聖書の御言葉に立って、神に自由に祈るとき、御霊が祈りを導いて私たちを強めてくれる。
パロ、あるいはファラオと呼ばれるエジプトの王に対して、勇気を奮い起こして「主はこう仰せられる。」とイスラエルの解放を要求したモーセ。結果はモーセの期待を粉々に打ち砕くものでした。それまでも、炎天下で重い泥をこね、レンガを作り、運搬する重労働を課せられ、いっぱいっぱいだったイスラエルの民。加えて今度は、材料となるわらを自分たちで調達せよ、それでいて、ノルマは減らすな、とパロから厳しい命令が出されたのでした。パロは、内心、脅威を感じていたのかもしれません。イスラエル人は、人口が増大してエジプト人を上回るほどになっていたから(5:5)。事実、エジプトはかつて、移住してきたセム系の民族が増え、力をつけたために、王朝を乗っ取られた歴史がありました。パロの口から出た命令は、絶対です。現場で強制労働をさせるエジプト人の監督たちと、その下で同胞に指示を与えるイスラエル人の人夫がしらたちは、王宮を去って、パロの言葉をイスラエル人たちに言い渡しました。それでイスラエル人たちは、最初はあちこちを探し回って、わらの代わりに刈り株を集めたと言います。刈り株とは、草などを刈った後、5センチとか10センチとか、わずかに残っている部分のことです。
そんな物しか、手に入らなかったのでしょう。ちなみに、当時のものと思われる遺跡には、確かにわらではなく刈り株で作られたものが発掘されているそうです。イスラエル人が作ったものがその中にはあるのかもしれません。パロの命令は、土台無理な命令ですが、エジプト人の監督たちは、容赦なくイスラエル人を責め、打ち叩きます。「なぜおまえたちは定められたれんがの分を、きのうもきょうも、これまでのように仕上げないのか」と。14節に「きのうもきょうも」とありますから、何日か、イスラエル人たちは頑張って、やってみたのでしょう。しかしどう頑張っても、無理。そしてできないと鞭打たれる。このままでは身が持たないのは明らか。イスラエル人の人夫がしらたちは、パロに直訴しました。15-16節「そこで、イスラエル人の人夫がしらたちは、パロのところに行き、叫んで言った。『なぜあなたのしもべどもを、このように扱うのですか。あなたのしもべどもには、わらが与えられていません。それでも、彼らは私たちに、「れんがを作れ」と言っています。見てください。あなたのしもべどもは打たれています。
しかし、いけないのはあなたの民なのです。』」見てください、と言っていますから、打たれた傷跡をパロに見せたのでしょう。赤く腫れあがった傷口が痛々しい…。人夫がしらは、命令がパロから出ていることを知っていたはずですが(6節)、直接パロを非難するわけにいかないので、悪いのはあなたの民です、という言い方をしたのでしょうか。また、命令を出したのはパロでも、現場で実情を知っている監督がそれをなお、強制しているので、監督たちが悪いと訴えているのか。いづれにしても、パロは最初から、イスラエル人の人夫がしらたちが直訴してくるのを、待っていたのかもしれません。ここで、これはみんな、お前たちがモーセを通して、主にいけにえを捧げに行かせてくださいなどと、ふざけたことを言ってきたからだ、と言って、二度とそんな気持ちを起こさぬよう、思い知らせる狙いだったのでしょう。17-18節「パロは言った。『おまえたちはなまけ者だ。なまけ者なのだ。だから「私たちの【主】にいけにえをささげに行かせてください」と言っているのだ。さあ、すぐに行って働け。わらは与えないが、おまえたちは割り当てどおりれんがを納めるのだ。』」そうか、そういうことだったのか…。
イスラエル人の人夫がしらたちは、思ったでしょうか。なぜ、パロが急にこんなことを言い出したのかと思ったら、モーセが余計なことを言い出したからだったのか。何が、主がエジプトの苦しみから救い出してくださるだ。かえって苦しみを増しただけではないか…。彼らの怒りは、当然のごとく、モーセとアロンに向かいました。心配して、迎えにきていた二人に、彼らは言いました。21節「彼らはふたりに言った。『【主】があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたはパロやその家臣たちに私たちを憎ませ、私たちを殺すために彼らの手に剣を渡したのです。』」モーセとアロンは、王宮の外で祈って待っていたでしょうか。パロの心が和らぎますように、と。しかしそうはなりませんでした。人夫がしらたちが「主があなた方を見て、裁かれますように」と言っているということは、彼らは、モーセ達が、本当は主が語っておられないのに、勝手なことをしたと思ったのでしょうか。モーセが恐れていたこと、すなわち、民から拒まれる事態になってしまいました。
前の4:31で、イスラエルの民がモーセの言葉を信じ、受け入れてくれて、心を一つにして主を礼拝した光景を見て、これなら行ける!と奮起したモーセでしたが、今や、民心も離れてしまいました。しかし、これもモーセに必要なことだったのかもしれません。モーセは、出エジプトの大事業を導くにあたって、民衆の力をあてにするべきではありませんでした。もちろん、民が一致することは必要なことですし、民心が離れてしまったら、事は成りません。しかし、頼みにするべきは、神お一人です。出エジプトは、モーセの抜きんでたリーダーシップによるのでなければ、心を一つにして決起した民衆運動でもなく、主のみわざです。モーセがより頼むべきは、ただ主お一人。人の奴隷になってはいけません。そのことも、モーセはこの経験を通して学んだでしょう。人夫がしらたちから見放されたモーセは、主のもとに戻りました。主に祈って、訴えました。これこそ、必要なことでした。22-23節「それでモーセは【主】のもとに戻り、そして申し上げた。『主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。
私がパロのところに行って、あなたの御名によって語ってからこのかた、彼はこの民に害を与えています。それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。』」民から見放され、恨まれて、モーセは不安になったでしょう。あせりもしたでしょう。それは当然です。以前のモーセだったら、恐くて逃げ出したかもしれません。しかし、今のモーセは違いました。彼は、主に、どうしてですか、話が違うではありませんか、と訴えました。訴えはしますが、逃げ出しません。踏みとどまって、訴えているのです。身体を張って、主に従った上での訴えです。打てば響くで、主は答えられました。章をまたいで6章の1節「それで主はモーセに仰せられた。『わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。』」モーセよ、取り乱すな。わたしがパロにしようとしていることは、「今にわかる」というのです。今は分からない、けれども今に分かるのです。私たちは、主がどうしてこんなことを許されたのか、そのときは、わからないことがあります。けれども、今に分かる、です。
これは、私たちが、理解できない事柄に出会ったときに思い出すべき知恵の一つです。「告げよ主に 告げよ今」(新聖歌 35番)見てきたように、パロとの対決のスタートは、人間的には、最悪でした。しかしそれは、モーセが今一度、神のもとに戻り、神に真剣に訴えるという、真実な祈りに促すものでした。そういう意味で、それは信仰的・霊的には、最良のスタートと言えるものでした。困難は、私たちを祈りに向かわせるために与えられることが、しばしばです。道が険しくなってもあきらめてはいけません。心配事や訴えは、主のもとに持っていくべきです。それをしないで、何の信仰者か、です。私たちは、私たちを愛しておられる全知全能の、万物の造り主を知っており、信頼するものではありませんか?こういうときに、天の父に持って行かずに、何を信じているというのか。あなたの信仰は、お飾りですか?額に入れて飾っておくためですか?と問われそうです。私たちは、御心のうちを歩んでいても、あるいはだからこそ、困難にぶつかることがあります。神がイスラエルの民をエジプトから解放するのは、御心です。モーセがそのことをパロに告げたのも御心です。何も間違っていません。
しかし、御心であっても、現実は甘くはない。甘くはないのが、御心というべきか。しかし、甘くはないけれども、やっぱり最後は、御心が成るのです。紆余曲折を経て、山も谷を乗り越えて、その先に勝利を得るのが、御心なのでしょう。主に従って歩み出したら、祈り始めたら、かえって状況が悪くなった、ということは、ときどき、あるようです。そういうときは、本当にこれでいいのか、間違っていたのではないか、と不安になります。本当に間違っていることもあるかもしれません。その場合は、方向転換です。しかし間違っていなくても、そうなることもあるのです。困難のあるなしは、御心にかなった道かどうかの、判断基準にはなりません。ただ、確かなことは、どんな状況からであっても、神は御心を成し遂げられるということです。神の言葉は、一点一画も落ちることはありません。ですから、大切なのは、そこに至るまでの忍耐、従順です。その忍耐や従順を支える希望であり、信頼です。敵である悪魔は、そこを攻撃してきます。神の約束を疑わせ、希望を失わせ、気をくじき、状況を悪化させて、あきらめさせようとします。それに対する防御策は、祈りです。
目の前の困難に心がふさがれているとき、祈りにおいて神の御前に出ることによって、神の約束への希望、神への信頼が養われるのです。祈りの中で、御言葉を思い起こし、また学んだ御言葉の土台に立って、神と交わる中で、神がどんな方か、神がしてくださったことに心を向けるときに、やがて不安や恐れが取り扱われ、荒れ狂う心の波は静められ、弱った信仰の杖は握り直され、ひざは力を与えられて強められ、再び、主の愛を信頼して、いまだ前途を黒雲が覆う状況の中であっても、前に向かって進むのです。主に従ってぶつかる困難、壁は、突破するためにあります。それを乗り越えるためにあります。時間はかかっても、紆余曲折はあっても、必ず、突き抜けることができます。そして突き抜けた先には、新しい世界が待っているのです。それを可能にするのは、学んだ御言葉に立った祈りです。祈りは、願いを聞いて頂くという面もありますが、それがすべてではありません。祈りの中で、不安や恐れを主に申し上げ、それに対して、しかし神は私を愛しておられる、それは御子の十字架のうちにあらわれている、主は私とともにおられる、神は決して私を見放さない、と神を信頼する方向へと祈りが導かれていくのです。
それは御霊の働きです。聖書の神観、世界観に立って、また祈っている最中に御霊が心にフッと与える御言葉によって、がぜん、沈んでいた心が力を与えられることが、しばしばあります。御霊は、学んだ教えを思い出させて、思いの流れを主の方へと導いてくださいます。御言葉と御霊によって、祈りは、私たちの神への信頼、神の愛に留まるように導いてくれるものであり、気が付いたときには力づけられていたということが、しばしばあるものです。それこそが、信仰的・霊的な勝利です。神は、私たちを愛しておられるので、私たちと交わりを持ちたいと願っておられます。そのために御子をお遣わしになりました。私たちが、永遠に神と交わりを持つためです。私たちは、聖書の御言葉という土台に立って、祈りの中で、神の愛の確信に立って、神との交わりを持つことができます。御霊は、御言葉とともに働いて、私たちを導かれるのです。最後に御言葉を二つ。まず詩篇50:15(旧約p954)。苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」神は、苦難において、私たちを祈りに招いておられます。天の父に、あなたは、なぜ、祈らないのか、わが子よ、と嘆かせはいけません。
そして、ピリピ4:6-7(新約p387)。4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。