
試練の後に祝福あり
愛するひとり子をお与えになった神さまのお心を深く思う
前回の続きです。アブラハムによるイサク奉ささの記事、その第三回め、最終回となります。ある日、突然神さまから「愛するひとり子イサクを、わたしにささげよ」との命令が下ったアブラハム。それに対して、神を神として敬い、信頼するがゆえに、その命令に従いました。もっとも、アブラハムが今まさにイサクに刀を振りおろさんとしたところで、神さまの御使いがストップをかけたため、実際にはイサクをほふることはせずに済みました。この信仰の試練にアブラハムが見事に応えたのを見て、誰よりも喜ばれたのは、この試練を与えられた当の神さま御自身でした。今日の15節以下は、その神さまの喜びの爆発、これでもかと、なし得る限りの祝福をお与えになろうという、神さまの祝福の嵐です。15節の御使いは、受肉以前のキリストご自身。前回の12節もそうでしたが、今開いている新改訳第三版は、ここでも「主の使いは・・・仰せられた。」と敬語を使って訳しています。ただの御使いのときは、敬語を使いません。なぜ主ご自身とわかるかというと、12節でも最後のところで「わたしにささげた」とあります。いけにえをささげる相手は、御使いではなく主ご自身です。
御使いであっても、神さま以外のものにいけにえをささげたら、偶像崇拝の罪です。ですから、この御使いは、主ご自身と思われます。そして16節「わたしは自分にかけて誓う」と仰いました。新約聖書のヘブル書にここの解説がありまして、人は自分よりすぐれたものをさして誓うが、神はご自分よりすぐれたものがないので、ご自分をさして誓われた、と言っています(ヘブル6:13-16)。神さまご自身よりすぐれた者、尊い者はないのですから、ご自身にかけて誓われた。考えられる限りの、最大の確かさをもって保証するというご意志の表れでしょう。そして「あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。」と祝福されました(17節)。前にも、神さまはアブラハムに、あなたの子孫を空の星のように、地のちりのように増やすと仰いました(15:5,13:16)。その時は、ただ一方的に約束をお与えになったのですが、今回は「あなたがこのことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから」と仰っています。
アブラハムが示したその信仰の従順に、心動かされて、感動して、あたかも感動が心にあふれでるかのように、改めてこのお約束を保証されたのだと思います。アブラハムは、イサクを偶像にせず、神さまにささげた。その、ご自分にささげられたイサクを、神さまは最大の祝福をもって祝福されたのです。祝福せずにはおかない神さまなのです。そして祝福の第二弾が続きます。17節の後半「そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」似たような表現を覚えておられるでしょうか。創世記3:15でも、エバの子孫が、サタンの頭をふみ砕くという、神さまから人類の救いの約束が与えられていました。原福音と呼ばれます。ここも、敵の門を勝ち取るとは、敵であるサタンの牙城を奪い取るということ。この門とは、死の門でしょうか。すべての人を、有無を言わさず飲み込む死という門を、キリストは、ご自身を信じる者にとって完全に無力にしてくださいました。キリストを信じる者にとっては、死はもはや、何の力もありません。
そして「あなたの子孫によって、―これは単数形でキリストのことを指しますー地のすべての国々が祝福される。」罪の赦し、神の子とされること、御国を受け継ぐこと、永遠のいのち、永遠に神さまとともに生きる限りない祝福。これらの神さまの祝福が、キリストによって、その福音宣教によって、全世界に広がるという祝福の約束です。それは今、実際に広がりつつあります。そしてこのアブラハムの子孫によってすべての民が祝福されるという祝福も、前にも同じような約束は与えられていましたが(12:2、3)、やはり前はただ一方的にこの約束が与えられていただけですが、ここではまた最後にもう一度「あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」と繰り返されています。何度も繰り返すというのは、この箇所では、感動が心からあふれて、一度言っただけでは満足しないほどに、感動にあふれていることを表しているように思われます。そして、この祝福の約束の実現のための準備は、アブラハムとイサクが試練にあっていたときにもすでに、遠く離れたところで着々と進められていました。20節以下はそのことを言っていまして、23節に出てくるリベカさんは将来イサクのお嫁さんになる人です。
アブラハム、イサクの知らないところで、将来イサクのお嫁さんとなるリベカさんが生まれ、成長して、お年頃になります。そしてそれはやがて24章で展開されるイサクのお嫁さん捜しへとつながるのです。水も漏らさぬとはこのことで、まったく神さまのなさることに抜かりはありません。神さまは御自分の民のための一人一人にふさわしい相手をちゃんと備えておられるのです。
試練の後には報いあり、神さまは私達に試練もお与えになりますが、その試練をパスするのを誰よりも喜んでくださるのも神さまであり、その後には大きな祝福も用意しておられるのです。ヨブの試練の結末もそうでした(ヤコブ5:11,ヨブ42:10以下)。アブラハムは、一番大切なわが子イサクを神さまにおささげしました。神さまにささげたそのひとり子を、神さまは大いに祝福されました。神さまにささげたものを、神さまが祝福されるという原則を見ることができます。私たちも、一番大切なものはなんでしょうか。それを神さまにおささげすることができるでしょうか。もちろん、実際に全焼のいけにえにするのではありません。実際には、神さまの御手にお委ねする。神さまの御心のままに、導かれることを受け入れる。そういうことになるでしょうか。しっかり握りしめて、たとえ神さまにだって渡すものか、絶対に離さない、と思っているもの。それを、神さまのもの、と神さまにお返しする、お委ねする、神さまの所有権・主権を認め、受け入れる。それが、現代でいう「全焼のいけにえとして主にささげる」ということなのかもしれません。その信頼に対して、神さまは大いに喜んで祝福されます。
試練とは、神さまへの信頼を試すものですから、私たちにそれがきたとき、神さまは心から喜ばれ、報いずにはいられないのでしょう。それは、難しいことができたからご褒美を、という功績のようなものではなくて、信頼という絆で心と心がしっかりと結び合ったのがうれしくて、良いもので応えてあげたいというお心なのでしょう。私たちが試練において神さまに信頼できたときーたとえ途中、グラグラ揺れて、ほとんど倒れていたようなことがあっても、離れてさえしまっていたようなときがあっても、最後にはまた戻ってきたならー神さまはまるで、感動して、心を激しく動かされたかのように喜んでくださり、報いてくださるのだと思います。私は、以前、神さまを誤解していたのかもしれない、と思いました。こうやって、信仰の試練をクリアしたときに、神さまは、よし、よし、褒美を取ってつかわす、みたいに、悠然と構えて報いをくださるようなイメージを何となく持っていたように思います。けれども、少なくともここの箇所に関しては、神さまのほうも悠然と構えてなどいられず、ご自身が将来、為そうとしておられることと重ね合わせて、感動に心を震わせて、あらん限りの祝福を注ごうとしておられる、そう思われるのです。
できる限りの最高の、最上の、あらん限りの力を注いで、です。何しろ神さまがご自分にかけて誓われたその祝福とは、神さまの最愛の御子ご自身を与えるということなのですから。
お気づきの方もおられるでしょうか。ここでささげられようとしたイサクは、やがて私たちのために十字架にかかられる生ける神の御子イエス・キリストをあらわしていました。イサクが、自分がその上でささげられるたきぎを背負っていたのが、自分がつけられる十字架を背負わされて歩かれたイエス様と重なる。三日目の道のりだったことは、死の宣告が下って三日目に死から取り戻されたことを思わせる。角をヤブに引っかけている一頭の身代わりの雄羊は、いばらの冠を頭に載せられたイエス様、、、。そして何よりも、この22章を読んで心に刺さるのは、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子を」という言い方です。これを3度も繰り返しています。2節「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを」12節「自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないで」16節「あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから」こう仰るたびに、主ご自身がズキンと心が痛む思いをしておられたのではないか。愛するひとり子を犠牲にすると言うことが、どれほどつらいことか、激痛であることか、肺腑をえぐられることか、わたしが一番よく知っている、、、と。
神さまの心中を推し量るとは恐れ多い事ですが、そんなふうに思っておられたのではないかと思うのです。そして、前にも言いましたが、イザ、アブラハムがイサクをほふろうという寸前に、止めに入った御使いは、実は受肉以前のキリストご自身でした。とすると、12節の言葉をどんな思いで語られたのか、、、。「あなたは、自分の子、自分のひとり子をさえ惜しまないでわたしにささげた」と。やがての日、受肉してご自分が赴く十字架上の死を覚悟しておられた主は、この場面に何をご覧になられたのでしょうか。アブラハムよ、お前の信仰はよくわかった。もうそれ以上、何もしなくていい。イサクよ。お前も実際に、そんな苦しみを受けなくていい。そんな苦しみは、父とわたしだけで十分だ。たまらず、止めに入られたのではないでしょうか。私たちの神さまは、人間には実際の痛み、苦しみを味わわせずに済ませても、ご自分は実際にその苦しみを引き受け、味わわれる神さまだったのです。私たち一人一人を永遠の滅びから救い、永遠に神さまの子とするために。私たちの神さまは、人間にだけ、厳しい試練を課すような神さまではありませんでした。自分ではしないことを、押しつける神さまではありませんでした。
ご自分が、愛するひとり子を、全焼のいけにえとしてささげるという激しい苦しみを味わわれたのです。しかも、アブラハムに対しては、こんなつらい思いをするのは、自分一人で十分とばかりに、実際には止められたのに、ご自分は、実際に最愛のひとり子を十字架に引き渡し、肉を裂き、血を流されたのです。復活することはわかっていました。復活させることは決まっていました。しかし、だからといって、御子を十字架に引き渡すことが平気かというと、決してそんなことはない。神さまご自身が激しい痛みを味わわれながらも、そのことをなしてくださったのです。私たちはこの22章を読んで、アブラハムのことは、自分の愛するひとり子を、よくささげようと思ったな、もし神さまが止めに入ってくださらなかったら、どれほどの痛みかと、アブラハムにはある意味、同じ人間なので、ある程度、感情移入しやすいと思います。しかし神さまに対してはどうでしょうか。神さまが、ご自分の最愛のひとり子を十字架に渡して、肉を切り裂いて、死に渡してくださったということに、どれほど心を痛めているでしょうか。感情移入できているでしょうか。
神さまがされたときには、ピンとこずに、ああ、そうですか、と何事でもないかのように聞いていなかったか、と問われるのです。イサクがほふられるのには、見ていられない、と思わず目をつぶるほど心を痛めるのに、神さまの御子が残酷な十字架刑につけられたことは、何とも思わない。心の痛みを感じない。そんなことのないようにと願わされます。今日は、聖霊降臨日、ペンテコステです。聖霊は、私たちの心にイエス・キリストを指し示してくださるお方です。ペンテコステの今日、鈍い私たちの心に、聖霊なる神さまが臨んでくださって、十字架にあらわされた神さまの御愛を、心に深く思わせて頂けますように、と祈りたいと思います。