
エサウ王国の祝福にまさる神の国の祝福を思う。
創世記36章は、エサウの系図です。BC1900年ごろから数百年にわたるものです。前にも、アブラハムの死後、イサクの歴史に入る前に、イシュマエルの系図が記録されたように、これから聖書はイサクの跡を継いだヤコブの家系に入るので、その前にエサウの家系をまとめておくのです。エサウは、赤ら顔で毛むくじゃらで、狩りを得意とする野人、赤鬼といった風貌ですが、性格的にはサバサバしていて、昔のことを根に持たず、ヤコブの罪を赦す度量を持ち、親分肌で面倒見がよく、情に厚く懐の広い人物でした。会ったら誰しも好感を持つであろう、人間的な魅力に富む男。そんなエサウの子孫は、しばらくの間、栄えたようです。1節「これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。」「エドム」はエサウの別名。「赤」の意。赤ら顔のエサウは、こう呼ばれたのでした。以下、2-5節にはエサウの3人の妻の名が記されています。ここで注目したいのは、2節後半にある「ヒビ人ツィブオンの子アナの娘オホリバマ」という所の、「ツィブオンの子アナ」です。少し飛んで24節に「ツィブオンの子は次のとおり。アヤ、アナ。このアナは父ツィブオンのろばを飼っていたとき、荒野で温泉を発見したアナである。」とあります。
温泉発見者、従ってまた温泉経営者でもあったでしょう。こうしてわざわざ記されているくらいですから、当時としては大発見だったのでしょう。それから29節には、首長ツィブオン、首長アナとありますから、この家系は当地ではやはり名家だったことも伺われます。エサウは、現地の有力者の家系であり、かつ温泉の発見者アナの娘をめとって、血縁関係を結んだのでした。エサウはこの辺を足がかりに、セイルの地で勢力を伸ばしていきます。4-5節は、エサウの5人の子どもたちのリストです。ちなみにエサウが自分の子どもたちにどんな名前をつけたのか、訳してみますと、エリファズは「神の力」、なかなか信仰的な名前です。それからレウエル。これは「神の友」これもいいぞ、いいぞ、です。それからエウシュは「集めるもの」の意。集めるものさん。そしてヤラムは山を登るもの。私たちの教会には、我らが高山登大兄がおられます。高い山ですから、ヤラムより一枚上手?そしてコラはよくわからないのですが「なめらか」「急ぐもの」「隠れるもの」などと言われています。続いて6-8節。エサウが、これらの家族を抱えて、自分の王国を建てることになるセイルへと移ったいきさつです。
「エサウは、その妻たち、息子、娘たち、その家のすべての者、その群れとすべての家畜、カナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。それは、ふたりが共に住むには彼らの持ち物が多すぎて、彼らが滞在していた地は、彼らの群れのために、彼らをささえることができなかったからである。それでエサウはセイルの山地に住みついたのである。エサウとはすなわちエドムである。」ここにもエサウの執着しない性格があらわれています。ちょっと家畜が多くなって、ヤコブと一緒にいるのを窮屈と感じるや、彼はアッサリと場所を移して、地元の有力者であり温泉もある妻オホリバマの実家セイルに移りました。セイルは、死海の南側にのびる山岳地帯です。元々、エサウはセイルに滞在することも多かったようです(32:3、33:16等参照)。山を駆け巡って狩りをするのが性に合っていたので、狩りの後は、温泉にでも入って疲れを癒せば、言うことありません。これを機に本格的にセイルに居を移して、ここに根を張ろうと思ったのでしょう。セイルに門を構えたエサウは、順調にその地で繁栄していきます。その様子を紹介しているのが10-19節。
孫たちが次々に与えられ、さらに首長となった、すなわち、その地域を治める者となったことが記されます。首長だれそれ、首長だれそれ、と首長が鈴生りで、景気のいい記録が続きます。エドム帝国磐石といったところでしょうか。日本でいうなら、江戸時代の徳川家のよう。家康から歴代の将軍や有力大名が出たように、エサウから首長達が出たのでした。20-30節は、エサウが来る前の先住民ホリ人セイルの子らのリストです。先に触れたように、これらの古くからいた首長達とエサウ家が血縁関係を結んでその地に入り込み、徐々に根を張り、ついには先住民ホリ人をしのぐ勢いを得て、その地をエサウ王国とするに至ったのでした。続く31節以下は、イスラエル人の王、すなわち紀元前10世紀頃、ダビデがエドムの地を治めるより前に、エサウの子孫の方が先に王を出した記録です。これについて、カルヴァンは注釈します。「エサウの方が先に王たちを輩出した。イスラエルの状況は彼らに劣って見えただろう。だが、時の経過が(真実を)教えてくれる。しっかりと地に這い、深く根を張ることの方が、一時的に巨大な成長を見せ、やがてすぐ消え失せてしまうことよりも、どんなに良いことか。
信仰者たちは、この世の人たちが、どんなに早く、華やかな成長を遂げていても、うらやましがる必要はない。信仰者ならば、たとえ遅い速さであっても、確実に前に進んでいく。主が信仰者たちに約束してくださった幸いは、本当に揺るがない。」早ければいいというものではない、ということです。神の時というものがあるのです。実際、その後の歴史を見ると、「兄が弟に仕える」と言われたように、エサウ王国は小さな国にとどまり、イスラエルに王国ができてからは従属しました。そしてイエス様誕生の頃にユダヤの王だったヘロデ大王はイドマヤ人と言って、エドム人(エサウの子孫)の末裔でしたが、その後、彼らは歴史から姿を消していきました。それに対して、ヤコブの家族は、しばらくの間は目立たず、エジプトで虐げられもしましたが、その苦しみの中でいつのまにか増えていき、数百年単位で非常に強くなり、そしてついに、ダビデ王の時に強力な国となりました。神の言葉通りに、歴史は実現していくのです。以上、エサウの歴史を見てきました。中には、あれ?と不思議に思う方もいるでしょうか。
エサウは、一杯の煮物と引き換えに長子の権利を弟ヤコブに売り、ために父イサクから神の祝福の契約を受けることができなかったはず。むしろ「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。…」(27:39‐40)と言われていました。それで聖書は矛盾だらけだ!と言う人もいます。しかしそれは早とちりというもの。実はそれよりもずっと前、母リベカがエサウとヤコブを身ごもった時、神は「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る」(25:23)と語っておられました。エサウも一つの国民となると言われていたのです。神の言葉、特に良いことは、一度語られたら、決して地に落ちることはありません。神の言葉通り、エサウも一つの国民を成すに至ったのです。しかし父イサクを通して語られた御言葉については少し、違うかもしれません。はっきりしたことはわかりませんが、写真で見る限り、エサウが住んだセイルは山岳地帯とはいえ、灌木が茂り、そこそこ緑が見られ、辞典によると耕作に適しているとのこと。イサクを通して語られた御言葉は、はずれたのでしょうか。
もしかしたらそうかもしれません。良いことは、一つもたがわず成就しますが、悪いほうに関しては、神は思い直されることがあるのです(ヨシュア21:45、旧約p405、ヨナ3:10、旧約p1516)。ヤコブに対するエサウの寛容な態度など、神は喜ばれたのかもしれません。神は憐れみ深い方なのです。<山にも谷にも 小屋にも宮にも 日々主と住まえば 御国の心地す>(新聖歌268番)以上、エサウ王国というべきエサウの子孫の繁栄ぶりを見て、みなさん、どう思われたでしょうか。子どもも、孫も、ひ孫も、繁栄して何不自由なく暮らせて、うらやましく思われるでしょうか。親として子どもの幸せを願うのは自然の情です。それ自体は何も間違っていません。ただ、一つ、次のイエス様の御言葉に耳を傾ける必要はあります。マタイ16:26(新約p33)人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。はっと目を覚まさせられます。そうでした。まことのいのち、すなわち永遠のいのちを失ったら、たとえ全世界を手に入れても何にもならないのでした。
私たちが求めるべきは、神抜きの自分の王国ではなく、神とともに生きる神の国でした。キリストとともに生きるキリストの王国でした。キリストこそ、真のいのち、また永遠のいのちです。ヨハネ18:36(新約p219)イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。…」また仰いました。第一ヨハネ2:15‐17(新約p467)2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。2:16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。2:17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。世にあっての祝福は、感謝して受け、正しく用いるならばよいものです。ただそれを「愛する」―愛着、執着する、そのために生きるーとなると、悲しい結果になることが多いようです。それゆえ、カルヴァンはこのエサウの系図をも「ここでのような賛辞は、いわば名誉が刻まれた墓に似ている。エサウ、そしてその子孫は、支配者ではあったものの、その栄誉は泡に過ぎない。」
と評しています。「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。」と祈り、普通に生活していく分が与えられれば、それ以上のものは必要ありません。私たちが一心に求めるべきは、やはり神とともに、キリストとともに生活すること、神の支配のうちに生活すること、すなわち神の国です。讃美歌433番の歌詞が思い浮かびます。「みどりの芝に かこまれたる 伏屋のうちは たのしき国、うき世のほかの 夢やすけく 春風かよえる ナザレの里 春風かよえる ナザレの里」「あしたは共に 神をおがみ ゆうべは高く 御名をたたえ 老いも若きも むつびあいて 心はゆたけき ベタニヤ村 心はゆたけき ベタニヤ村」「たのしき国は とおくあらじ 屋根より月は 漏れ入るとも とびらを雨は うるおすとも わが家は御神の エルサレムよ わが家は御神の エルサレムよ」最後にイエス様の次の御言葉に耳を傾けたいと思います。ルカ12:22‐32(新約p139)12:22 それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
12:23 いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。12:24 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。12:25 あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。12:26 こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。12:27 ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。12:28 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。12:30 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。
しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。12:31 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。12:32 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。