礼拝説教要旨 2022年1月16日
パロの心は強情で
(出エジプト記 7:14~25)
今日の要点

主に対して素直な心で応答することが、祝福の道。

あらすじ

なかなか進まなかった出エジプトのみわざも、ついにここから、エジプトに対する主なる神の裁きが始まります。前回は、パロの前で、杖を蛇に変えるという、それは奇跡ではありましたが、エジプトに何ら害をもたらすものではありませんでした。そこでパロが、主の言葉を聞き入れて、イスラエルの民を虐げることをやめ、彼らを解放していたら、エジプトの人々が苦しみにあうことはありませんでした。しかしパロは、受け入れませんでした。ここから、主は、十の災いをエジプトに下すことになります。その前に、主は、パロの強情さのゆえに、このことがなされるのだとモーセに告げ、またパロにもそう告げるよう言われました。14‐16節「【主】はモーセに仰せられた。『パロの心は強情で、民を行かせることを拒んでいる。それゆえ、あなたは朝、パロのところへ行け。見よ。彼は水のところに出て来る。あなたはナイルの岸に立って彼を迎えよ。そして、蛇に変わったあの杖を手に取って、彼にこう言わなければならない。ヘブル人の神、【主】が私をあなたに遣わして仰せられます。「わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしに仕えさせよ。」ああ、しかし、あなたは今までお聞きになりませんでした。』」

朝、パロがナイル川に来るのは、水浴か、あるいはナイルの神々を礼拝する儀式だろうと言われます。エジプトに豊かさをもたらすナイルは、命の源として神聖視されていました。その彼らが拝むナイル川のほとりで、モーセはパロと対決します。今度は、パロが言うことを聞かないからと言って、恐れません。パロが心をかたくなにし、それに対して神がみわざを行われるのが、神のシナリオであることを理解したので、むしろ、パロをあわれに思ったかもしれません。「ああ、しかし、パロよ、あなたは今までお聞きになりませんでした…。」聞いてくれればよかったものを、あなたはお聞きにならなかった。ああ、あわれなパロよ、もう裁きは免れない…と。かくして17-18節の宣告となります。まずは17節前半「【主】はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが【主】であることを知るようになる。』…」前回も言いましたが、イスラエルは主に救われることによって、すばらしい救い主として、喜びと賛美のうちに主を知るようになり、パロは、裁きを受けることによって、裁き主として、嘆きと悲しみと後悔のうちに主を知るようになります。パロには、続けて裁きが宣告されます。「ご覧ください。

私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」モーセが、例の杖をもってエジプトの崇拝するナイルを打つ。エジプトの神々を打つことを表すのでしょう(民数記33:4、旧約p294)。そうすると、彼らが命の源と崇拝していたナイル川は、真っ赤な血となる。エジプトの神々が打たれて、血を流しているかのように。不気味です。そして魚は死に、神聖なナイルは臭くなり、エジプト人はそれまでありがたがっていたその水を、もう飲むことを忌み嫌うようになる…。エジプトにはエジプトの神がある、日本には日本の神があると言って真理に目をつぶり、全宇宙を造られた唯一の神を拒む者も、やがての日には、彼ら自身の良心に従って裁かれます。彼らがあがめていた神々は、天地の造り主の裁きの御手から彼らを救い出すことはできません。次に主はモーセに、アロンへの指示を告げます。19節「【主】はまたモーセに仰せられた。『あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。

そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。』」モーセがナイル川、アロンがその他の川、池などと手分けをするということでしょうか。主の裁きの執行者として、彼らが手分けをして全エジプトの水を血に変えます。なお、ここで「血となる」とは、成分が血になったということではなく、ヨエル書2:31(旧約p1495)で「(終わりの日には)月は血に変わる」とあるような比喩とする解釈があります。ある種の赤い藻の繁殖、もしくは川底から出る細かい粉状の赤土が水に溶けて、水が赤みを帯びるなど、どちらも元々エジプトで見られる自然現象ですが、それが神の御手によって超自然的に異常なほどに赤みを帯び、魚が死に、従って水が臭くなったと。しかし19節「木の器や石の器にも、血があるようになる」とあること、またこの後、エジプトの呪法師たちもして見せたところを見ると、そういう自然現象の異常発生ではなく、文字通り、まったく超自然的に血になったのかもしれません。いづれにしても、彼らが命の源と崇拝するナイル川が、血となったということは、不気味なことであり、実際に生死にかかわることでありました。

モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行いました。すると、主が語られたとおりになりました(20-21節)。彼らの従順を通して、神のみわざがあらわれました。しかし、ここでもまた、エジプトの呪法師たちがしゃしゃり出て、彼らの秘術を使って同じことをしたと言います。エジプト全土の水が血になったのに、どうやって真水を手に入れたのか、ということですが、24節にエジプトの人々が飲み水を求めて、ナイルのあたりを掘ったとありますから、その掘り当てたわずかな水を使ったのかもしれません。しかし、どうせやるなら、血になった水を真水に変えればいいのにと思います。彼らは貴重な真水を血に変えて、ますます民を苦しめるようなことをして、いったい何をやっているのか…。モーセたちと張り合って、負けたくないの一心で、そうすることしか、頭に浮かばなかったのか。意地を張ることが、人を愚かにさせ、合理的な判断をさせなくするものだと示されるようです。そして、そんな呪術師のイカサマをよりどころとして、パロは、神の裁きに対して目をつぶり、プイっと身を翻して、自分の家に引っ込んでしまったのでした。22-23節「しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。

それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。【主】の言われたとおりである。パロは身を返して自分の家に入り、これに心を留めなかった。」呪法師たちが同じことをしたといっても、もちろん、全エジプト規模ではなく、目の前のわずかな水を変えただけです。スケールが全く違います。どこかの奇術師でも、目の前のコップ一杯の水を、一瞬にして赤くしたり、ハトにしたりはできるでしょうが、日本全国の水をそうすることはできません。力の差は歴然としています。しかしパロは、その明らかな事実には目をつぶり、ますます心をかたくなにしました。認めないと言ったら認めない。理屈も何もありません。同じ太陽の光を受けても、氷は溶け、粘土は固まる。神が真理を示しても、ある人はなるほどと納得して神を受け入れ、ある人はそんなもの、とますますかたくなになる…。しかしパロは、一個人ではなく、エジプトの王です。その間違った意地のせいで、困るのは民です。24節「全エジプトは飲み水を求めて、ナイルのあたりを掘った。彼らはナイルの水を飲むことができなかったからである。」

あわれ、人々は飲み水を求めて、ナイル川のあたりを掘って、どうにかわずかばかりの飲み水を得たのでした。パロは、民が水がなくて困っているのに、自分の家に逃げ込みました。しかし、次回、主の裁きの御手は、王宮の中までも追いかけてきます。主の前からは、逃げおおせるものではありません。「招く声に従い 直ちに立って行け」新聖歌176番14節の「強情」は鉛のように重く、テコでも動かないという意味だそうです。当時、世界に冠たるエジプトの王ということもあったでしょうが、しかしパロに限らず、自分の胸に手を当てて考えてみれば、程度の差はあれ、誰でもあることかもしれません。子どもでもあります。意地になって収拾がつかなくなることが…。いったんヘソを曲げたら、どれほど言葉を尽くしても聞かない。子どもの喧嘩ならご愛敬で済みますが、いい大人がこうなると周りもホトホト困り果て、場合によっては本人に裁きを身に招くことになりかねません。意地を張り続けることの愚かさ。誰の心にも住んでいるパロは、まったく困りものです。私たちも、この内なるパロが、悔い改めを妨げることがあるのではないでしょうか。しかし悔い改めは、早いほうが良いのです。

というのは、神の忍耐は、いつまでも続くものではないからです。「ああ、しかし、あなたは今までお聞きになりませんでした。」と神からも愛想を尽かされるときが来るのです。悔い改めは、すみやかに早いに越したことはありません。裁きは、後に行くほど重くなる。打たれても、最初のうちに悔い改めれば、軽くて済む。ちょっと古めかしいですが、内村鑑三の名文に聞きましょう。「神はモーセを通して、言葉をもってパロに命じた。されどもパロは断じて、これに従わなかった。ここにおいてか、神はその御力をあらわしたまわざるを得ざるに至った。神は容易に奇跡を行い給わない。道理と言葉とをもってして、さとす能(あた)わざるに至り、やむを得ず、これを行い給う。神はパロのごとき、かたくななる者と言えども、初めより奇跡をもってこれを圧し給わない。また奇跡をもってこれに臨み給うといえども、まず軽きをもって試み、その信ぜざるを見て徐々に重きを加えたもう。」私たちの内なるパロが意地を張って、悔い改めるのを拒んでいることは、ないでしょうか…?それが、神の祝福を妨げているということは、ないでしょうか?主は、へりくだる者に恵みを授けます。ヤコブ書4:6、新約p449。

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」神に打たれて、傷ついた者でも、悔い改めたら神は喜んで恵みを注ぎ、あふれさせ、慰めずにはおかないお方です。悔い改めたら、神の国です。私はすでにクリスチャンになった方にも言っています。悔い改めたら、恵みがそこに注がれ、神の国の実質を味わうことができるのでしょう。義とそれによる平和と、それらがもたらす喜びです。良心を圧迫していたものから解放され、平安を与えられる喜びです。神の恵みをとどめていたものが取り除かれて、降り注がれる喜びです。ローマ14:17、新約p312。なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。では、強情な内なるパロに対処するには、どうしたらよいのでしょう。それは、神の愛を知ることです。御子イエス・キリストの十字架が、わがためであると知って、砕かれることです。福音は、かたくなな心をも打ち砕き、あるいは溶かす力があります。御子をさえ、与えてくださったほどに、私たちを愛しておられる神を、祈りの中で、聖霊に導かれて、思い巡らしましょう。

私たちのために、十字架の死にまで従われた御子イエス・キリストに従うよう召されているのが、クリスチャンです。肉の思いを十字架につけて、神に従うことを選び取るが、信仰者の歩みです。聖霊の助けを求めつつ、その道を歩みましょう。最後に私たちの愛する主のお姿を心に刻みましょう。ピリピ2:3-11、新約p384。2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。