キリストの復活から、神の全能、神の真実、そしてこの世がすべてではないという世界観を確認する。
復活があるから喜べる!先週は受難週の一週間でした。多忙な日々を送っている方々は、何か申し訳ないという気持ちもどこかにありながらも、なかなか主のご受難を思う時をもつことは、もしかしたら難しいかもしれません。現代は効率を求めすぎて、忙しすぎるのではないか、という気もしますが、そんな中で、少しでも主のご受難に心を寄せる助けになればと、15日金曜日、受難日にあわせて受難と復活を覚える礼拝をyoutube上に載せました。その礼拝では、生ける神の御子イエス・キリストが私たちのために、身代わりとして十字架の苦しみを受けてくださったことを覚えました。全宇宙を造られた方、私たちのいのちの源である方、私たちを愛してあふれるばかりの祝福を与えてくださっていた神を、事もあろうに疑い、背を向けてしまった人間を、神はなお、愛して救いを与えてくださいましたが、それは、最愛の御一人子イエス・キリストを私たちのために人として世に遣わし、私たちの罪に対するさばきを、御子において、十字架において、行うということでした。それで、誰でも御子イエス・キリストの十字架が、自分のためと信じる者は、罪の全き赦しが与えられ、神のもとに帰ることができる。
犠牲は、神のほうで払って、愛する人間を帰ってくるようにと招いて下おられるということでした。十字架は、神の愛のあかしでした。ところで、その後、イエス様はどうなったのか?です。イエス様は私たちを愛して、ご自分から進んで十字架にかかられたにしても、私たちの罪のための刑罰を受けて、苦しみを受け、死なれたままだったとしたら、ありがたいけれども、申し訳ないという気持ちで終わるのではないでしょうか。イエス様が十字架にかかってくださらなかったら、私たちは地獄の永遠の苦しみに放り込まれるのだから、そこから救われたのはありがたい、確かに絶対にありがたい。けれども…です。そのままだったら、喜べないのではないでしょうか。しかし父なる神は、父の御心に従って私たちのために十字架にかかってくださった御子を、そのままにはしておかれませんでした。三日目に復活させました。そしてその後、天に上られ、神の右の座に着座されました。すべての名に勝る最高の栄光を与えられたのです。イエス・キリストは、今も生きておられます。復活した栄光の肉体をもって、最高の栄誉を与えられ、報いられて、生きておられ、地上に住む私たちがご自身の方へと心を向けるのを待っておられます。
そして父なる神とともに御子イエス様も、私たちが神の方に心を向けることを喜ばれるのです。神は私たちとの交わりを喜び、待っておられます。それゆえ、私たちも神の救いを喜ぶことができるのです。イエス様が十字架にかかられたのが、歴史的事実であるように、イエス様が復活されたのも歴史的事実です。これが事実でなかったら、実質のない、単なる希望というか、絵に描いた餅のようなものなら、この福音を宣べ伝えるために命を懸けて、時に殉教していった宣教師たち、また信仰を守り通した先輩のクリスチャンたちは、最もあわれな人々です。しかしこれが事実であれば、逆にこれを信じない人々の方が最も残念な人々になるでしょう。実際にあるのに、信じなかったばかりに、逃してしまうのですから。キリストの復活は、聖書の信仰において、十字架の事実とともに核心となるところです。毎年、訪れるイースターは、神がイエス・キリストを死者の中から事実、復活させたことを覚えて、神をほめたたえる日です。今日は、イエス・キリストの復活の事実から、三つのことを学びたいと思います。神には、死者の中から人をよみがえらせることがおできになる。
神はイエス・キリストを、死んで葬られて三日目によみがえらせました。蘇生ではありません。新しいからだで復活させました。幽霊でもありません。肉体をもって、弟子たちと一緒に朝食にパンと魚も食べられました。神はキリストを死者の中から復活させたのです。人間にとっては、死は絶対です。死の壁は誰も打ち破ることができない現実です。しかし神にとっては、そうではありません。神は、まったくの無から全世界、全宇宙を造られた方です。神には不可能なことは、ひとつもありません。神は、道端の石ころからでもアブラハムの子孫を造り出すこともできます(ルカ3:8、新約p112)。私たちは、神の力を小さく見くびってしまいがちです。モーセでさえ、そうでした。荒野でイスラエルの民が肉を食べたい、と文句タラタラになったとき、神が彼らに肉をたらふく食べさせる、それも一日や二日でなく一か月もの間、と仰いましたが、モーセは、男だけで60万人もいるのに、たとえ全部の家畜を屠っても足りないでしょう、海の魚全部を集めても足りないでしょう、と言いました(民数記11:4、13以下、旧約p249)。さんざん、主の大いなる奇跡を見て、体験してきたモーセでも、信じられなかったのです。
イエス様の時代の宗教家サドカイ人という人たちも、復活を信じませんでした。あれこれと理屈をつけて、だから復活はあり得ない、と証明したつもりになって、ドヤ顔でイエス様に彼らの理屈を突き付けました。そんな彼らに、イエス様はピシャリと仰いました。マタイ22:29、新約p46しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」聖書も、神の力も知らないのです!知識は人を高ぶらせます。知識階級であった彼らは、高ぶって神を侮り、神の力を知らないのです。現代に生きる私たちも、神の全能であられることを忘れないよう、自戒しなければいけません。神は、私たちが復活をおとぎ話だと思わないように、実際に御子を復活させて見せてくださいました。キリストの復活は、あとに続く私たちのさきがけ、初穂です。神がキリストを復活させたように、神はキリストを信じる者を一人残さず、復活させます。新しい、完全なからだでです。永遠を生きるのにふさわしいからだです。百年経ったら、腰が曲がってきた、千年経ったら、老眼になってきた…ということはありません。老いることも病むことも、もちろん死ぬこともないからだです。
神にとっては、それはたやすいことです。神は、ご自身に信頼する者を、決して失望させない。必ず報いられる。神はキリストを復活させただけではありません。21節に「キリストをよみがえらせて彼に栄光を与えた神」とあります。神は、最後の一息までご自身に信頼を寄せていた御子の、その信頼に応え、報いられたのです。キリストは十字架上で「お前が神の子なら、自分を救ってみろ。そしたら信じてやる」とか「彼は他人は救ったが、自分は救えない。神から遣わされた、約束の王だというのなら、今、十字架から降りてみろ。そしたら信じてやる。」とか「彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救ってもらうがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」などとあざけられました。神に信頼しても、結局、こうなるのだ、と言う人もいたでしょう。いくら叫んでも、神からの助けは来ない。そらみろ、やっぱり神なんか、いないんだと多くの人は、言いそうなところです。そんな背信をそそのかすサタンの声の渦巻く中、イエス様は最後の一息まで、神に信頼し「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」と言って果てました。
最後の最後まで神に望みを置いていたものの、どこからも助けは来ず、神に見捨てられ、むなしく果てたかに見えたイエス様でした。しかし、それで終わりではなかったのです。神は、三日目を用意しておられたのです。キリストが、私たちのために死なれるという役目をキッチリ果たし終えた後、神はキリストをよみがえらせたのです。キリストの、神への信頼は裏切られなかったのです。そればかりか、神はキリストにすべての名に勝る名を与えられたのです(ピリピ2:6-11、新約p384)。キリストを復活させた全能の神がおられるということを決して忘れないように。神は、最後までご自身に信頼し、希望を置く者を、失望させることは決してありません。人をあてにしたり、人に望みを置いていたら、もしかしたら、失望することもあるかもしれません。しかし神に信頼する者は、決して失望させられることがないのです。十字架上で果てたかに見えたいのちを、そのままでは終わらせない神がおられる。キリストの復活は、そのことも表わしています。この世がすべてではない。やがて来る世において、神はすべてを正される。実は、キリストの復活は、世の終わりに起こることの先取りでした。
世の終わりに神がなされることを、まずキリストにおいて見せてくださった、デモンストレーションしてくださったのです。地上のいのちが果てた、その後に、神が控えておられて、すべてをあきらかにされ、すべてに報いを与え、すべてを正される。地上の歴史において見過ごされてきた数えきれない不条理をひっくり返して、人々の、神よ、どうして、、、という疑問に完全にこたえられる。その時には、モヤモヤしていたことが、さぞかしスッキリすることでしょう!神は、そのために、時を定めておられます。この世がすべてではないということです。神は三日目を用意しておられるということです。神を信じていながら、神に信頼していながら、見捨てられたではないか、どこからも助けは来なかったではないか、と神を冒涜した者は、そのとき恥を見、地団駄踏んで悔しがることになるでしょう。こういうこの今の世がすべてではないという二段構えの世界観。これは私たちの心を支え、守り、生きる力を、前に進ませる力を与えるものとなるのではないでしょうか。三日目があることをお忘れなく!
「イエス君今日ぞ よみがえれる」新聖歌 126番ヘブル人への手紙6章19節(新約p430)は、神が私たちに約束された将来への希望を、私たちの魂のために安全で確かな錨の役を果たすものとしています。それで古代教会の信仰者たちは、錨のマークを復活の希望を表すものとして用いたそうです。復活、からだのよみがえりの希望は、私たちの人生行路において魂を守る錨の役割を果たすのです。この世だけを見たら、残念ながら、必ずしも公義と公正が行われているとは、言えないかもしれません。神に信頼して、善を行い、神に仕えながら、報われないまま、生涯を閉じたかのように見えることもあるかもしれません。しかし、この世だけで無理やりつじつまを合わせようとしてはいけません。神は次に来る世、十字架の後の三日目を用意しておられるのです。そこに焦点を合わせて、今の生き方を正し、律し、またその希望に励まされて歩んでいく。それが聖書が教える基本的な生き方です。キリストの復活という歴史的事実を見るときに、神の全能と、神の真実とを、私たちは確信することができます。三日目があることを確信できます。時代は、ここ数年で一挙に黙示録的な様相を呈してきたように見えます。コロナ、戦争、地震。
大雨などの異常気象もあります。そんな時代にあって、私たちは何を頼りに、よりどころとして歩めばいいのでしょう。それは、全能で、真実に報い、来るべき世を用意しておられる神を心を尽くして信頼して、歩むことではないでしょうか。詩37:1-6、旧約p93937:1 悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。37:3 【主】に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。37:4 【主】をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。37:5 あなたの道を【主】にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。第一コリント15:58、新約p343ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。