礼拝説教要旨 2018年12月2日
=ハイデルベルク信仰問答= 問答:75~77
飼葉おけから十字架まで
コリント人への手紙第一 11:23~29

問75 あなたは聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。

答  次のようにです。キリストは御自身を記念するため、この裂かれたパンから食べ この杯から飲むようにと、わたしとすべての信徒にお命じになりましたが、その時こう約束なさいました。第一に、この方の体が確かにわたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された、ということ。それは、主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわたしのために分け与えられるのを、わたしが目の当たりにしているのと同様に確実である、ということ。第二に、この方御自身が、その十字架につけられた体と流された血とをもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた潤してくださる、ということ。それは、キリストの体と血との確かなしるしとしてわたしに与えられた、     主のパンと杯とをわたしが奉仕者の手から受けまた実際に食べるのと同様に確実である、ということです。

問76 十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲むとはどういうことですか。それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、ということ。それ以上にまた、キリストのうちにも わたしたちのうちにも住んでおられる聖霊によって、その祝福された御体といよいよ一つにされてゆく、ということです。それは、この方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉に肉、骨の骨となり、ちょうどわたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、わたしたちが一つの御霊によって永遠に生かされまた支配されるためなのです。

問77 信徒がこの裂かれたパンを食べ、この杯から飲むのと同様に確実に、御自身の体と血とをもって彼らを養いまた潤してくださると、キリストはどこで約束なさいましたか。

答  聖晩餐の制定の箇所に、次のように記されています。わたしたちの「主イエスは、引き渡される夜、・・・※以下省略」主イエス・キリストの十字架の犠牲により、キリストを救い主と信じる私たちの罪は洗い清められ、罪の赦しをいただき、聖霊によって新しいいのちに生きる者とされた。洗礼の礼典は、私たちをキリストにつく者、キリストに接ぎ木されて生きる者とのしるしであって、私たちは、洗礼を受けることによって、一層励ましと力を受けて歩ませていただいている。洗礼に続き、ハイデルベルク信仰問答は、聖晩餐の礼典について教えてくれる。私たちの信仰は、御言葉と礼典によって養われるものであり、どちらも、十字架上のイエス・キリストの犠牲へと、私たちの心を向けさせるために備えられている。

「あなたは聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか」との問75に対して、「次のようにです。キリストは御自身を記念するため、この裂かれたパンから食べこの杯から飲むようにと、わたしとすべての信徒にお命じになりましたが、その時こう約束なさいました」と答え、第一に、キリストの体が、「確かにわたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された、ということ」を思い起こすこと、しかも、目の前でパンが裂かれ、杯が分け与えられるのを見ているように、本当に起こったことと確信するためと言う。そして第二に、「この方御自身が、その十字架につけられた体と流された血とをもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた潤してくださる、ということ。それは、キリストの体と血との確かなしるしとしてわたしに与えられた、主のパンと杯とをわたしが奉仕者の手から受け また実際に食べるのと同様に確実である、ということです」と言い、キリストが十字架上で、御自身を犠牲とされた、その身代わりの死こそが、私たちの救いの源、また根幹であると確信するためと言う。パンと杯を受ける度に、十字架の御業をしっかりと心に刻むことになる。こうして、私たちの信仰は、パンを受け取り、杯から飲むことによって一層養われる。そのためにこそ、主イエスは弟子たちに命じておられたのである。

主イエスが、パンを弟子たちに分け与えられた時、「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい」と命じておられた。(23~24節)また杯について、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい」と。(25節)その言葉を受け、聖晩餐において、パンを食べ、杯から飲むのは、キリストの体を食べ、その血を飲むこととされている。ローマカトリック教会では、その度に、キリストの体と血、そのものを食べ、また飲むことと考えられているが、プロテスタントの教会は、「それは、キリストのすべての苦難と死とを、信仰の心をもって受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、ということ」と理解している。信仰の心をもって、しっかりと心に刻むことが肝心とされる。

信仰問答は、「それ以上にまた、キリストのうちにもわたしたちのうちにも住んでおられる聖霊によって、その祝福された御体といよいよ一つにされてゆく、ということです」と言って、聖霊の御業が成し遂げられている事実に、私たちの目を向けさせてくれる。私たちはキリストにつく者、キリストと一体化された者である。キリストのいのちが私たちの内に満ち溢れ、キリストにあって生かされていることを、現実のこととして実感するために、この聖晩餐は定められているのである。(問答76)

洗礼とともに、聖晩餐も主イエスによって制定された礼典である。マタイ、マルコ、ルカの福音書では、最後の晩餐の席で命じられている。ヨハネの福音書では、「わたしはいのちのパンです」との教えにおいて、聖晩餐が暗示され、そして、コリントの教会に宛てて書いた手紙において、パウロは、「主から受けたこと」として、パンと杯のことを語っている。教会で「パンを食べ」「杯を飲む」のは、キリストの十字架の御業を信じるからこそのことと、強く訴えている。キリストのからだが一つだからこそ、ともにパンと杯に与っている・・・と。従って、教会はこの聖晩餐を決して疎かにしてはならない。主イエスは、「ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」とも言われた。(マタイ26:29)この言葉の意味することは何であろうか。

天の御国での救いの完成の日のあること、その望みを抱きつつ、この礼典を守り続けるようにとの励ましである。従って、その救いの完成する日まで、この聖晩餐を守る度に、キリストの十字架の死を告げ知らせ続けるのが教会の務めとなる。教会は、主イエス・キリストの十字架こそを宣べ伝え続けるのであって、キリストが十字架で死なれるために、この世にお生まれになったことを、この季節に、特に心に留めること、それが大事となる。

結び

説教題を「飼葉おけから十字架まで」とした。アドベントの時を迎え、今年はどのようにこの季節を過ごし、クリスマスを祝うのが良いのか、少し迷いがあった。ハイデルバルク信仰問答は問答75「聖晩餐について」となって、やや苦戦となった。けれども、クリスマスの喜びは、ただ単なる誕生の喜びではなく、十字架で罪の身代わりとなられる救い主の誕生だからこそである。ならば今年の12月、二回はハイデルベルクを学び、23日のみ最初のクリスマスの聖書個所としようと導かれた。私にとって、クリスマスは未だに「不思議」そのものである。教会に行き始める前のクリスマスと、行き始めてからのクリスマスは明らかに違っていた。また、自覚的に信仰生活をするようになってからも、教会のクリスマスはこれでいいのか・・・と、複雑な思いが入り混じる。聖書で知ったクリスマスと教会で行われるクリスマスの行事とが、何かしら異質に感じられて、どこに落ち着いて良いのやら戸惑いが多いからである。

その戸惑いは今も続いている。カトリックとプロテスタントで何が違うのか、クリスマスは教会の歴史の中で、どのように祝われて来たのか等々、結構難しい課題である。飼葉おけにお生まれになった主イエスは、十字架の死にまで歩み抜かれたことを覚えてクリスマスの時を迎え、また過ごしたい。