
毎年、お正月にはテレビのニュースでなんとか神宮とか、初もうでの様子がうつされますが普段、神社仏閣には疎遠な人々も殺到して一年の幸せ・家内安全・商売繁盛・恋愛成就・合格祈願じゃらじゃらとお賽銭を投げ入れて頭をさげる。日本ではおなじみな光景ですが殊勝な心持になって一年のご加護なりなんなりをささげたくなる気持ちは人間としてあるべき姿なんじゃないかと思います。自分の力を超えたなにかがある・・という謙虚さというかその気持ち事態はいいことではないかと思います。クリスチャンは年に一回どころではなく毎週日曜日に礼拝を捧げています。週の初めごとに礼拝をささげ、もっといいことがあるんじゃないかと思う人もいるかもしれません。毎週日曜日に教会にきているんだから・・と。半分正しく・半分間違っているかなと思います。
聖書のみことばを式次第に印刷しました。ペテロの手紙 第一 3章10~12節毎週教会にいっているといっても普段の生活が人の悪口ばかりいっているとしたら嘘をついたりしていたらどうでしょうか。争いを起こしてばっかりだとしたら幸いな日々というのが恵まれることが難しいでしょう。例えばです。私は一時期糖尿病になりかかったのですが、病院に通っている人が病院に行っているからとクリスマスにはケーキを5・6個たべて、正月にはお餅をたくさん食べて病院に行っているのによくならない・・といったとしたら、その人が馬・鹿なんじゃないかなと。
同じようにクリスチャンもいくら毎週教会に通っているとしても神様の言っていることを無視していたら、幸いなクリスチャン生活を送れるかというと聖書のいうことと反対のことをして改めないなら幸いな日々とはならないでしょう。聖書がヤブなのではなく指示に従わないことが原因なのです。教会に通ってさえいれば自動的に祝福されて恵まれるとしたら、そういう点で間違えなわけです。イエス様を信頼して従う気があるなら神様を礼拝し、みことばを聞くことは大いに意味があります。神様は教会に限定されているのではなく家でも外でも自由に働かれるかたです。特に教会は神様の恵みの通路、恵みの場であります。神様が恵みをほどこす手段して通路として置いておられるものです。神様に信頼して従う気があるのかどうかこちら側の姿勢で違ってくるのです。
神様は形にとらわれるのではなく心に答えてくださるのです。みことばの中身に入りましてどんなことが言われていたかというと舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、・・・とありました。特別なことではないのです。山にこもって修行しろ・・とか高価なお札を買いなさい・・とかではなくまったくもって当たり前のことだけれどもいざ実行するとなると当たり前ではない。そんなことです。聖書を持ち出さなくても、ちまたでも口は災いのもとといいます。誰かの悪口をいっていたらその人が物陰にいて聞かれていたとか痛い思いをしたかたもいるかもしれません。私たちが暮らす地上の生活、世というのは天国でもなく無風無菌の真空状態でもなく、罪ある世であります。
ペテロの手紙が書かれた当時、大勢の奴隷たちが不条理な扱いをうけていてクリスチャンたちも迫害をうけていました。9節には「 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。とあるのです。引くに引けなくなり自分の人生が狂わされてしまった・・ということにならないとも限りません。悪から離れる、悪に巻き込まれない、それには神様という不動のおかたのもとに錨をおろして多少揺れることがあったとして遠く離れて迷子にならないように定期的に教会という港に寄港して祈るときが大切じゃないかなと思います。神様、私が悪を行わないように心をお守りください。自分の感情のままに振る舞うのではなく心を清めて癒してください・・といのる。私たちの口からでる言葉と私たちのこころの関係は炭酸ジュースとガスの関係に似ていると思います。炭酸を振ると、ガスがでてきて溢れます。私たちの心にあるものが思いなり、感情なりが湧いてことばになってくるのですが心そのものを清めてくださいと祈るいやしてくださいと祈る必要があるのではないかと思います。これを意識して実践していくことができたら、それだけでもその人の周りの空気がきれいになってくる気がします。」
嘘偽りをいわないということ。聖書を持ち出すまでもなく巷でも、うそつきは泥棒のはじまりといいます。特別なことではないわけです。悪から遠ざかって善を行い、平和を求めて追い求めよ追い求めよと訳されていることばは迫害すると訳されていることばでしつこく追いかける、執念深く追いかける・・というニュアンスの言葉です。熱心に積極的に求めるという意味です。たとえ誰かが何か悪さをしてきたとして争いを大きくする方向へいってしまいがちになってしまいがちですが平和を求める方向にいく。熱心に積極的に追い求めるあっちが悪いからこっちから平和を求めることはない・・と言いたくなるところを大きく深呼吸して、神様の前に静まって神様が自分に臨んでおられることは何か、キリストに従うとはどういうことか、聖書を開いて確かめてみる。
自分の肉的な感情を十字架につけて神様が望んでいるほうを勇気をだして選び取る。それにより神様が報いてくださる・・というのが3行目の所です。12 「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」神様のみ心を行おうと努力しているとき神様は味方になって応援してくださるということです。祈りに親身に耳を傾けてくださっている。だから確信をもって悪から離れて善を行うこと。これが命の道であり幸いな信仰生活と思います。この神様がおられるから悪をもって悪に報いず、悪に流されず、巻き込まれる己を保つことができるんじゃないかと思います。この神様が善に励むための拠り所であります。この神様がおられるから人生を間違ってしまうような滅びの道から命の道に踏みとどまることができます。
確かに神様はご覧になっていますよね。心の中で葛藤を覚えながらも神様が望んでおられるほうを決断するとき神様に信頼して淡々とみこころを行おうとするとき神様はご覧になって報いてくださいます。私たちには善を行う力はありませんが何が善かを知る知恵も求めるわけです。主のみ心に従おうと努力している祈りに主は耳を傾けておられると思います。そういう努力をしてもなお、ある人々が調子づいて態度が改まらないなら主の顔は悪をおこなうものに立ち向かうとだから自分で復讐しようとして人生を台無しにしてしまうこともあるようですがそうではなくて神様におゆだねすると。
神様の子どもらしく生きようとするときに祈りに熱心に耳を傾けておられるお方がいるそのことに気づいて励まされ、助けられてお従いするそれが医者に通っているだけではなく医者の言うことをきいて健康を回復するとういことです。時には失敗もあるでしょう。つい、失敗してしまうこともありますが赤ちゃんも最初は上手に歩けずにしりもちをついたりします。なんども練習するうちに上手にできるようになり走れるようにもなります。それと同じようにクリスチャンとしての歩みも失敗しても悔い改めてやりなおせばいいのです。一緒にいて下さり、応援してくださっている主に励まされ勇気づけられて根気強く続けていきたいのです。以上幸いな日々を送るためにと、ペテロがしたためたのは古くから語られてきたこと。当たり前と言えば当たり前の当然のことでした。命の道、幸いな道を歩ませようと御子イエス・キリストを与えて下さり聖霊なる神様を与えて応援し、支え・導いてくださっている方がおられるそのことを覚えて新しい年もみことばに従う日々を歩みたいと思います。