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。」この雲の柱、火の柱は、彼らの前を進まれる主の臨在の象徴でした。主ご自身が彼らの前に進んで導かれたので、彼らはまったく見ず知らずの、しかも人家もない、道もあるようなないような荒野を、地図もなく旅して、迷うことがありませんでした。またサソリや獰猛な獣からも守られ、灼熱の太陽からも守られました。水もパンも奇跡的に備えられました。昼も、夜も、主は彼らとともにおられて、片時も彼らから離れることはありませんでした。「昼も夜も進んでいくため」とあります。いつ寝るのか?と思いますが、もちろん毎日毎晩、不眠不休で歩き続けるということではなく、昼でも夜でも、主がゴーサインを出されたときは、いつでもすみやかに従ってついて行く、ということでしょう。普段は夜はちゃんと寝るのです。のちに、彼らが神の命令に従って幕屋を作ると、この雲は幕屋の上にとどまることになり、民は、雲が上がるときに出発し、雲が留まっている間は、民もそこにとどまりました。

雲が上がったときは、昼でも夜でも、また昨日来たばかりの場所であっても、すぐに旅支度をして出発し、雲が上がらなければ、何か月でも何年でも、そこにとどまりました(民数記9:17-22、旧約p.246)。主に信頼して、主の導きに従うということを訓練されたのです。そのように、主の導きに従ってイスラエルの民は無事に約束の地に入ることができたのでした。先には、神の民として知るべきライフスタイルを教えられましたが、主は教えだけを与えて、去って行かれるのではない。教えとともに、主ご自身が彼らとともに荒野の中を歩んでくださり、約束の地へと導いてくださるのです。「昼も夜も 臨在あり 依り頼む われらに」新聖歌 316番今日は奇しくもペンテコステ。聖霊が初代教会に下られたことを記念する日です。過越の子羊がほふられて、そのあと雲の柱、火の柱が来られたように、キリストが十字架にかかられて、その後、教会に聖霊が来てくださいました。教会は聖霊の御住まいです。聖霊のお働きは多岐にわたり、すべてを言い尽くすことはできませんが、今日は一つだけ。イエス様は聖霊を助け主と呼んでいます。ヨハネ14:16、新約p.210。わたし(キリスト)は父にお願いします。

そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。出エジプトのときの雲は、彼らがカナンの地に入るまで、彼らから離れることがありませんでした。彼らが常に優等生でいたからではありません。罪を犯さなかったからではありません。むしろ、心が頑なで、神に信頼しない、ブーブー文句を垂れる…。それで神に戒められもしました。神は叱り、懲らしめることもありました。中には裁かれた者もいました。しかし、彼らがどれほどひどい罪を犯し、また失敗しても、この柱が彼らを離れることはありませんでした。主は彼らを荒野に放り出すことは、決してしませんでした。野垂れ死にさせることも、敵に滅ぼさせることもせず、彼らの羊飼いとして、必要な水とパンを与え、敵から守って、約束の地へと導き入れました。同じように、聖霊も助け主として、信じる者のところに来てくださいました。聖霊は、私たちとともにあり、決して見捨てることなく、永遠の昔から私たちのためにと用意されている約束の御国へと導いてくださいます。何という慰めでしょうか!全世界、全宇宙を形作ったお方が、私たちの助け主として、ともにおられるのです。

これほど心強いことはありません。私たちの力には限りがあります。しかしともにおられる助け主は、全能の神であられます。自分の力を頼りとするのでなく、ともにおられる神を頼みとしましょう。人生はしばしば旅に例えられます。楽しく気楽な観光旅行ならいいのですが、必ずしもそうではなく、ときに荒野のように感じられるかもしれません。先が見通せず、明日のことも知れない日々。目に映るものは色を失い、荒涼とした風景。しかし、主に従い、主を礼拝する生活を歩んでいるなら、助け主なる主はそこにも、ともにおられる。主が必要を備えて、あらゆる敵から守ってくださる。たとえ主の前から迷い出てしまったとしても、取り返しのつかない大失敗をして、痛い目に遭っていたとしても、そこにも助け主なる主は、ともにおられる。そして私たちが息を吹き返して、義の道に戻れるように導いてくださる。詩篇23篇、旧約p.926。23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。そして最後に覚えたいのは、そのように聖霊なる神が私たちのところに来て、私たちとともにいてくださることができるようになったのは、ひとえに御子イエス・キリストが十字架で流してくださった血潮の故だということです。犠牲なしに棚ボタで与えられものではないということです。アダムが罪を犯したときに、エデンから追い出されたように、神は聖なる方ですから、罪ある人間とともにいることはできません。ただ、神がこの上なく尊い御子をお与えくださり、私たちの罪の赦しのために十字架にまで渡されて、初めて実現した、この上なく尊い恵みなのです。御子が血を流されることなしには、なかったことなのです。この恵みを軽んじていいはずがありません。

この後、聖餐式がもたれますが、主の前に自分のうちをかえりみて、思い当たる罪があったなら、主の前に告白しましょう。もしなかったら、主に、もし御前に告白するべき罪があったら示してくださいと祈りましょう。そしてきよめられた良心をもって、確信をもって聖霊なる主とともに歩むことができますように!