
生ける神の御子が、神話やおとぎ話でなく、現実に人となったことを思い巡らす
時々、クリスマスはキリストの誕生日と言われることがあります。「降誕」とはあまり使わない日本語ですから、初めての方に分かりやすい表現として使われているのでしょう。しかし、厳密に言うと「誕生」ではなく「降誕」です。釈迦でも私でも誕生日はあります。ただ単に誕生した日ですから。しかし降誕の「降」は「降(オ)りる」「降(クダ)る」という意味。つまり天から降りて来られて、天から降って来られて、人として誕生したという意味です。人間としてお生まれになる前からおられた方なのです。これはイエス様だけです。全宇宙が造られる前から、永遠の昔から、天に神とともにおられた神の御子なのです。そのお方が、今から約二千年前、現在の中近東に位置するイスラエルのマリヤという女性の胎に宿り、人間の姿を取って、お生まれになったのです。1節の「初めからあったもの」とは、そのことを言っています。
神が人となって現れた、などと言うと、どこか神話かおとぎ話か、そんな話のように思われるかもしれません。しかしこれは、そういうものではなく、歴史的な事実なのです。現実なのです。この手紙を書いたヨハネという人は、3年半と言われますが、イエス様と寝食を共にして仕えた人です。この手紙が書かれたのは、イエス様が天に昇られてから半世紀以上経った頃と思われますが、この頃になると、神が肉体を取って現れたことを否定する者たちが出てきて、肉体があるように見えただけで、本当は霊だったのだ、などとする異端の教えが広がりつつありました。それで3年半もイエス様と一緒にいたヨハネは、「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」(1節)と、それは霊や幻や見間違いなどではない。実際に肉体をもっておられた、自分はその生き証人だと言っているのです。面と向かって声を聞いたし、見たし、ただ見ただけでなくじっと、よーく見たし、実際に手で触りもした、と念には念を押しているのです。そしてヨハネは、イエス様のことを「いのちのことば」(1節)と言っています。ヨハネは、よほどこのことを強調しておかないといけない、と思ったのでしょう。
2節でも同じ趣旨のことを繰り返します。「このいのちが(イエス様のこと)現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父ともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」ヨハネは、イエス様のことを「いのちのことば」(1節)「いのち」「永遠のいのち」「御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのち」(2節)と呼んでいます。御父とは父なる神様のことです。永遠の昔から神とともにあり、まことのいのち、永遠のいのちそのものであられるお方が、人となって、肉体を取った姿で、目に見える姿で、耳で聞こえる姿で、現れてくださった、自分はそのことあかしをしているのだと言うのです。あかしとは、証言ということ。自分で考え出した思想とか、作り出したお話しではなくて、事実を証言しているのです。さらにヨハネは3節でも「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは」と実際に自分の二つの目ン玉で見た、二つの耳で聞いたとまた繰り返しています。これで三度目です。
ヨハネは、永遠のいのちであられる方、永遠の神の御子である方が、現実に目の前に肉体を取って現れたということ(受肉と言います)を、これでもか、というほど強調しているのです。この「事実」「現実」を知ってもらいたい、と強く願っているのです。なぜなら、このお方を信じて、交わりを持つことが、永遠のいのちにあずかることだからです。
ところで、ヨハネはキリストが確かに肉体をもっておられたと証言したのですが、逆にイエス様は本当に永遠から存在される生ける神の御子なのでしょうか。人間に過ぎない者が、自分を神だと言っているだけ、ということはないのでしょうか。現代の日本では、一応、信教の自由が保証されているので、誰でも「自分を神だ」と言って教祖になることができるでしょう。お勧めはしませんが。ただ、人に迷惑をかけさえしなければ、また法律に反するようなことをしなければ、自由にそう主張することができます。実際に、自分を再臨のキリストだと自称する者が、韓国にはたくさんいるそうです。イエス様も、そうなのでしょうか?どこかの新興宗教の教祖のように、人からあがめられ、ひと財産、築きたかったのでしょうか?そんなことはありません。まったく逆です。当時のイスラエルは、現代とはまったく違いました。人類の歴史の中で、当時のイスラエルほど、神が人となるという考えに強硬に反対し、強烈な拒否感、嫌悪感を持っている民族はありませんでした。それは、死刑に値する大罪でした。実際、イエス様が十字架刑を言い渡されたのも、自分を神の子と言ったから、という冒とく罪のゆえでした。
神以外の者を神とすることは、赦すべからざる大罪なのです。イスラエルは、旧約聖書によって教えられ、長い歴史の中で、偶像崇拝に走ったためにバビロン捕囚という裁きを受けたという教訓を得ました。それ以前は、偶像崇拝をやめられなかったのですが、それ以後は、偶像崇拝(目に見える偶像ですが)に関してだけは、しなくなりました。旧約聖書の教えと、そしてそのような歴史を通して、イスラエルの神観はとてもとても崇高なものとなりました。神様は、全地をあまねく照らす太陽を造られた方です。夜空を煌々と照らす月を造られ、夜空に散らばる無数の星々を造られた方です。地球を造り、その中に住むすべての生き物に食べ物を与え、養っておられる方です。高くそびえる山も、海面下10キロも深く切り込む海溝も、思いのままに造られた方です。そのようなスケールの大きな方を、人間や何かだとするのは、愚かなことです。イスラエルの神観の高さは、それはそれで正しいのです。そのことを十分にご存じの上で、イエス様は、ご自分を生ける神の子と認められたのです。
ご自分を神の子と主張して、この世的に見れば、何も得をしたことはありません。むしろ、次々と押し寄せてくる病人や悪霊につかれた人々を癒して、食事をする暇もないほどでした。もちろん一銭も取らずに。民衆を教え、人々を見下していた高慢なパリサイ人たちを叱責し、逆に、罪びとと見くだされていた人々を受け入れ、祝福しました。神の救いの到来を言葉とわざで示してイスラエル中を歩きながら、枕するところもありませんでした。そして最後は、「神の子と自称した」という罪状で十字架にかかられました。その十字架の上でも、ご自分を十字架につけ、嘲笑い、悪口雑言を浴びせてくる人々のために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているか、わからないのです。」と祈られました。こんなことが人間にできるでしょうか。確かに、神の御子にしか、できないでしょう。永遠の神の御子は、人となられて人々に仕え、最後は十字架で私たちのために、命を注ぎ出されたのでした。マルコ10:45(新約p88)[人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
神の御子は、何のために受肉されたのか?それは私たちに真のいのちを与えるため。死をもたらす罪を取り除き、私たちが神様との交わりを回復して、永遠のいのちにあずかるためでした。自分が教祖になってあがめまつられるためでなく、人々に仕えるため、人々に自分のいのちを与えるためでした。静まって、思い巡らしてみてください。全宇宙を造られたお方が、おとぎ話でなく現実に、人間となられたということを。偉大な、偉大な、本来なら人間が近づくこともできない聖なるお方が、肉体をまとって、人々の間に住まれ、身を粉にして仕えてくださり、最後は私たちに命を与えるために、十字架にかかってくださったことを。神は、キリストにおいて、ご自身の心を、私たちの目に見える形で表してくださいました。私たち人間に対する愛を余すところなく、表してくださいました。そして神様は、今も、私たちを永遠のいのちに招いておられます。このキリストを見よ、見て、わたしの心を知り、わたしの招きに応えてくれるように、と。神の御子が人となられたのが現実であるなら、永遠のいのちもおとぎ話でなく現実のことなのです。最後に二つエピソードを紹介します。
一つは一休宗純、とんち話の一休さんのモデルになったとされる臨済宗の僧侶のエピソード。彼は、世の中は寝て起きて食べて、あとは死ぬのを待つだけ、と詠みました。その彼が、臨終間際に「何か言い残す事はないか」と問われて、「死にとうない」と応えたそうです。悟りを開いたとされる臨済宗の僧侶にして、イザ、その時を迎えると「死にとうない」だったのです。正直な人だと思います。それが本当の所だと思います。しかし、神様から永遠のいのち、すなわちキリストをただ信じて心にお迎えするならば、小さな女の子でも、平安のうちに天に旅立つことができるようです。北海道の、糸矢美津ちゃんという子のあかしをご紹介させて頂きたいと思います。書いてあったものを引用します。「ミツちゃんは、『イエス様の十字架は、ミツのためだったの。イエス様がかわいそう。』と小さいころからいつも言っていた優しい子であった。小学二年の三月、風呂からあがったミツちゃんの皮膚の下に泡のようなものができているのを母親は発見した。翌日病院で検査したところ、急性リンパ系白血病という診断がくだされた。すぐに札幌医大病院に入院。白血病や腎臓病など重い病の子供たちばかりの六人部屋。
死と隣り合わせの、暗く、重苦しい空気に包まれていた。ミツちゃんは、祈らないと寝付けないほど、祈ることが大好きだった。病室でも、母と子は熱心に神様に祈り続けた。病室の一人一人のためにも、名前をあげて祈った。病室は心の渇きに満ちていたのだろうか。間もなく、母と子の明るく平安な姿を見て、『私も神様に祈ってみたい』と同室の母親の1人が願ってきた。『いいですよ。一緒に祈りましょう』と快く受け入れ、ともに祈ろうとした。すると、そこにいた他の母親たちも皆駆け寄ってきて、祈りに加わった。それからというもの、部屋中の人々がキリストを信じ、朝に夕に祈り、病室は賛美にあふれた。暗い部屋は、希望の祈りの場となり、軽い患者の部屋と間違われることが度々あったという。ミツちゃんは、六月二日、一時快方に向かったということで退院した。しかし、七月十六日、再発し、再入院となった。病状が進むにつれ、母親はわが子を神様にささげることが御心であるという、確信が与えられた。八月四日昼、危篤状態となったミツちゃんには、白血病特有ののたうち回る苦しみはほとんどなかった。
『イエス様に、全部委ねるんだよ』と、叔父にあたる牧師の言葉に、その目を大きく開いて、静かに『うん』とうなずいた。そして、まもなく『ママ、眠いよ』というと、そのまま、すっと息を引き取った。短いが、神の祝福に輝く命を燃やし尽くし天に凱旋していった。『つらい数カ月ではありましたが、心にはいつも神様の慰めがありました』と母親は振り返る。見守ってきた牧師は、『病気をしてから美津が祈らなくなった一時期があります。神様から死を示されて、やはりあの子のうちに戦いがあったのでしょう。しかし、ミツは乗り越えて、キリストにすべてをゆだねたんですね。たとえで死の影の谷を歩むとも災いを恐れません、という御言葉は本当でした。』と語る。母親もこう語る。『ミツと会える復活の時が最大の望みです。天国がとっても近く感じられるようになりました。』」永遠のいのちであられる方が、人となって、人々の間に事実、生きてくださったと、聖書は伝えています。おとぎ話か何かのように、一笑に付してしまうには、あまりにも重大な事柄ではないでしょうか。そしてこれが真実だと信じたら、その時、神の愛もわかるでしょう。神がいかに私たちを愛してくださったか。今も愛しておられるか…。
いつのまにか、イエス様を、ただの「良い人」のように思ってはいないでしょうか。良い人だけれども、ただの人、と。そうではありません。ただの人ではなく、全宇宙を造られた永遠の神であられるお方です。その方が、天から降って、肉体をまとい、人として歩まれたのです。その差は天と地ほどもあります。そのことをしっかり心に刻んで、正しくクリスマスのー降誕節のー礼拝をお捧げしたいのです。ヨハネ3:16(新約p177)神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。