
主は、絶妙な手綱さばきで私たちを義の道に導かれる
御覧の創世記26章は、イサクの生涯の、いわばダイジェスト版といった観のある章となっています。イサクは、主なる神さまの祝福の契約を父アブラハムから受け継いだとはいえ、それは決してこの地上で安楽に、何も試練や苦難なしに、鼻歌交じりに歩む人生ということではありません。今日の箇所に見るように、ききんがあり、命を狙われかねない危険あり、そして次回以降見ていく12節以下も、いろいろ、いろいろあったことが記されています。しかし、そのいろいろあった中でも、主がともにおられたので、―時には危ないところを通ったり、はらわたの煮えくり返るような思いをしながらもー守られ、祝福され、ついには滞在していた先の王アビメレクのほうから、どうか、平和条約を結んでくれ、と申し出るに至った。戦わずして、争わずして平和を勝ち取ったイサクの歩みが記されています。羊飼いなる主の守りです。1節「またききんがあった」前に見ましたようにアブラハムの時代にも、聖書に記録されているだけで2回、ききんがありました。それとは別にまた、です。この世はききんやその他の試練があります。世にあっては、目の前の試練に向き合っていかなければいけません。
それも神さまの許しておられることですから、神さまに信頼しながら、乗り越えていくべきものです。イサクは、まずはイスラエルの南部に位置するゲラルに向かいました。ゲラルは、エジプトほどではありませんが、比較的水に恵まれた草原地帯のようです。そこはペリシテ人の王アビメレクが治める地域でした。以前、アブラハムの時にもペリシテ人の王アビメレクと出てきましたが、このアビメレクはアブラハムの時代のアビメレクとは別人と思われます。親子ではないかなどとも言われます。またアビメレクとは、名前ではなく称号ではないかと言われています。しばらくゲラルにいたものの、ききんがますますひどくなっていったのでしょうか。2節で主が「エジプトには下るな」と仰っていますから、イサクはゲラルからさらにエジプトに下ることを考えていたのでしょう。当時、ききんのときには、世界の穀倉と言われたエジプトに行くことが、常識のようになっていたようです。イサクもこの際、そうしようかと考えた。しかしそこに主が現れて、「エジプトには下るな。わたしの示す地に住みなさい。」と仰いました。
「わたしの示す地」ってどこか?エジプトよりもっといい秘密のところがあるのかと思って次の言葉を待つと、どこか新しいところに行くのではなく、なんとこの場所、今いる場所にとどまりなさい、という。今いるこの場所がききんがひどくなってきたから、エジプト行きを考えていたのに、そのききんがひどくなってきたゲラルの地にとどまりなさい、というのですから、イサクは当然、不安になったでしょう。しかしそんなイサクに、神さまは御言葉の約束をもって、励まし、力づけられます。「わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。」と。主なる神さまご自身が、ともにいてくださるということ。何度も言っていますが、これこそが、他の何にも勝る祝福です。天地万物をお造りになった方。今も一切を治めておられる方。文字通り全知全能のお方がともにいてくださって、あなたを祝福しよう、とお約束くださった。このお言葉だけで、十分でしょう。主ご自身がともにいてくださる。ならば、何を恐れることがありましょう。そして以下、5節まで、以前、主なる神さまがイサクの父アブラハムに与えておられた約束を、イサクにも与えられます。
カナンの地の国々をすべて、イサクとイサクの子孫に与えること、子孫を空の星のように増し加えること、こうして地のすべての国々は、イサクの子孫によって祝福されること。これはイサクの子孫としてお生まれになるイエス・キリストによって、世界中の民が祝福されることを言っています。これら、アブラハムに誓った誓いを、果たされると、約束されました。神さまは偽ることができないお方。誓われたことは必ず果たされる。だから、神さまがアブラハムに誓われた通り、この地を与えてくださるし、イサクの子孫によってこの地ばかりか全世界が祝福されるようになると、励まされたのです。今は、アビメレク王の下で、治められる側に置かれているけれども、やがてイサクもイサクの子孫もこの地を自分の国として受け継ぐことになる。立場が逆転すると言いますか。そういう力強いお約束をいただきました。そして最後に5節で「これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」と仰いました。アブラハムが主に従った姿は、イサクも身近で見てきてよく知っていたでしょう。
アブラハムが日々の生活の中で、主の声に聞き従い、主の戒め、命令、おきて、教えを守ってきた、それが主に覚えられ、よみせられて、主の数々の恵みの約束をイサクにも受け継がせて頂ける(出エジプト20:6)。アブラハム、積善の余慶というのでしょうか。特に22章で見たあのイサクを主にお捧げするという瞬間は、イサク自身の心にも深く刻まれたでしょう。あの父アブラハムの、主なる神さまへの献身、まったき従順が、こうして今の神さまの祝福に通じているのだと、身をもって知ることができたでしょう。さて、こうして御言葉の励まし、お約束を頂いて、イサク一家はゲラルの地に留まることにしました。しかしその地も甘くはなかった。罪人の世だった。人目を引くリベカが妻だと知れると、自分の命が狙われかねない。そんなぶっそうなところだったのです。当時はこういうことが、しばしばあったのでしょうか。イサクも恐ろしくなって、リベカを妹と偽ったというのです。以前、アブラハムも同じことを恐れて、妻のサラを妹と偽ったことがありました。それも2回も。
イサクは父親譲りの従順さで、神さまの御言葉通り、ゲラルの地に住みましたが、どうやら欠点の方まで父親譲りだったようで、アブラハムと同じ過ちを犯してしまったようです。ところが、これも神さまの導きですが、先ほど読みましたような次第で、リベカがイサクの妻だということが、アビメレク王にばれてしまいます。そして異邦人の王であるアビメレクに、叱責されてしまうのです。なぜ、妹だと偽ったのか。何ということをしてくれたのか。もう少しで、民の一人があなたの妻と寝て、あなたは我々に罪を負わせるところだった、と。前のアブラハムのときもそうでしたが、アビメレク王はまともな倫理観をもっていたようです。不倫は罪とハッキリと知っていました。そして、イサクが自分が殺されるかもしれないと思ったから、と言ったからでしょうか、11節にあるように、今度はイサクとイサクの妻リベカに触れる者は、必ず殺される、とお触れを出して、彼らに庇護を与えたのです。一時は、どうなることか、とヒヤヒヤしたでしょうが、このお触れのおかげで、イサクはリベカが妻であることを隠すことなく、堂々と夫婦として生活することができるようになりました。
イサクがリベカを妹と偽ったのは、単に嘘をついたというにとどまることではありません。彼女を危険にさらしたということです。当時は、妻の地位が今日では考えられないくらい低かったということはあるのでしょうが、妻を守るべき夫として、あるべからざる過ちです。他方、公平を期すために書き添えれば、それでも主の御言葉に従って、その地にとどまったのは、評価すべき信仰また従順だという見方もあります。確かに、普通ならそんな危険なところはサッサと後にして他の場所に移りたいところです。それでもイサクは踏みとどまりました。この地に留まれという主の御言葉に従うという大きな枠は、はずれていませんでした。しかしそれはそれとして、やはりリベカを妹と偽ったことは、非難に値することです。このことに関して、主はどのように取り扱われたでしょう。まず、イサクが過ちを犯したからといって、すぐさま、イサクに厳罰を下すということはなさいませんでした。自分でまいた種だなどと、リベカを他人の手に渡るままにされるということも許されなかった。もしそんなことになったら、イサクはあまりにも大きな痛手に、つぶれてしまったかもしれません。
神さまはそういう最悪の事態になることだけはとどめてくださいました。アブラハムの時と同じように。しかしまた、イサクは異邦人の王アビメレクに「もう少しであなたは民の一人に罪を負わせるところだった」と戒められるという、恥を忍ばなければなりませんでした。いや、恥と言えば、どうしてアビメレクが、イサクとリベカが夫婦であることを知ったのか、その訳を聞いたときにはそれこそ、顔から火が出るほど、恥ずかしい思いをしたでしょう。恥ということを知るイサクにはそれで十分な懲らしめでした。羞恥心と言うものをどこかに捨ててしまった厚顔の輩ならもっと厳しく鞭を当てなければならないでしょうが、イサクにはこれで十分でした。一方では、自分でまいた種とは言え、リベカを人の手に渡して、余りに大きなダメージにイサクがつぶれてしまわないよう配慮しつつ、他方、それは間違っていることを教えるために、懲らしめを与える。義にしてあわれみに富み給う神さまの、絶妙の手綱さばきでした。そして神さまは、最後には「この人と、この人の妻に触れるものは、必ず殺される」というアビメレク王のお墨付きまで与えて、イサク夫妻にゲラルでの身の安全を与えられました。
こんなふうに禍を転じて福となしてくださる神さまに、イサクはむしろかえって、感謝とともに背筋を伸ばさせられる思いだったでしょう。試練の賜物でした。詩篇119:71 (旧約p1030)苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。試練を通さなければ、学びえない霊的真理というものがあります。試練を通してでも学ぶ必要のある真理というものがあります。試練の時に、アブラハムのように見事に振舞って祝福をいただくのもよし。しかしまた、このときのイサクのように、失敗はしたものの、またそれなりの懲らしめも受けて痛みを与えられたものの、結局守られ、その失敗から学びえた霊的教訓が、大きな収穫であったという場合もあるでしょう。そしてその時与えられた痛みあるがゆえに、その時の真理が本当に身にしみて、教訓となった、ということもあるかと思います。神さまが私たちとともにおられる、とよく言いますが、その、私たちともにいてくださる神さまはこういう神さまでいらっしゃるのです。だから、ありがたいのです。これがただ、正しいだけ、厳しいだけで、自分でまいた種を全部刈り取らなければならないとしたら、やっていけないでしょう。
神さまはこれまでにもどれだけ、私の気づかないところでも、御手を伸ばして守っておられたことか。あわれみ深い神さまであられることをありがたく思います。と同時にまた、ただ憐れみ深いだけで、こちらが間違ったこと、正しくないことをしても、いっこうにそれを戒めてくれないような神さまだったら、何をやっても守ってあげるよ、だけで懲らしめることをしない神さまだったら、それはもっとおそろしいと思います。もし、私たちが悪を行っても、それを教えてくれない、正さない神だったら、そんな神は信頼できません。悪いことをしたら、間違ったことをしたら、それぞれに応じて丁度良い痛みを与え、その痛みによって神の義と聖さといったものを学ばせてくださる神さまだからこそ、心から信頼する事ができるのでしょう。つぶしてしまうような厳しさでなく、かといって腐敗させてしまうような過保護でもなく、潰れないように守りつつ、懲らしめ痛みを与え、ご自身の正義とか聖さと言ったものを学ばせ、育ててくださる。私たちの心も成り立ちもすべてを正確に知り尽くしておられる神さまだからこそ、こういう絶妙なさじ加減ができるのだと思います。
そして、自分のようなものに愛想を尽かさず、忍耐深く導き、ともにいてくださることを心からありがたく思う次第です。私たちの羊飼いは、私たちに罪の赦しを与えるために、私たちの身代わりに十字架にかかってくださったお方です。義をうやむやにしてではなく、少しの妥協もなく正義を全うして、私たちをお救いくださったお方です。義は、曲げることができない。義は必ずまっとうされる。罪は必ず罰せられる。罪は、聖なる神さまに忌み嫌われ、御怒りを受けるに値するもの。そう身を以て教えてくださった羊飼いです。私たちを守るだけでなく、義と聖さを学ばせ、神の民として整え、訓練してくださる神さまがともにいてくださることを心から感謝して、これからも神さまと歩調をあわせてともに地上の生涯を歩ませていただきたいと思います。詩篇23:1-3(旧約p926)23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。