序)1章は天地創造の記録だったが、ここからは神が造られた世界の歴史の記録になる。被造物の冠として造られた人間を中心とした歴史である。神の呼び名も、1章はもっぱら「神」であったが、ここから(太字の)「主」という名が登場する。
「神」は力強さ、(太字の)「主」は特別な人格的な恵みの関係を表す名である。
(ちなみに、日本語では「主」と訳しているが(英語や他の言語でも同じだが)、原語のヘブル語は「主人」のような意味はない。)それで両方あわせて「神である主」となると、力強い神でありながら、私たちと恵みの関係を持ってくださる方、というニュアンスになる。以下、聖書は、世界を造られた神とその神に極みまで愛されている人間の関係の歴史を記録していく。①5-7節。人間の創造を別の角度から:人間は土のちりから造られ、神の息を吹き込まれた存在。
まるでジュラシックパークか何か、恐竜映画に出てくるような場面。一本の野の灌木もなく、一本の野の草も芽を出していなかったとあるのは、これから舞台となるエデンの事であろう。先に1章で見たように、陸地一般にはすでに三日目に植物が造られていたが、場面をエデンの園に絞り込んで、エデンは人が置かれる前はこんな状態だったと。神である主は、土のちりを材料として人の身体を形造り、そしてその鼻にいのちの息を吹き入れた。
それで人は生きた者、いのちある者となった。人間は、土くれを原材料とした身体と、神から来たいのちの息、即ち霊と言われるものと、この二つから成るものであり、いのちそのものは、身体にあるのではなくて神から来た息、霊にあるということである。私達はまるで、当たり前のように息をし、生きているが、実はこれも、神がいのちの息を吹き入れてくださったからであって、私達は全面的に神に依存して生きているのである。
この事は、神に背を向けて、自分中心にこの世界を振り回そうとしてしまう人間の首根っ子を押えてくれる。神が私達の身体からいのちの息を引き揚げると、残った体は土に帰るのである。そんな分際で、人間が、神は死んだとか、神はいない、などと口にすることが、如何に身の程知らずな事か。ヤコブ書にあるように「主の御心なら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」(ヤコブ書4:15)と、主の御心に信頼し、従う者でありたい。
また神は、金や銀やダイヤモンドのような、それ自体で価値があるようなものからではなく、土のちりから人間の身体をお造りになった。このことも、私達人間をへりくだらせてくれる、ありがたい神の知恵。私たちは、神のご性質に従って、知識と義と聖とにかたどって、神のかたちに造られた。その神の子どもとしての尊さは、その霊的な性質にある。ゆえに、神から離れ、不義や汚れに身を任せて何とも思わなくなってしまったら、それこそただの土くれでしかない。
土そのものには価値がないのである。たとえば、私が陶器を作ったとして、それは何の価値もないが、名のある人が作った陶器は、同じ土から作ったものでも、何十万、何百万もの値がつく。全く価値が違う。私たちは最高の陶器師である、主なる神様が、土から、神のかたちに造ってくださった、神の作品である。御言葉と御霊によって、日々、神の手によって形造られつつある、完成途上の作品である。
私たちは、そんな神の手による作品との自覚をもって、感謝と誇りをもって歩んでいきたい。またお互いにそういう尊い者である事を認めて、尊敬しあう群れでありたい。②8-15節。エデンの園:神が人間のために備えた楽園。こうして神ご自身の息を吹き込んで造られた人間を、神はどういうところに置かれたか。エデンにもうけておいた園に置かれたという。エデンというのは、楽しみ、と言う意味だそうだが、文字通り、エデンの園は楽園だった。
そこは、神が、見るからに好ましく、食べるのに良い、全ての木を、人のために生えさせておいてくださった所だった(9節)。また、そこに川が流れていたと言うのも、特にイスラエルのような乾燥した地方においては、水はいのちそのもののように思われていたというから、これを読んだイスラエル人にはそれこそ天国のような所と思われた事だろう。ちなみに、ここに出てくるピション、ギホン、ティグリス、ユーフラテスの4つの川のうち、最後の二つは有名で現在もあるが、前の二つについては、はっきりしたことは分かってない。
ただ10節をみるとこれらの川が4つとも、エデンの園を流れる一つの川を源流としていたと言うのだから、エデンには相当豊かな水が流れていたと言うことだろう。また11節12節を見ると、現在不明となってしまった第一の川には、良質の金があったと言うことで、べドラフと言うのが何のことか不明だが、しまめのうとともに、価値ある宝石の類いが豊かにあったのだろう。エデンの園に住んでいたアダム達もおそらく、その貴金属類の装飾品をふんだんに用いて町並みを美しく飾る事ができる状態だったのだろう。
(黙示録には完成した神の国も種々の宝石で飾られた事が記されている。)神である主が人間を置いてくださったのは、こういう楽園だった。砂漠のド真中とか、殺伐とした荒野ではなくて、神は人を楽園に置かれた。これが人間に対する神の御心なのである。神は人間を愛しておられる。だから良いところ、喜びの地に住まわせたいと願っておられる。なのに、私たちの人生に過酷な砂漠や荒野を通らされる事があるのは、世に罪が入ってからのこと。
罪の影響を受けた世だからである。しかし神の本当の御心は、私たちを楽園に住まわせる事である。この御心は、世の終わり、歴史のゴールにおいて成就する。だから、今の置かれている状況や、荒れすさんだ世を見て、神はひどい方だとか、早まった判断を下してはならない。ちなみに、古代オリエントの神話には、神々は、自分達のために、特別な神々の園、楽園を設けて、そこに自分達だけ入って喜び、楽しむが、そこはどんなに人間が入ろうとしても人には入ることが許されない、と言う共通のモチーフがあるそうだが、聖書の神は違う。
自分のための楽園ではなくて、人間のために楽園をもうけて、そこに人を置いてくださり、喜び、楽しみなさい、と仰ってくださる神である。神の恵みに満たされて、神と人がいっしょに住むところ。エデンの園とはそんなところだったのである。神はどんなにか、人間を愛し、慈しんでおられた事か。蝶よ花よとばかりに、いたれりつくせりで人を迎えておられたのである。もう一つ、ここから読み取っておきたい神の恵みは、人はまず労働してから、その収穫を与えられた、と言うのではなくて、まず、見るからに美味しそうな色んな種類の食べ物を与えられて、十分に食べて、満たされて、力を得て、喜んで、それから労働に当たる。
そういう順序である。神は決して、ひもじい思いをしながら働け、等とは仰っておられない。そこには恐らく、今日残っている種類よりもはるかに多くの種類の、果物や木の実などが満ちていただろう。それをもってまず、人を喜ばせ、楽しませ、満たしてから、喜びをもって労働に当たらせてくださる。これが神の順序である。恵みファースト。その後に労働。頑張って頑張って功績を積んだら良い物をあげるという、行いファーストではない。
(これを律法主義という)まず福音によって良い物で満たされて、無条件の愛を注がれて、力を頂いて、喜びを頂いてから、喜んで心から自発的に主に仕える。これが福音の順序、恵みの順序である。15節を見ると、神はアダムに労働を与えられた。罪が入る前のエデンにおいては、労働もまた喜びだっただろう。土を耕し、種をまき、手を入れ、時期が来たら喜びの収穫を迎える。当時は疫病とか干ばつとかもなく、収穫を待ち望んでいたのに台風ですっかりダメになったとかもなく、快適に働く事ができ、その豊かな収穫を楽しむ事ができただろう。
日々の労働もむしろ、適度な空腹をもたらして食欲を刺激し、また心地よい睡眠をもたらすものでもあっただろう。③16-17節。ただ一つの戒め:心を尽くして神である主を愛するただ、神と共に、神の恵みに取り囲まれて、エデンの園に住み続けるためには、一つの条件があった。園にある全ての木から取って食べても良いけれども、たった一つ、園の中央にある「善悪の知識の木」からは、取って食べてはいけない、という神の言葉を守ることだった。
ちなみに、ここに並んである「いのちの木」については、意外と説明している注解書が少ない。ここでは、まったくの恵みによって生かされる事を表していると取っておく。他方、善悪の知識の木とは、神の言葉に従って、この木から取って食べない、と言うことが善であり、逆に、神の言葉に背いて、取って食べてしまうことが悪である、と言うことを、この木を見るたびに知ることができる木である。
よく、「食べてはいけないものをなぜ、園に生えさせたのか。」という批判を耳にする。しかしよく考えてもらいたい。神が人間に与えた命令は、何も難しいものではなかった。毎週一日は滝に打たれて修業しろとか、1か月に一度は1週間断食しろ、とか、そんな難行苦行を命じられたわけではない。ただ、有り余る豊かな木の中から、たった一本だけ、食べてはいけないというのである。他のは幾ら食べても良いから、たった一本だけ、善悪の知識の木からだけは、取って食べてはならないと言うのである。
これは過酷な厳しい命令だろうか。誰もそうは思わないだろう。有り余るいかにも美味しそうな木の実のうち、たった一本だけ、食べても良い、と言うのではない。沢山沢山美味しそうな木の実に取り囲まれていながら、それらから取って食べてはいけなくて、ただ一本の木からだけで我慢しなさい、と言うのではないのである。あるいは、目の前においしそうな実をぶら下げておきながら、「よし!」と言うまでいつまでもお預け、というのでもない。
お腹がすいたら、ほかにいくらでも食べられる実はあるのである。しかも一種類だけでなく、「すべての木」とあるように、ありとあらゆるバラエティーにとんだ木の実があったのである。味といい、見た目といい、香りといい、歯触り、舌触りといい、実に多種多様で飽きる事のない実が取り囲んでいたのである。それら全ては思いのまま食べてよろしい。ただ一つだけ、いけない、と言うのである。
これはどうみても、酷な条件とは言えない。人は、神を神として礼拝している限り、多くの恵みを与え、楽しませてくださる神に感謝し、賛美する心を持っていられるが、一旦、そこからそれると、今度は多くの与えられている恵みよりも、たった一つの、自分の思い通りにならないことの方が気になり出して、不満を募らせる。わがままな王様のように、99の与えられている恵みに感謝するよりも、とめられているたった一つが、思い通りにならないと腹を立てるのである。
もしかしたら、私達の普段の生活の中で、神に感謝する回数、また不満を言う回数は、私達の霊の状態を表すバロメーターと言えるかも知れない。数えてみよ、主の恵み、である。以上、この命令が決して過酷な命令ではない事、いやむしろ、簡単すぎるほど簡単な命令である事を述べた。だが、まだ一つの疑問が残る。簡単な命令であるにせよ、どうしてこの命令が与えられたのか、必要だったのか、ということである。
ここで一つの御言葉を引用したい。第一ヨハネ5:3「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」エデンの園でただ一つ与えられていた命令。それを守る事が、神様への愛を表す事だったのではないか。どんなに目にはおいしそうに見えても、好ましそうに見えても、愛する神様が禁じておられるのだから、それには手を出さない。誘惑をも退ける。その愛が試されていたのではないか。
動物にはこの命令は与えられない。動物は、ただ本能に従うだけでよい。そのように造られたのだから。しかし人間は、本能がすべてではない。本能であっても、また健全な欲であっても、時にはそれらを抑えてでも、神に従う方を選び取る事ができる。それが人間である。自由、自由と言いながら、動物のような本能や罪深い欲の言いなりになるばかりでは、動物と変わらない。神の命令を守る事によって、神への愛をあらわす。
これは現代の私たちにも、生きる指針となりうる。たとえば、神は、あなたの隣人を愛せよ、と命じておられる。その隣人が良い人であるとか、自分と馬が合う人であればたやすい命令かもしれない。しかしそうでなかった場合、どうか。自分にとって不快な事をしてくる相手は不快に思うかもしれない。肉によって反応して、こっちも不快な態度を取ってしまう事もあるかもしれない。しかし肉においては嫌だと思っても、神の命令だからということだけで、隣人を愛そうとするなら、それは神への愛を表しているのである。
相手から見返りは要求しない。相手によくしてもらいたいからというのでもない。もしそれが動機なら、そうならなかった時に落胆や怒りが起こるだろう。しかし相手から何かを期待してではなく、ただ神への愛をあらわすために、神の命令に従う事を選び取るのである。自分の内にはその力がないので、神に助けを求めながら、の命令に従おうとするのである。何度失敗してもいいので、それを求め続けるのである。
私たちは、行いによって救われるのではない。まったくの恵みによって、100%恵みによって救われている。そのために、尊い御子イエス・キリストが十字架にかかってくださった。ここに神の愛があらわれている。だからこそ、その愛を受けた者として、神への愛をあらわしたい。神の命令への従順という霊の捧げ物をこそ、神は数え切れないほどの金銀や難行苦行よりも、喜ばれる。神は私たちを愛しておられるから。