礼拝説教要旨 2018年9月30日
信仰によって義とされる幸い
ローマ人への手紙 3:21~28

使徒信条によって告白する私たちの信仰は、三位一体の神を信じる信仰である。

その中心は、十字架につけられたイエス・キリストを救い主と信じて「罪のゆるし」を受け、罪の刑罰から解き放たれ、滅びから命へと移されて生きることにある。そして地上の生涯の後は、天の御国へと迎え入れられるという、確かな望みに私たちは生かされるのである。

こうした信仰の理解は、全て聖霊なる神が働いて私たちの心に刻まれる。私たちが心から信じて、慰めと助けを受けることの中心は何か。

問答59はそのことに触れる。問59「それでは、これらすべてを信じることは、あなたにとって今どのような助けになりますか。」

答「わたしが、キリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となる、ということです。」

キリストを救い主と信じる私たちは、キリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となる。この信仰の事実について、

問答60と61は、より詳しい説き明しをする。なぜか。キリストを信じて救われることの最重要の中身が、信仰によって義とされることにあり、

また、そこに一番誤解が忍び込む事柄だからである。

私たちが、神の御前に義とされるのは、「ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰によってのみです。」

このように言い切る背後に、間違った理解のあることが暗示されている。「まことの信仰によってのみ」と言われているが、

歴史を通じて、誤解したり、捻じ曲げたり、「信仰」を正しく理解することに困難がつきまとっている。旧約聖書の時代から、

イエスが歩まれた時代において、そして新約聖書の時代も、更には中世から宗教改革の時代に至るまで、キリストを信じる信仰によってより、

何らかの行いを積むこと、功績を積み上げてこそ救いを得ることができるとの教えは、様々に形を変えて、人々の心を捉え続けてきた。

だからこそ「ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰によってのみです」と言い、自分の良心が自分を責め立てたとしても、

信仰による義は揺るがない、と断言する。しかも、そのようにして義とされることは、完全で、完璧なものと。

私たちの側の「いかなる功績にもよらず、ただ恵みによって」キリストの義が与えられたなら、私たちは全く罪のない者、

「何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく・・・」、キリストご自身がされた服従を、私たちが成し遂げたかのように「みなしてくださいます」と。

これは驚くべきことで、「そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけなのです」と言う。

問61は、もう一歩突っ込んでいる。「なぜあなたは信仰によってのみ義とされる、と言うのですか。」

答「それは、わたしが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく、ただキリストの償いと義と聖だけが神の御前におけるわたしの義なのであり、わたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも自分のものにすることもできないからです。」

私たち人間は、どうしても自分を誇り、自分を頼りにしようとする。「信仰によって義とされる」と言いつつ、ついつい自分の信仰の価値を、

自分で測り始めることはないだろうか。他の人と比べてみたり、自分の熱心さや真剣さに目が行くことがある。

キリストが私に代わって十字架で命を捨ててくださり、神の前に義と聖となられたことを、私たちは信仰によって受け取ること、これが大事である。

そのようにしてのみ、私たちは救いに与るのである。

「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべて信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(22~24節)

「信仰義認」の教えは、主イエスご自身が明確に示してくださり、弟子たちが宣べ伝え、パウロが諸教会に対して、懸命に伝えようとした教えである。その後、アウグスチヌスの時代にも、救いは信仰によるのか、それとも行いによるのかの論争があり、教会の歴史は、中世のローマカトリック教会が支配する時代が長く続くことになった。そして16世紀になってプロテスタント宗教改革の時代を迎え

「信仰によって義と認められる」という「信仰義認」が、はっきりと理解されるようになった。ところが、その時代においても論争は絶えず、今に至るまで、「信仰義認」また「恵みによる救い」については、教会によって理解にいくらかの幅がある。大切であるゆえに、注意深く理解を深めたいと願う。

私たちは、この問答60と61で言われていることを、しっかり心に留めたい。キリストが十字架で成し遂げてくださった完全な償いがあるので、私たちは、キリストを信じて義とされる。キリストの義を私たちは受け、キリストの聖をもいただくのである。

私たちはなお不完全であっても、キリストにあって義なる者と、神は認めてくださる。信仰によって義とされる幸いは、そのことにある。

結び

もし自分の内の何かに頼り、神の前に少しでも認めていただきたいと願うなら、私たちには、失望や挫折が待ち受けているだけである。

正直に自分を見つめるなら、「お前は神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」と責め立てる自分の良心に対して、申し開きができるのだろうか。

「神の戒めのすべて・・・とは言い過ぎ」とか、「いくつかは守っている」とかと、言い訳に終始しそうな私である。

私たちは、神の前にどうすることもできない罪ある存在である。神はそのような私たちを、キリストにあって罪の赦しを与え、ただ恵みによって義としてくださるのである。この救いの恵みをいささかも見失わないように、また取り違えることのないように。もし何らかの行いが求められるなら、何らかの功績が期待されるなら、義とするために、神は一人一人の行いを点検されるのに違いない。

しかし、恵みによる救い、信仰によって義とすることによる救いは、人を分け隔てすることはなく、イエス・キリストを信じる人を、神は義と認めてくださる。この信仰にこそ、私たちは導かれている。この幸いを感謝して歩む者となりたい。(エペソ2:8-10)