世界宣教は、主の御心。それに仕えることは恵み。自分にできることをもって参加しよう!
ここは、いわゆる「大宣教命令」と言われるところ。十字架にかかられて、三日目に復活した主イエスが、弟子たちに、全世界に出て行って、すべての国の人々に主イエスのことを宣べ伝えて、主イエスの弟子としなさい、と命じたところです。以後、教会は、この主イエスの命令に従って、全世界に出て行き、すべての国の人々に福音(イエス様のこと)を宣べ伝えてきました。そのおかげで日本にも福音が伝えられて、私たちもイエス様を信じることができたわけです。聞いたことがなかったら、信じることはできません。当たり前ですが。聞いたことのない方のことを、信じることはできません。当たり前のことなのですが、ここをよく考えないといけません。伝えているか、伝えていないかは、それこそ、天と地ほども大きな違いをもたらすのです。信じるか、信じないかは、聞いた人が決めること。私たちは、無理やり、信じさせることはできません。「馬を池のほとりに連れていくことはできるが、飲ませることはできない。」ということわざがあります。飲みたくないものを無理やり飲ませることはできないのです。ただ、カラカラにのどが渇いているのに、水がなくて飲めないのは、かわいそうです。
世界には、神の愛に飢え乾いた魂が、たくさんいると思います。国境を超え、文化を超えて、いつの時代にも、神に飢え乾いている魂はいます。彼らは、福音を聞くと、信じます。信じて、救われます。罪の赦しを知り、良心の平安を得ます。生まれてきた目的、生きる目的を知ります。神に仕えることの喜びを知り、神をほめたたえる喜びを知ります。そして永遠のいのちを知り、死の恐れから解放されます。そして何よりも人間に必要な神の愛を知り、神の愛によって力づけられ、励まされ、生かされる喜びを知り、神の愛をほめたたえる歌を歌い始めます。福音を待っている魂が、世界のどこかにいるのです。ですから、主イエスのことを伝えるのは、とても大切なことです。私たちはできるだけ速やかに、できるだけ多くの人々に、広く、あまねく、主イエスのことをお伝えしなければいけません。心を天に向ければ、失われた魂を愛し、ご自分のもとに帰って来るようにと招き、手に汗握って待っている神がおられるのです。ご自分の御子をさえ、与えてくださったほどに、彼らを愛し、求めておられる神が。その神のお心のゆえに、主イエスは、弟子たちを世界に遣わしました。
その主イエスの大宣教命令について、今日は短く3つのポイントで見たいと思います。
大宣教命令の前提「主イエスには、天でも地でもいっさいの権威を与えられている」これから見知らぬ国に福音を宣べ伝えに出て行けと言われたら、たいていの人は、不安になるのではないでしょうか。言葉もわからない、文化も違う。そしてそれぞれの国や地方には、それぞれの神々があり、宗教がある。そこに主イエスの福音を携えて、切り込んでいく。当然、大きな反発、反感が予想されます。実際そうでした。当時は、王の権威が強くて(今でも国によってはそうだが)、王の一言で簡単に命を奪われることもありました。あるいはジャングルみたいなところ、砂漠地帯みたいなところを何日も通らなければならないかもしれない。心配なことを数え上げたらきりがない。だからこの宣言が必要。何事も、主イエスの許しなしには、起こらない。主イエスの許しなしに、地上の王と言えども勝手なことはできない。この主イエスの後ろ盾があって、「それゆえ、あなたがたは行って…」と続くのです。主イエスが、天地の権威を持っておられるという後ろ盾のもとに、弟子たち、また宣教師たちは見知らぬ地へと出て行く。全世界へと遣わされていく。
大宣教命令の内容「あらゆる国の人々を主イエスの弟子とすること」19-20節前半は一つの文で、原文では実は「弟子としなさい。」だけが命令形です。その弟子とすることの説明が「行って」であり、弟子とすることの内容が、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」ること、また主イエスが「命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えること」です。ちなみに19節の「そして」は原文にはありません。弟子たちが福音を宣べ伝えたときに、聞いた人の中から信じる人が起こされたら、その人にバプテスマを授け、そして主イエスの教えを守るように教えることを、教会は命じられています。「大宣教命令」は実は、「弟子作り命令」なのです。もちろん、教える人の弟子ではなく、主イエスの弟子です。私たちはみな、人間の弟子になるのでなく、主イエスの弟子です。(マタイ23:10,新約p47)(あなた方は)師と呼ばれてはいけません。あなた方の師はただ一人、キリストだからです。
大宣教命令に伴う約束「主イエスが、ともにおられる」言葉も文化も知らない土地に行って、福音を宣べ伝えよ、と言われても、普通はしり込みするでしょう。現代でこそ、いろんな国のことが多少はわかりますが、当時はほとんどわからなかったでしょう。その土地にはその土地の宗教があり、当然、反発もある。過激な人たちからは、激しい迫害を受けるでしょう。しかし、主がともにおられるという約束を信じて、宣教師たちは全世界に出て行くのです。すべての上におられる主がともにおられるという約束を信じて。そして確かに、主は目には見えませんが、ご自身が彼らとともにおられることを、いろいろな出来事を通してあかしされます。福音宣教の最前線は、これを妨げようとするサタンの勢力との霊的な戦いです。しかし主がともにおられるので、敵の妨げをものともせず、むしろそれを逆手にとって、福音が必ず最後には勝利します。「すべての物を超えてすすむ 主イエスの国は」(新聖歌146番)赤道付近に、インドネシアという国があります。東西に広く広がった、大小1万3千以上の島々からなるイスラムの国です。人口が多いので、一応、世界最大のイスラム国となっています。
だいたいは、穏健なイスラム教徒ですが、中には過激なのもいます。日本からそのインドネシアに遣わされた宣教師の話です。彼は、あるとき、スンバワ島という島の伝道集会に招かれました。スンバワ島は、人口100万人ほどで、教会が2つありました。両方あわせてクリスチャン300人ほど。今から半世紀くらい前のことで、当時、インドネシアはリバイバルで燃えていたので、2つの教会が協力して、サッカー場を借りて、何日間か、連続して伝道大会をしようということになりました。当時、島には何も楽しみがないので、サッカー場で何かイベントがあると、イスラムもクリスチャンも関係なく、みんな来たそうです。島のお偉いさん方も招待されます。島の長、政府関係者、警察のトップ、イスラムのトップリーダーたちも夫婦で招待して、彼らのために特別席を設けます。まず、聖歌隊が始まりました。すると、スピーカーで大音量で「アラー、イクバル」と叫びながら、大勢の人々がやってきました。イスラムの一番偉い人も来ていましたが、過激派は何かしたかった。その宣教師は、やっぱりきたか、と思いました。
すると、すぐさま、陸軍の駐屯隊長が、その集団の所に走って行き、彼らに向かって手を振りながら、何か喋ったかと思うと、その集団はすごすごと帰って行きました。実は、当時、共産党のクーデターを陸軍がつぶしたので、陸軍の力が非常に強かったのです。その駐屯隊長は、奥さんを連れて、隣にツンバワ島の首長がいて、歌が始まって、特別席でいい気分でいたわけです。それを、邪魔されたものですから、彼は怒って、「もしこのデモを続けたら、軍隊を送るぞ!」と言ったのです。それでデモ隊はみんな帰った。イスラム教徒の駐屯隊長が、イスラムのデモ隊から、キリスト教の伝道集会を守ったのです。しかし、過激派はそのまま、引き下がってはいません。集会の4日目、今度は2人の有名な魔術師を呼んで、サッカー場の隣の広い場所を借りて、魔術大会をやろうとした。そうやってサッカー場に行かせないように。ところが、当日、魔術師たちは、階段を踏みはずして、手足骨折の大けが。で、どうなったか?みんな魔術大会があると思って集まってきたけれども、中止になったので、隣のサッカー場に流れたのです。それで、その日はそれまでの3日よりも大勢の人が集まった。そして殺し屋も救われました。
実は過激派は、殺し屋を雇って、飛行場でやれ、と言っていました。ところがその殺し屋は、どうしても気が重くて、やれなかった。その後、グルグル、彼らのホテルの周りを回ったけれども、入れなかった。そしてついに、彼らを雇った過激派が、今晩やれ、と言って、見届けるためにサッカー場に4,5人ついてやってきた。彼らは一番近い所に座りました。すぐ突っ込めるように。ところが、今度は、とにかくお尻がグランドに引っ付いたみたいになって、立てなかった。やれ!と言われても、立てなかった。そして説教が終わって、最後「信じる人は、前に出てきなさい」と招きがあったときに、彼はヒョコッと立ち上がって、係の人に、俺は殺し屋だ、と言ってピストルを渡したそうです。こっちが本物の神だと、身にしみてわかったんでしょう。また、別な島でのこと。やはりサッカー場を借りて伝道集会。国民的人気のギター弾きが一緒で大勢集まりました。ところが、彼がギターを弾き始めたら、石が降ってきました。過激派が、サッカー場の外から、大体この辺だろうと石を投げて来たのです。向こうの人は慣れているので、最初から石除けの屋根を講壇の上に作ってありました。
次に、宣教師が講壇に立つと、サッカー場の電気がみな、消えました。誰かが消した。しかしこれも現地の人は予想してたので、あらかじめ準備をしていて、すぐにバイクのライトをあてて、「先生、話を続けて。マイクは一本生きているから」と言いました。マイクは一本だけ、自動車のバッテリーにつないであった。そして、その宣教師が「インドネシアは遅れてるな。こんなサッカー場で停電なんて。日本ではこんなこと、ないぞ。」と言ったら、パーっとついた。そしたら電気が消えたおかげで、何が起こったか。入ろうか、どうしようか、迷っていた人たちが、入っていました。電気が消えたおかげで、前より人が増えていたのです。宣教の最前線では、いろんなことが起こります。まるで映画か何かのようなことも起こります。しかしそれは後から振り返ればそうなのであって、その最中は命がけです。あの宣教師も、主の召しに従って、当時政情が不安定で治安の悪いインドネシアに、命がけで、覚悟を決めて家族を連れて行ったのです。真実に主の召しに従うときに、主もまた真実をもって応え、ともにおられることを示されるのでしょう。福音を直接、世界に出て行って宣べ伝えるのは、その働きのために神によって召された人です。
その人が宣教師として、神が遣わされる所へと出て行き、福音を宣べ伝えます。これは神がそのために選んでおられる人で、人が勝手になるものではありません。神が、確かに自分をこの働きに召しておられるという確信、神から呼ばれているという確信が与えられ、また教会からも確かに神があなたを宣教師として召しておられる、と認められて、宣教師として訓練を受け、送り出されます。それは、宣教師の個人プレーではありません。宣教師を送り出す教会の働きです。教会が、必要に応じて専門的なノウハウや知識を備えた宣教団体を通して、宣教師を送り出し、祈りと献金とをもってその働きを支えます。支える働きがないと、遣わされた先で宣教師は困ってしまうでしょう。宣教師と送り出す教会とは、それぞれ違う役割で、でも一心同体で、主の心をわが心として、同じ宣教の働きを担います。ですから、世界宣教は自分とは関係ないこととは思わず、母国に留まって宣教師を支える側として、私たちもこの主イエスの大宣教命令に従う意識を持ちたいものです。神は、その気になればご自分だけで、一瞬で全世界に福音を満たすことがお出来になるでしょうに、その働きをわざわざ教会を用いて、なさることをよしとされました。
福音を宣べ伝える使命に生きる喜び、それによって救われた人々を見る喜び、主と心を一つにして、時には犠牲を払いながらも、主のお心に仕える喜びを与えておられます。世界宣教に加わることは、恵みなのです。私たちも、支える側で、世界宣教の働きに加わらせて頂きましょう。その時、私たちもこの約束を新たに体験できるのでしょう。マタイ28:20「…見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」