礼拝説教要旨 2020年6月21日
はい、まいります
(創世記 24:28~67)
今日の要点

神さまの招きに応答する

今日のあらすじ

前回のイサクのお嫁さん探しの続きです。神様のお取り計らいによって、仲人役のアブラハムのしもべエリエゼルは、劇的にリベカさんのところに導かれました。地上の仲人役はエリエゼル、そして天におられる真の仲人は主なる神様、と思わされる一幕でした。エリエゼルは思慮もあり知恵もあるしもべでしたが、しかし、といいますか、だからこそ、と言ったほうが良いでしょうか、自分の知恵や力だけではどうにもならないこともあると言うことを十分にわきまえて、彼は、神様により頼み、神様の恵みを乞い願いつつ、事を進めていきました。そして見事、御心と思われる相手リベカ嬢と出会うことができました。ところで、こういうことは相手があるものです。エリエゼルのほうは主の導きを確信していたとしても、果たして相手方はどうか。今日の箇所は、しもべエリエゼルとリベカ家との話のゆくえやいかに?という場面です。リベカは、まずお母さんの幕屋にいって、事の一部始終を告げました。するとそこにいたのでしょう。兄ラバンはすぐさま、その人のところに「走って」行きました(29節)。

一刻を争うようなことでもないのに、なぜ「走って」?このラバンという人は、後のほうでまた登場しますが、なかなか抜け目のない、計算高い人なのです。この時も30節に「彼は鼻の飾り輪と妹の腕にある腕輪を見、また『あの人がこう私に言われました。』といった妹リベカの言葉を聞くとすぐ、その人のところに行った。」とあるように、これはずいぶんと羽振りの良い客人と見るや、このチャンス逃すまじ、と即座に全速力で走って行ったのです。強欲なラバンの性質は、この数十年後、イサクの息子とラバンの娘が結婚するときにも変わりません。ともかく、21節のラバンの歓迎の言葉「どうぞ、おいでください。主に祝福された方。どうして外に立っておられるのです。私は家と、らくだのための場所を用意しております。」と言葉はなめらかと言うか、きれいな言葉、でも下心のある歓迎の言葉を受けて、エリエゼルたち一行はついていき、家に到着。長旅で疲れたらくだの荷も解かれ、十分な飼料を与えられ、しもべも、その従者たちにも足を洗う水が与えられ、と彼らは丁重にもてなされました。しかししもべは、まだほっとなどできません。大事な仕事が残っています。さて、どのタイミングで話を切り出すか。

食事のあとか、前か。どう切り出すか、どう話を持っていくか、、、。いろいろと考えてしまいそうですが、老僕エリエゼルはあれこれと策を弄さず、ここまで導かれた勢いのまま、直球勝負で挑みます。彼らがこの地に着いたのはすでに夕方(11節)でしたから、この時はだいぶお腹もすいていたでしょうけれども、勧められた食事を前に「せっかくですが、私の用向きを話すまでは、いただくわけには参りません。」と、この忠実な老僕は言います。お腹の虫は鳴かせるままにして、まず、委ねられている務めを果たすという姿勢です。威儀を正して、何やら大事な話がありそうな気配に、ベトエルたちも威儀を正して、それではお話を伺いましょう、と耳を傾けます。こうしてまずは自己紹介から、私はアブラハムのしもべです、と名乗ります。それから主人アブラハムの近況。主が豊かに祝福してくださっています、と。当然、これから可愛い娘が嫁いでいく先は親御さんは何をしておられるのか、どんな状況なのかとは、親としては気になるところでしょう。老僕エリエゼルも心得たもので、まずはアブラハムの家は大いに富んでいます、生活の心配は無用です、と最も気になるところを安心させます。

そしてリベカさんの夫となる方はそのただ一人の跡取りで、全財産を受け継ぐことに決まっております、と紹介します。何だか、財産をちらつかせているようで、潔癖な方は反感を持たれるかも知れません。ですが、何十年も愛情を注ぎ、手塩にかけて育ててきた大切な娘を嫁に出すというのは、ただでさえ気が進まないのは世の親の常でしょうし、ましてやアブラハムたちの住むカナンの地まで何百キロも離れては、イザというときに助けてあげることもできない。そんな親心を汲んで、老僕エリエゼルはまず、家族に安心してもらう訳です。その辺の人情の機微をわきまえた老僕エリエゼルの言葉でしょう。それから前回見ましたように、主人アブラハムがかくかくしかじかということで自分を遣わされたことを述べます。そして42節から、しもべがどういうふうにリベカさんを御心の人と確信するに至ったか、というあかしとなります。これがまさに、これこそ主の導きと、ご両親も納得できるような見事な導きのあかしでして、最後に49節で、いかがでしょうか、と返事を待ちます。そして先方の答えは「このことは、主から出たことですから、私達はあなたに善し悪しを言うことはできません。

と彼らも十分に納得しての良い返事を得る事ができました。彼らが本当に主を信じているかというと、あとの章でラバンが偶像を持っていることがわかりますから、そういうわけではないのでしょうが、ここはしもべの話にあわせて、こう言ったのかもしれません。ともかく、こうして家族の了解を得ることもできて、しもべはここでも真っ先に地にひれ伏して、主を礼拝しました。先にリベカが導かれたときにも主を礼拝し、こうして話がめでたくまとまってはまた主を礼拝し、と老エリエゼルは事ごとに主に感謝することを忘れない、思慮深くて謙虚なよき主のしもべでありました。こうして早速その場で銀、金の品々や衣装と言ったいわば結納を納めることとなります。こうして話は決まり、心置きなく食事と歓談の時と相成りました。さて、こうしてなごやかに夕食の時を過ごして、明くる朝。このしもべは、善は急げとばかりにすぐさま主人アブラハムのところに帰してくださいと申し出ました。55節を見ると、母親と兄ラバンが、昨日の今日では余りにも、というのでしょう。せめて10日くらいは別れを惜しむ時間がほしいと言います。もっともです。

しかししもべは、ぐずぐずしていると、彼らの気持ちが変わるかもしれない、あるいは相当年老いていたアブラハムに、一日も早く引き合わせて安心してもらいたいと言う気持ちからか、一気に実行してしまおうとしたようです。それで結局本人に聞いてみることにしましょう、ということで、リベカ本人に聞いてみますと、キッパリと「はい、まいります。」と答えて、決まりでした。リベカに迷いはなかったようです。一夜にして重大な決心ができていました。これも神さまのお導きなのでしょう。こうして神様は、イサクとリベカを合せられましたが、実はこのことを通して神様は、人類に対する救いのご計画も着々と進めておられました。60節の祝福の言葉「我らの妹よ、あなたは幾千万にも増えるように。そしてあなたの子孫は、敵の門を勝ち取るように。」これは以前、イサク奉献のときにアブラハムに与えられた神様の祝福の言葉と同じでした。しもべがアブラハムから聞いていて、それを彼らに「こういう祝福の言葉もあたえられているのですよ」も言っていたのか。

ともかく、この預言の言葉通り、人類最後の敵である死を滅ぼして、私たちに永遠のいのちと永遠の御国を継がせてくださる方、イエス・キリストは、このリベカの子孫としてお生まれになるのでした。こうして最後62節以下はイサクとリベカのご対面です。映画のワンシーンにでもなりそうな、夕暮れ時の場面。おそらくイサクは、エリエゼルが自分のお嫁さんになる人を捜しに行っていると言うことを聞いていたでしょう。なんだか落ち着かず、外に出ては遠くを見て、首を長くして待っていたでしょう。そしてこの日、エリエゼルがそれらしき女性を連れて近づいてくるのが見えてハッとします。リベカのほうも、イサクの姿が見えるや、らくだから降りて、ベールを取って身を覆った。これは当時の慎みとされていた習慣だったのでしょう。そして家について、しもべはこれまでのいきさつを全部イサクに告げて、イサクもこれこそ主の導きと確信して、リベカと夫婦の契りを結んだという次第でした。「彼は彼女を愛した。イサクは母の亡き後、慰めを得た。」という結びは、イサクの人柄をにじませているようです。亡き母をいつまでも慕うイサク。そんなイサクの慰めとなったリベカ。

他の族長アブラハムやヤコブは不本意ながらも多妻となりましたが、イサク・リベカは生涯一夫一婦でした。

主の招きに応えるー信仰の決断

人生は、大小様々な決断の連続です。身近な、小さなものから、進学、就職、結婚、などその後の人生の幾重を大きく左右する決断もあります。しかし、その中でも最も大切なのは、天地を造り、私たちのいのちの源であられる神様からの招きに対する決断です。それはこの世での歩みにも、そしてその後の永遠のいのちについても、文字通り、天と地ほどの違いをもたらす決断です。今日見ましたリベカの決断もあっぱれでした。アブラハムは行くところを知らずして、主の召しに従って、祝福を手にしましたが、リベカも、イサク本人と会っておらず、遠く離れた見知らぬ土地、見知らぬ家に嫁ぐことを決断しました。しかも一夜にして決めました。神さまの導きを確信し、神さまに祝福された家庭に憧れて、でしょうか。しもべエリエゼルやその他の従者たちの物腰にも、うなづかされるものを感じたのでしょうか。アブラハム家の家風というか。ともかくリベカは、しもべエリエゼルを通して差し出されていた神さまの招きに応えることができたのでした。この決断が、その後の彼女の人生を大きく変えたことは言うまでもありません。神さまの招きに応じて、リベカは地上でも永遠のスケールでも、大いなる祝福にあずかることになりました。

アブラハム、イサクとともに、永遠の都、天の故郷という嗣業を受け継ぐという霊的祝福、またその子孫から救い主がお生まれになるという特別な恵みにもあずかることとなりました。私たちも、神さまからの招きに間違いなく応じるものでありたいものです。神さまは、福音宣教を通して、人々をご自身のもとに招いておられます。アブラハムの全財産をひとり子イサクにすべて継がせたように、父なる神さまはすべてのものを御子キリストに与えておられます。教会はキリストの花嫁と言われます。リベカが、イサクのもとに嫁いだように、キリストを信じる者である教会も、キリストの花嫁として召されています。そしてアブラハムの家には多くの富が備えられていたように、キリストを信じる者がキリストとともに受け継ぐ御国も、神さまの栄光に輝く御国です。そしてやがて、私たちはイエス・キリストご自身、その方自身と直接、お会いするときが来ます。ともにテーブルを囲んで食事をする時が来ます。なんという幸いな、よろこびに満ちたときとなることでしょうか。

今はまだ、私たちは、肉の目ではキリストを見てもいませんし、御国を見てもいませんが、聖書の御言葉を聞き、信じて、キリストのもとにくるようにとの招きに応答したのです。その決断は、永遠の運命を決定づける決断なのです。イエス・キリストを、自分が信じて従うべき「主」と信じる気持ちがあるなら、それは神さまがその人を招いている証拠です。すでに聖霊がその人のうちに働いて、信仰告白へと促しておられるのです。第一コリント12:3(新約p335)ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。聖霊の促しに素直に従いましょう。主が招いておられるのです。またすでに、キリストを主と告白した方は、そう導いてくださった御霊なる神さまが、自分のうちに確かに住んでおられることを改めて思いましょう。主の招きに対して、どう応じるかは人それぞれです。よくよく考えた上で、ある程度納得した上で、信じる決断をするという導かれ方の人もいますし、そうでない方もいます。どちらがいいということはありません。

どちらにしても、イエス・キリストを主と告白した以上、それは聖霊による御業なのですから。聖霊による御業に、それこそ、人間が善し悪しをいうことはできません。ある特別伝道集会に初めて参加した青年が、初めて福音を聞いて、感動して、その場で信じました。ある人は、感情的だとか、どうせ長続きしないだとか、シニカルな目で見るかも知れません。しかしその人は、その後もちゃんと教会生活を送り、やがて東南アジアの宣教師として召されて、何十年もの間、良い働きを続けてこられたそうです。良い実を結んでいるのです。御言葉の種を素直に信じ、受け入れて、行う良い地が、百倍の実を結ばせるのです。リベカのようにすぐに決断しても、そうでなくてある程度の期間をかけてじっくり考えて決断しても、それは人それぞれ。どちらも聖霊の業です。大切なのは、どれだけ時間をかけたかでなく、明確な決断です。救いの信仰は、どれだけ考えたかや聖書の知識の多さではなく、決断です。山ほどキリスト教のことを知っていても、自分が信じるという決断をしなければ、その人は救いにはあずかれないのです。

逆に、単純にイエス・キリストが自分の罪のために身代わりに死んでくださったこと、三日目によみがえられたことを信じれば、それだけで天国行きなのです。イエス・キリストというお方を、自分の救い主、自分の主としてハッキリと受け入れること。福音において差し出されている神さまからの招きに応答すること。その報いは、永遠の嗣業です。イエス様は、心の戸をノックして、答えを待っておられます。心の戸をイエス様に開けるなら、イエス様が心に入ってきてくださり、いつまでもともにいてくださいます。黙示録3:20 (新約p480)見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。