礼拝説教要旨 2020年12月6日
神の摂理の妙
(創世記 31:36~55)
今日の要点

神様は、人の悪をも良いことのために、用いることがおできになる。

今日のあらすじ

前回の続き。36節「そこでヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして言った。」ついにこの時が来ました。今まで何を言われても言い返すことのなかったヤコブが、ついにラバンに向かって、その非を咎め、抗議の声を上げました。てっきりヤコブが、家の守り神の偶像テラフィムを取っていったと思ったラバン。まったく身に覚えのないヤコブは、また難癖をつけてきた!と思って「もしそんなものが出てきたら、その者を生かしてはおきません。今日という今日は、白黒はっきりさせましょう。」と啖呵を切りました。ラバンも、ヤコブのいつにない語気にいささか、戸惑ったでしょうか。そして天幕を隅から隅まで探しても、ついにテラフィムは見つかたなかった。ということで形勢逆転。おとなしいヤコブが、今度ばかりは色を成して、20年分のたまりにたまったラバンに対する怒りを一気に吐き出した、というのが今日の箇所です。「そこでヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして言った。『私にどんなそむきの罪があって、私にどんな罪があって、あなたは私を追いつめるのですか。あなたは私の物を一つ残らず、さわってみて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。

もしあったら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たちふたりの間をさばかせましょう。」まくしたてるヤコブ。続けてこれまでのラバンの非道ぶりをあげます。38節、雌羊も雌やぎも流産したことがないとは、ヤコブの神が、祝福しておられたということとともに、それだけヤコブの仕事ぶりがよく行き届いていたことのあかしでもあるのでしょう。群れの雄羊も食べたことがないとは、当時、遠いところに出かけて何日も帰る事ができない場合には、雇われ牧者も食料として群れの中からほふって食べる権利があったのですが、ヤコブはそれもしなかったという事です。けちんぼラバンが許さなかったのでしょう。またよほどの不注意からでなければ、野獣に殺された家畜については、羊飼いが責任を問われる事はありませんでした。それはやむを得ないことと認められていました。しかしラバンはそれらの責任をヤコブに負わせた。昼であっても夜であっても、野獣にやられると責任を負わされるので、ヤコブは昼も夜も気が抜けない。昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできないありさまだったと言います。まるでどこかのブラック企業の話かと思ってしまいます。

そして労働者にとって、報酬を心待ちにするのは当然ですが、その報酬を幾度も変えたと言います。異郷の地で孤立無援のヤコブの弱い立場につけこんで、やりたい放題でした。そして42節がヤコブの決めゼリフです。「もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」昨夜、神様から直接、夢の中でヤコブと争うな、と戒められていたラバンは、特に最後の「昨夜、さばきをなさったのです」の言葉にギクリとしたでしょうか。ヤコブは、やはり信仰の人。自分の力でこれだけのものを勝ち取ったというのでなく、神様がついていてくださらなかったら、無一文で去ることになっていただろう、と神様を指さします。これは形だけの言葉ではなくて、本心からの言葉だったでしょう。前にも触れましたが、この試練の20年、ヤコブの心のよりどころとなっていたのは、神様でした。神様が守り、支え、こうして裁きをして、報酬を得て故郷に帰ることができるようにしてくれた。実感のこもった言葉だったと思います。ラバンは、これは旗色が悪いと見たようです。

何しろテラフィムは見つからないし、これまでの痛いところを衝かれては、面目ありません。息子たちはともかく、しもべたちは内心「そうだ、そうだ、この際、もっと言ってくれ」と喝采を送っていたかもしれません。ラバンは、これは早々に矛を収めるが上策としたようです。引き連れてきた一族郎党の手前、どうにか面子を保ったまま、上から目線で事を収めようという作戦に出ました。43節のラバンの言葉は、自分の非を認めることはせずに、ただ、今ヤコブのものとなっているものはみな、元はと言えば私から出たものだから、どうして私が、これらのものを慈しまずにいられようか、害を加えるなど、できようかと、情けをかけてやろうという口ぶりです。そして、これは当時の習慣だったのでしょう、石塚を作り、そこで食事をして、平和の契約を結んだのでした。47節「エガル・サハドク」はアラム語で「あかしの塚」、ガルエデはヘブル語で意味は同じ「あかしの塚」です。49節「ミツパ」は「見張りの塔」の意。ラバンも最後くらいは、父親らしい、良いところを見せようというのでしょうか。「われわれが互いに目が届かない所にいるとき、【主】が私とあなたとの間の見張りをされるように。

もしあなたが私の娘たちをひどいめに会わせたり、もし娘たちのほかに妻をめとったりするなら、われわれのところにだれもいなくても、神が私とあなたとの間の証人であることをわきまえていなさい。」と「わきまえていなさい」と上から目線で言うのでした。「娘たちをひどい目にあわせるなよ」と言うのですが、ヤコブにすれば、あんたに言われたくないよ、あんたはどれだけ私をひどい目にあわせたのか、と言いたいところでしょう。さらにラバンは「ご覧、この石塚を。そしてご覧。私があなたと私との間に立てたこの石の柱を。」とまるで自分が立てたように言いますが、これらはヤコブが立てたものです(45節)。ラバンの座右の銘は「俺のものは俺のもの。お前のものも俺のもの」なのでしょうか。ともかく、こうしてお互いに、敵意を持ってこの石塚を越えて行き来してはならない、と契約を結びます。ラバンは「どうか、アブラハムの神、ナホルの神-彼らの父祖の神-が、われわれの間を裁かれますように。」と誓いました。ヤコブの祖父がアブラハムで、ラバンの祖父がナホル。そのアブラハムとナホルは兄弟です。

兄弟ではありますが、アブラハムの神とナホルの神は違うのですが、ラバンは「彼らの父祖の神」と、いっしょくたにしているようです。どの神でも一緒、というような、いい加減な神観なのでしょう。ヤコブの方は、ちゃんと父イサクの恐れる方と限定して、主なる神様にかけて誓いました。こうして一時はどうなるかと思われた緊迫した場面でしたが、神様の介入で事なきを得、ヤコブは長年、たまっていたものを吐き出すことができ、最後はいっしょに食事をし、和解して契約を結ぶことができました。ヤコブも、思いの丈をぶつけることができて、よかった。ラバンも娘たち、孫たちに口づけして祝福し、ちゃんと挨拶のときをもって別れることができました。ヤコブも妻たちも、これで胸のつかえもおりたでしょう。立つ鳥、跡を濁さずと言いますが、ヤコブは、いったんは思いっきり後を濁してラバンの所を後にしましたが、神様のご介入で、濁りも収まりました。すべて神様の恵み、憐れみでした。「罪 汚れは いや増すとも 主の恵みもまた いや増すなり」(新聖歌376番)ヤコブは、20年分のたまりにたまった、ラバンの不条理に対する怒りをぶつけました。こういうことができて、良かったと思います。

これはすべて神様のお膳立てがあってのことでした。この個所をよく考えてみると、少し滑稽にも見えます。ヤコブは、それ見たことか!と強気でラバンにまくしたてましたが、それは誤解の上に立って、でした。ラバンもおとなしく聞いていたのですが、それも誤解の上に立って、です。事実は、(この一件だけに限っては)ラバンが正しかったのですが、そのことが隠されていて、あたかもヤコブが正しいような格好になっていたのです。もし後で本当のことがわかったら、二人ともどういう反応をするのかな、と思います。ヤコブは冷や汗をかき、ラバンは悔しがるでしょうか。何だ、ラケルにだまされてたのか!ヤコブの前でおとなしくして、損した!と。これまでさんざん、ヤコブを欺いてきたラバンが、娘のラケルに欺かれてーこの親にしてこの子あり、というようなラバンに似た娘に欺かれてーヤコブに言われるままになっていた。皮肉というのか、毒をもって毒を制すというのか…。神様の摂理の妙といったものを思わされます。ラケルがテラフィムを盗んだことは、言うまでもなく罪です。悪いことです。しかしその悪さえも、神様は益とするために用いられたということです。

もちろん、だからと言って、ラケルが盗んで良かったということでは、決してありません。もしラケルが盗まなくても、神様はほかの方法でラバンを裁かれるでしょう。しかし、人のした悪をさえも、神様は、良い目的のために用いられることがある、ということは、心に留めておいてよいでしょう。ちまたでも、ピンチはチャンスなどと言いますが、神様が、人の罪さえも、結果的に良いことのために用いられるというのは、不思議な感じがします。しかし実は、これは聖書を貫く大きなテーマです。この創世記も最後の方は、そのテーマがより大きなスケールで、より深くあらわれる長編ストーリーとなります。そしてその同じテーマは、聖書のここかしこにあります。そもそもアダムが罪を犯したことも、そうです。アダムが罪を犯したことは、最悪のことでした。それによって、世界は今、私たちが目にするような悲惨な状態になったのですから。アダムが罪を犯したことによって、人類に死が入ったのですから、これ以上の悪いことはありません。ところが、アダムが罪を犯したことによって、神様の愛の深さがよりはっきりとあらわれたのです。アダムが神様に背信の罪を犯したときに、神様は「はい、失格。

次の新しい人間を造るから、お前はもういらない。」などと言って、さっさとアダムを見捨てることは、なさいませんでした。神様は、しようと思えばそうすることもおできになったのです。その方が手間がかからず、簡単だったかもしれません。しかし神様は、アダムその人を愛しておられたのでーアダムの何か、アダムの優秀さとか、アダムの完璧さとかでなく、アダム自身を、アダムの存在自体を愛しておられたのでーアダムを失いたくない、どんな犠牲を払ってでもアダムを取り戻したいという思いを持っておられたのです。それで尊い神の御子を救い主としてお遣わしになったのです。全宇宙を造られた生ける神の御子が、事実、肉体をまとって人となられ、―おとぎ話や作り話ではなく現実に、ですー信じるすべての人の罪を背負って、十字架にかかってくださった。それで信じる人はみな、罪赦され、再び神様の子として、受け入れられるようになりました。これによって、信じる人は誰でも、神様との関係が回復しました。ただ回復しただけでなく、前よりも一層深く神様のご愛を知り、身に染みて知って、より強いきずなで結ばれるようになりました。神様は、御子をくださるほどに、私たちを愛しておられるのだ、と。

もしアダムが罪を犯さなかったら、こういう展開にはならなかったことでしょう。アダムが罪を犯したこと自体は、悪いことでしたが、その悪をも神様は、ご自身の計り知れない愛を示すため、そしてその愛に応えて私たちもより深く神様を愛するようになるために用いられたのです。優等生でいる間だけ、いい子でいる間だけ、愛するという条件付きの愛と、たとえそうでなくても愛するという無条件の愛と、どちらがより深い愛でしょうか。罪を犯してしまったとき、それまでは愛していたけれども、その途端、さっさと見捨てるのと、それでもその相手のために犠牲を払ってでも命を与えようとするのと、どちらがより深い愛でしょうか。罪自体は嘆くべきことですが、罪の深さは、神様の愛の深さを表すものとなるのです。ローマ5:20(新約p297)…しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。アダムの罪のことを取り上げましたが、それに限らず、神様は私たちの罪や失敗をも、良いことのために用いることがお出来になります。もちろん、罪を犯していいというのではありません。罪を犯すことを勧めているのでは決してありません。

ただ、悔やんでも悔やみきれない失敗がある人にとっては、結果においてであっても、そのことも神様が何らかの意味で益とされる、良い目的のために益としてくださるということは、大きな慰めになるのではないでしょうか。神様のご摂理は不思議です。私たち人間の思いもよらない展開が待っていることがあります。自分のちっぽけな頭で、どう考えても益になるとは理解できないと言って、あきらめてはいけません。神様は、義であられるだけでなく、善であり、憐れみ深く、恵み深く、そして計り知れない知恵、私たちのはるかに想像の及ばない知恵をお持ちでいらっしゃいます。この神様が、すべてをご支配なさっていることに、希望と慰めを見出す者でありたいと思います。