
神の救いの恵みは、人々の罪の真っただ中に働いて、救いに導く。
一人の夫ヤコブをめぐる二人の妻ラケルとレアの確執。悲劇なんだか喜劇なんだか。当事者にとってみれば悲劇なのでしょうが、ちょっと距離を置いて見ると、言われるがままのヤコブがあわれでもあり、少し滑稽でもあり、と。そんな「恋なすび騒動」と言ったところです。14節以下のエピソードは、レアの長男ルベンが、少なくとも一人で野に出ていき、当時の薬草とされていた、希少な「恋なすび」がわかる程度の年齢には、なっていたのでしょう。14節の麦刈りのころは、春先のことです。「恋なすび」とは、英語ではラブ・アップルと呼ばれますが、茄子科の植物で、春先に紫色の花を咲かせ、後に直径五センチ前後の、赤っぽい色の実を結ぶそうです。ラケルがヤコブを引き換えにしてまで欲しがるからには、どれほどおいしいものか、と思って調べてみますと、これは食用ではなく、かなり麻薬性の高い薬用植物ということで、果実を乾燥して、煮出して使用したそうです。適度に用いると頭痛や歯痛の鎮痛剤になり、また気分を爽快にする効用もあったとのことですが、誤って用いると、幻覚、幻聴をもたらし、脳神経を侵されて、狂い出すと言う恐ろしい代物でした。
古代には、これが受胎能力を高める不妊治療薬だという迷信があったらしく、そのためラケルはレアにそれを譲ってくれるよう頼んだのでした。姉とはいえ、ライバル関係にある相手に、こういうことを頼むというのは、どういうつもりだったのか。レアはもうたくさん産んでいるから、自分に譲ってくれるとでも思ったのでしょうか。しかしレアにはそれは、ラケルの身勝手な要求のように思われたのでしょうか。15節でレアは「あなたは私の夫を取っても、まだ足りないのですか。私の息子の恋なすびもまた取り上げようとするのですか。」と返したのでした。「私の夫を取っても」とは、この頃、ヤコブはまたラケルと一緒にいる時間の方が長くなって、レアのところに寄り付かなくなっていたのでしょう。ラケルがヤコブの袖を引っ張って、自分のところにずっといるようにしていたのでしょうか。もともとヤコブはラケルを愛していたのですから、自然の流れではあるのですが、だからと言ってレアも納得できるものでもないのでしょう。やはり一夫多妻の弊害です。レアのけんか腰の言葉に、ラケルも応じました。「では、あなたの息子の恋なすびと引き替えに、今夜、あの人があなたといっしょに寝ればいいでしょう。」
売り言葉に買い言葉という面もあったのかもしれませんが、あわれヤコブは、恋なすびをめぐる二人の妻たちの取引材料にされてしまったのでした。その日の夕方、疲れて、野から帰ってくると、何やらレアがご機嫌で出迎えています。「何か、良いことでもあったのかな、やけにニコニコしてご機嫌だな」などと思っていたら、なんとレアから一方的な宣告…。「私は、私の息子の恋なすびで、あなたをようやく手に入れたのですから、私のところに来なければなりません。」「私のところに来なければなりません」と、ヤコブに有無を言わせない。ヤコブの意思の入る余地はないかのよう。レアとラケルの間ですでに取引は終わっていて、ヤコブに拒否権・選択権はないかのようです。あわれヤコブはレアに言われるままに、ほふり場に引かれていく羊のように?レアの幕屋に引かれていったのでした。「あなたをようやく手に入れた」という言い方から、やはりこの頃、ヤコブは、レアの方にはほとんど来ていなかったことがうかがわれます。レアは、子供に囲まれながらも、ヤコブがラケルの方にばかりいることに、寂しさとみじめさを感じていたでしょうか。そんなレアを、神様はまたも顧みてくださいました。
17節「神はレアの願いを聞かれたので、彼女はみごもって、ヤコブに五番目の男の子を産んだ。」神様は、レアの願いをすみやかに聞いてくださいました。レアはその子を「イッサカル」(報酬の意)と名付けました。レアは、自分が女奴隷を夫に与えたので、神は私に報酬をくださったと思ったようですが、それは誤解でしょう。当時の価値観としては、もしかしたら、そう思われたのかもしれませんが、しかしそうではなく、神様はただレアをあわれんで、顧みてくださったのです。神様は再びレアを顧みて、続けて6人目も与えられました。今度はレアは「神は私に良い賜物をくださった。今度こそ夫は私を尊ぶだろう。私は彼に六人の子を産んだのだから。」と言って、その子を「ゼブルン」(尊ぶの意)と名づけました。その後「ディナ」という女の子(「ダン」と同じ「裁く」の意味の女性形)も恵まれました。さて、ヤコブと交換してまで、恋なすびを手にしたラケル。藁にも縋る思いのラケルでしたが、迷信では役に立ちません。恋なすびに頼った自分は変わらず、かえってレアの方が再び、2人の男の子と1人の女の子を産む結果になってしまいました。良かれと思ってやったことが、かえって裏目になったのです。
しかしそんなラケルに、ついに神様が顧みてくださる時が来ました。22‐24節「神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。彼女はみごもって男の子を産んだ。そして『神は私の汚名を取り去ってくださった』と言って、その子をヨセフと名づけ、『【主】がもうひとりの子を私に加えてくださるように』と言った。」「ヨセフ」は「加える」の意。恋なすびによってではなく、神様が顧みてくださって、胎が開かれました。しかし、せっかく与えられた初子を感謝するよりも、すぐさま「もうひとり与えられるように」と次を願っていたラケルは、やはり負けず嫌いの性格が顔を出して、とにかくレアを追い越したい気持ちが強かったのかもしれません。ラケルにとっては子どもも、競争して勝って優越感を得るための道具なのでしょうか。子どもを、親の優越感のための道具に使うという親のエゴは、いつの時代にもあるのでしょうか。悲しむべきことです。「神はラケルを覚えておられた」という表現も、時々聖書に出てくる印象的な表現です。まるで、忘れられていたかのように、長い期間、放っておかれたように感じる状況から、神様がついに祈りに応えて、動いてくださることを表します。
神様はラケルのことを忘れていたのではありませんでした。時がまだ来ていなかったのです。ラケルももちろん、祈っていたでしょう。しかしずっと、なしのつぶて。まるで神様に忘れられているかのように感じていたでしょう。しかし、神様はラケルを覚えておられたのです。時至って、彼女の願いを聞き入れたのです。ようやく愛する妻ラケルから生まれた、ラケルの初子ヨセフ。ヤコブはヨセフを偏愛します。露骨にえこひいきすることになります。しかしそのために、のちに大事件が起こるのです。そのことが37章以下、最後の50章まで、創世記後半に展開する大ストーリーになります。
ところで、ラケルとレアとヤコブの間ですったもんだしているうちに、気が付くといつのまにか、イスラエルの12部族のうち、11部族の始祖11人が出そろっていました。のちにラケルから生まれるベニヤミンを加えて12部族になります。レアからは、生まれた順番にルベン、シメオン、レビ、ユダ、少し間をおいてイッサカル、ゼブルンの6人。ラケルからはヨセフ、そしてのちに生まれるベニヤミンの2人。ラケルの女奴隷ビルハからは、ダン、ナフタリの2人。レアの女奴隷ジルパからは、ガド、アシェルの2人。全部合わせて12人です。この12人のリストをながめて、二つのことに気づかされました。まず一つめに気づくのは、12部族の半数の6人が、レアから生まれたことです。残りの6人をラケル、ビルハ、ジルパの3人がそれぞれ2人ずつです。ヤコブがレアと過ごす時間は少なかったと思われますが、それでも半数がレアから生まれたというのですから、レアが特別に神様から顧みられていたことがうかがわれます。数だけではありません。レアの3番目の子レビの子孫レビ族は、のちに神様に仕える祭司の部族となりました。旧約聖書の巨人モーセとその兄アロンは、このレビ族です。
そしてレアが3人の子を産んでもヤコブに愛されることなく、失意の中から、心を切り替えて、心を主ご自身に向けて「今度は主をほめたたえよう」と言って名付けた4番目の子ユダからは、のちにダビデ王が生まれ、そしてやがて人となられた救い主イエス・キリストがお生まれになるのです。神様はレアを特別に顧みて、誉を与えられたようです。神様が顧みてくださるのは、レアだけではありません。マタイ5:4(新約p6)悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。それから二つ目。イスラエルと言えば神の民です。選民イスラエルと言われます。その基となった12部族の始祖と言えば、どんなにキンキラキンの立派な起源かと思えば、その実態はこれまで見てきた通りでした。そもそも、神様が定めた一夫一婦から逸脱して一人の夫に二人の妻です。そして一夫多妻の弊害から、二人の妻同士の張り合い、子産み合戦で、女奴隷のお腹まで借りて、いわば親の勝手な都合で生まれさせられてきたようなものです。恋なすびまで持ち出して、子を得ようとするようなドロドロした中から生まれました。きよらかとは、程遠いありさまです。しかしそこに、神の民たるの12部族をお立てになったのです。
12部族は、イスラエル民族の起源となる立場ですから、注目されます。神の民のモデル。原型です。それがなぜ、よりによってこういう状況のところが、選ばれたのでしょう。それは、神の民とは、罪の真っただ中に働かれる神の救いの恵みによって、生み出されるものだからです。人の立派さ、きよさ、熱心さの上に建てられるものではありません。ただ、人の罪の真っただ中に働かれる神の救いの恵みが、生み出すものだからです。同じことは、新約時代の神の民、教会の始祖ともいうべき12使徒にも言えます。使徒たちもまた、ピカピカの模範生というのではありませんでした。むしろ、そろいもそろって、みな、イエス様を見捨てて、逃げ出してしまった者たちでした。たとえ死んでも、イエス様を知らないなどとは言わない、言うはずがない、と口をそろえて意気盛んだった弟子たち。それが、ほんの数時間後には、みんなイエス様を見捨てて、逃げ出していました。ピカピカの経歴どころか、恥ずかしくて隠しておきたい過去でした。しかし、そんな彼らが、神の民たる教会の始祖とされたのです。神から離れた人の世の現実―弱さ、愚かさ、罪深さなどー、その真っただ中に臨む神様の恵みによって、神の民は生まれるものです。
ただ神の恵みによってー罪びとを救う神の恵みによってー生まれるのです。それも罪の赦しの恵みによって。人の功績は、1ミリもありません。100%神の恵み、あわれみによるのです。100%赦しによるのです。ドイツの宗教改革者マルティン・ルター(1483-1546)は、使徒ペテロについて「私がもしペテロの肖像を描くとすれば、彼の頭の毛一本一本に“罪の赦し”と書くだろう」と言ったと言われます。それこそ、使徒ペテロ自身も、望んでいることだと思います。キリストは、罪の世のまっただ中に飛び込んで、救い主として生涯を送り、最後は十字架にご自身のいのちをお捨てになって、私たちに罪の赦しをお与えくださいました。そのキリストをあかしし、のべ伝えるのが12使徒。12人が12人とも自分こそ「罪びとの頭」と心の底からわきまえさせられる経験をした彼らこそ、その任にふさわしいと言えるのでしょう。晩年の使徒パウロもそう告白していました。第一テモテ1:15-16(新約p406)1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
1:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。神の民の12部族の始祖たるヤコブの子らも、また神の教会のリーダーたる使徒たちも、罪びとを救う神の恵みをあかしするものです。聖人君子のためのキリストではなく、罪の真っただ中に生き、弱さ、愚かさを抱えて生きる生身の人間のための恵みを与えようと、臨んでおられるキリスト。一人びとりの痛み、悲しみ、嘆きをもご覧になり、あわれみ、そこに恵みの御手を差し伸べておられるキリスト。そして、そんな人間を丸ごと救い上げ、キリストの血潮で洗い流し、キリストの恵みによって神の子とし、神の家族として、ゆるぎない身分を与えさらにはきよめてさえ、くださるキリスト。このキリストの恵みを受けているのが、神の民、神の子たちです。自分にも注がれている神の恵みを信じて、この神様に信頼し、この神様に希望を置き、この神様とともに歩ませていただきましょう。