礼拝説教要旨 2021年1月10日
行き過ぎた怒りと神の恵み
(創世記 33:1~20)
今日の要点

神の恵みは、取り返しのつかない失敗をした罪びとをも見放さず、造り変えてくれるもの。

あらすじ

ようやく20年ぶりに叔父ラバンのところから神様の祝福をドッサリ携えて故郷に戻り、一番恐れていた兄エサウとも神様の導きによって感動の和解がなったヤコブ。長年の心の重荷から解放されて、晴れ晴れとした気持ちでスコテに家を建て、家畜小屋を建てました。さらにしばらくすると、家畜が順調に増えて手狭になったか、ヨルダン川を渡ったシェケムという、広々とした町の近くに移り天幕を張りました。そのあたりの土地を買い、今度こそ、ここに腰を据えようと思ったのでしょう。ここまでの神の守り、恵みに感謝して祭壇を築き神に礼拝を捧げました。息子たちも大きくなってそれなりの労働力にもなり、ますます産業も祝され、幸せな生活を営んでいたでしょう。しかし人生は、一寸先は闇とも言います。突然、夢にも思っていなかった激しい嵐が、ヤコブ家を襲います。事の起こりは娘ディナ。彼女はいわゆるティーン・エイジャー(13~19才)と思われます。新しい世界に興味を持ち、同年代とおしゃべりしたい年頃というのもあったでしょう。彼女は一人で、その土地の町に出かけました。オメカシして、でしょう。ファッションにも敏感な年頃ですから、シェケムで流行っているような「イケてる」服装かもしれません。

しかし、ここカナンの地は、倫理的に堕落した町で、そのためアブラハムは息子イサクの嫁を地元カナンの娘からめとるな、と遠くパダン・アラムの親戚の所からリベカを迎えました(24章)。そんな背景からか、ほとんどの注解書は、口をそろえてディナの側にもスキがあったとします。もちろん、私達はこの世にあって生活しているので、あまり神経質にあれもダメ、これもダメでは生きづらくなりますが、他方、神の言葉や聖さに反する、この世的なものや考え方は、ちまたにあふれています。神の民として良いもの、神に反するものを見極める識別力を主に求めさせられる次第です。シェケムの町に入ったディナは、先ほど読んだ通りの事態になってしまいました。ディナは、魅力的な子でもあったのでしょう。土地の族長ハモルの息子シェケムに見初められて、その手にかかってしまいました。ディナの側にもスキがあったとしても、悪いのは断じてハモルの子シェケムです。ケダモノではないのですから、自制するのが人間ならではの尊厳というものでしょう。

それを、こんな大悪事をしでかしたのは、どんな大悪党のゴロツキ野郎かと、憤りつつ読み進めていくと、どうも、その後の振舞を見てみると、彼はこんな許されないことをしてしまいましたが、根っからの極悪非道な人非人というわけではなかったのかもしれない、とも読めて来る気がします。彼はディナを愛して、正式に父親に「この人をお嫁さんに迎えたい」と申し出ました。もしかしたら、ディナがこの町を訪ねたのは初めてでなく、これまでにもチョクチョク足を運んでいて、かねてからシェケムはディナに心を奪われていたのかもしれません。単なる通りすがりに襲って、あとはポイっと捨てるというケダモノでなく。もちろん、だからといって、彼のしたことは決して正当化されませんし、ディナの心身を深く傷つけたことは、厳しく断罪されるべきです。シェケムの父ハモルは町の族長でしたが、彼らのほうから出向いて正式に縁談を申し入れました。5節「ヤコブも、彼が自分の娘ディナを汚したことを聞いた。」とあるのは、ハモルが前もってしもべをヤコブの所に送って、事の次第を説明させたということでしょう。事が事だけに、ヤコブには事前に心の準備をする時間が必要。

やがてハモルとシェケムがやってきました(6、11節)。そこへヤコブの息子たちも帰ってきて、事の次第を聞きました。彼らは心を痛め、ひどく怒りました。当然です。聖書はシェケムの行いについて7節「…イスラエルの中で恥ずべきことを行ったからである。このようなことは許せないことである。」と彼らの怒りが当然であることを認めています。義憤はあるのです。しかし彼らは賢いので、その場で怒りを表さず、ひとまずぐっとこらえて、ハモルたちの出方を伺います。8節以下、息子のしでかした不始末を親同士で話して尻ぬぐいをするという、いつの時代にもありそうな場面です。ハモルの言葉は、力にものを言わせてゴリ押し…というのでなく、一見、礼儀正しそうですが、謝罪の言葉がないのが気に入りません。まずは頭を地面にこすりつけて、土下座して謝罪するべきでしょう。しかし土地の族長というプライドか、謝罪の言葉は一言も言わず、ただディナを嫁にくれ、さらにはこれを機にほかにも息子、娘同士、縁を結んではどうか、そうしたらお前さんたちもすっかりシェケムの町に受け入れられる、悪い話ではなかろう…というのです。若気の至りには目くじら立てず、大人の話をしようではないか、と。

他方、シェケムは一途です。どんな高い花嫁料でも、仰る通りにしますか、どうか…と熱意のこもった言葉です。シェケムの方からすれば、純愛だったのでしょう。ちなみに、のちのモーセの時代の律法によれば、このようなケースでは、正式にその相手を妻としてめとらなければならない、とあります。(出エジプト22:16-17)ハモル・シェケム父子の申し出は、当時の良識にもかなったものだったと思われます。シェケムは、本当は案外、まじめな若者だったのかも知れません。19節には、彼は彼の家の誰よりも敬われていたともあります。たまたま若さもあって自制心を欠いて激情に駆られて、大罪を犯してしまったみじめな罪人ということでしょうか。ニュースに出るような殺人犯が、意外にも、家やご近所では良い父親で評判が良いということもあると言います。見るからに殺人犯みたいな鬼のような形相をしているのでなく、ごく普通の人が、一瞬の心のスキを衝かれて大罪を犯してしまう。そんな危うさを誰でも秘めているのかもしれません。

私達のうちにもくすぶっているかもしれない罪の力を侮らず、日々、「われらを試みにあわせず、悪から救い出したまえ」と主のご加護を祈り、自らも御言葉と御霊によって武装することを怠らない者であれ、と心させられます。さて、すぐにも飛び掛かりたいのを我慢して、ハモルとシェケムの話をジッと聞いていたヤコブの息子達。表向きはマンザラでもないような顔をして、腹の中では恐ろしいことを考えていました。彼らの策略は、こうです。町中の男達に割礼を受けさせることを条件に、ディナを嫁に出すと応じる。シェケムはディナにぞっこんだから、この提案に飛びついてくる。割礼という儀式は、神の民としてのしるしで、男性のからだの一部に傷をつけて外科手術を施すもので、3日目くらいがちょうど傷が痛み、熱も出て弱っているそうです。その時を狙って一気に襲撃…という魂胆です。シェケム一人の犯した罪に対して、町全体の男達の命を奪い、平和に暮らしていた町を滅ぼそうと言うのです。これは、イスラエルの子らの方が、正義と公正を踏みにじって、流血の大罪を犯すことです。不幸にも、ヤコブの息子達の思惑通り、彼らはまんまと罠にはまりました。割礼を受けて三日目。

ちょうど傷が痛んでいた頃、彼らは剣を取って襲いかかりました。25節にシメオンとレビの名がありますが、ディナには腹違いの兄弟もたくさんいましたが、この二人はディナと同じ母親ということで、特別な思いがあったのでしょう。それにしても、あまりのむごたらしさに思わず目を背けたくなります。唖然とします。神の民イスラエルの汚点です。心が痛みます。しかし父ヤコブは、こんな息子達の暴虐ぶりを戒めることができず、出てくるのは愚痴でした。30節「それでヤコブはシメオンとレビに言った。『あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。』」「私」「私」「私」と、自分のことで頭がいっぱいだったのでしょうか。こんな愚痴でしかないような言葉は「私達の妹が遊女のように扱われてもいいのですか!」と一蹴されて、二の句が告げません。ヤコブは、神に裁きを委ねるのだ、と戒めるべきでした。この頃のヤコブは、霊的には低迷期だったのかもしれません。そういえば、この章には「神」という言葉が一度も出てきません。

ヤコブは物質的に豊かになった暮らしの中で、いつしか神への信仰がすたれていたのでしょうか。普段、祈っていないと、いざというときも、出てくるのは愚痴だけ。祈りの言葉は一向に出てこない、ということになってしまうものです。次の35章の2節を見ると、ヤコブ家には偶像が入り込んでいたことがうかがわれます。しかもそれをヤコブも黙認していたようです。こうしてみると、表向きの物質的に豊かな生活ぶりとは裏腹に、霊的には暗黒のときだったのかもしれません。「驚くばかりの 恵みなりき この身の汚れを 知れるわれに」(新聖歌233番)今日はこの章から二つの恵みを覚えたいと思います。一つめ。シメオンとレビのしたことは、どう言い訳をしようとも、正当化されない大罪です。彼らが怒りを覚えるのは、当然です。それは義憤です。シェケムのしたことは、断罪されるべきです。しかし、先に手を出したのはそっちだから、こっちは何をやってもいいという理屈は、通りません。罪には、量刑というものがあります。平和に暮らしていたシェケムの町の、この件に関して罪のない多くの家庭を襲って、男たちを皆殺しにしたのは、正義でも何でもなく、暴虐以外の何物でもありません。

こういう怒りに任せて前後の見境なくやってしまったことというのは、事が済んだ後は、後味が悪く、ずっと後悔を引きずるものです。シメオンとレビも、しばらくして落ち着いてみると、良心に深い呵責を覚え続けたのかもしれません。これもみじめな罪びとの姿です。しかし、こんな神の民イスラエルの名に大きな汚点を残した彼らさえも、神の民から退けられませんでした。その選びは変わりませんでした。神の恵み、神の赦しの底知れなさを改めて覚えさせられます。思えば、自分も怒って罪を犯してしまったこと、取り返しのつかない失敗をしてしまったことは、なかったか。怒り、憎しみのエネルギーは強いものです。怒りのあまり、つい行き過ぎてしまったこと、ないでしょうか。しかし、神の恵みは変わりません。キリスト者としての生涯に汚点を残してしまったとしても、変わらずに差し伸べられている恵みの御手をありがたく思わされます。二つめ。イエス様の十二弟子にも、短気な人物がいました。ヤコブとヨハネです。彼らはイエス様から「ボアネルゲ」(雷の子)とあだ名をつけられました。いわゆる瞬間湯沸かし器です。何かでスウィッチが入ると、すぐボッと火が付き、瞬間的に沸騰します。沸点が低いのです。

そんなヨハネでしたが、主は忍耐強く導き、育て、のちには「愛の使徒」と称されるまでに変えられました。使徒ヨハネを「雷の子」から「愛の使徒」へと造り変えた同じ主は、あたかも陶器師が陶器を形作るように、同じ恵みで私たちをも造り変えることがおできになります。主は御言葉と聖霊によって、人を造り変えられます。以下、怒りに関する御言葉を載せます。まずは旧約聖書の箴言には怒りを戒める御言葉がたくさんありますが、2つだけ(旧約p1073以下)。12:16 愚か者は自分の怒りをすぐ現す。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。29:11 愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。新約では、実際的なアドバイスを2つ。まずはエペソ書から。新約p3784:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。最後にヤコブ書から。新約p4461:19 …だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。1:20 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

怒りそのものは、義憤であったとしても、一歩間違えると罪への踏み台になってしまう危険がある、取扱注意の危険物です。特にコロナによってストレスがかかっている時期。罪を犯さないよう、私たちを造り変えるキリストの恵みを覚えて、これらの御言葉を心に留め、自分の心を守りましょう。