礼拝説教要旨 2017年9月24日
=ハイデルベルク信仰問答= 問答:1(その3)
父なる神の守り=髪の毛一本も=
マタイ 10:28~31

『序 ただ一つの慰め 第一主日 問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自身の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。

また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そうしてまた、ご自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜びまたそれにふさわしくなるように、整えてくださるのです。』

主イエス・キリストは、私たちをご自分のものとするため、十字架で血潮を流してくださった。私たちの罪を完全に償い、すなわち、ご自分の血を代価として支払い、贖ってくださったのである。それによって、私たちは悪魔の支配から解き放たれ、ただ一つの慰め、真の拠り所を与えられた。この幸い与った私たちは、天の父の、確かな守りの中にも入れられているのである。

「また、天にいますわたしの父の御旨でなければ 髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。」生きるにも死ぬにも、キリストのものとされた私たちは、父なる神に守られている。その守りは「絶対的」と言うほどのものである。イエスは言われた。

「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(29~31節)私たち人間の地上の日々は、実に沢山の問題に絶えず直面して、その一つ一つに立ち向かわねばならない現実がある。時に命の危険が迫り、どのようにして切り抜けるのか、自分一人では、とても立ち行けないことがある。そのような時、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはいけません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と、主イエスは言われた。(28節)

父なる神は、私たちの「体も魂」も御手におさめ、万全の守りを与えてくださっているのである。父なる神の確かな守りは、「実に万事がわたしの救いのために働くのです」と言われる。

「わたしの救いのために」と言われる「救い」は、「体も魂も・・・キリストのものである」ということに関連し、特に「たましい」により関わるものである。この世で私たちが経験する事柄は、自分にとって良いことばかりでなく、自分にとっては、避けて通りたいことも多い。中でも生活に直接関わることは、時に思い煩いとなって、心は曇るばかりとなる。健康に関わることは、誰もが直面し、病気に立ち向かうのは容易ではない。父なる神の守りは、健康であるなしに拘らず、「たましいの救い」を得させることにおいて、万全であることにある。キリストの弟子たちは、迫害を恐れずに福音の宣教に出て行ったが、主イエスは予め、父なる神の守りの確かさ、大きさを告げておられたのである。

「頭の毛さえも、みな数えられています」と。使徒パウロも、自分の経験を通して、

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と、確信を述べている。(ローマ8:28)私たちは、自分の「体」のことを優先して考え、「たましい」のことを見落とすことがある。生ける神の前には、

「体もたましい」も共に考え、「たましいの救い」こそ尊いことを、しっかりと心に留めたい。(ペテロ第一1:7-9)私たちの内、誰一人として、自分の命の終わりを決めることはできない。私たちの命は、父なる神の御手の中にあることを、心から感謝して歩みたいものである。

「父の御旨でなければ 髪の毛一本落ちることができないほどに」私たちは守られているのである。それでも、その確信が揺らぐことがある。目の前の恐れと不安に、沈み入りそうになることがある。どうしてそうなるのだろうか。主イエスを見失うからであろうか。キリストのものであることを、その時は忘れているのかもしれない。実際にそのようなことが起こるので、主イエスは、「目をさましていなさい」と、繰り返し、警告を発しておられた。けれども、ゲッセマネの園で、イエスが祈っておられる間に眠ってしまった弟子たちの姿を思うと、私たちは、もっと弱いと不安が募る。(マタイ26:36-46)

しかし、このことにおいても、私たちの側のガンバリは微々たるもので、父なる神の守りこそが絶大であることを感謝すべきである。

「実に万事がわたしの救いのために働くのです。」私たちは「キリストのもの」、そして、父なる神が、私たちを「守ってくださいます。」私たちは、いささかも損なわれないと、父なる神に頼る者でありたい。私たちが、このような確信に導かれるのは、自分の信仰によるのか、それとも他に、何かがあるのだろうか。知識を蓄えて、また経験を積むことが必要なのだろうか。自ら訓練が必要と言われるかもしれない。しかし、イエス・キリストを信じる信仰において大事なのは、自分で自分を訓練したり、鼓舞したりすることではなく、聖霊なる神が働いて、私たちを導いてくださることにある。「そうしてまた、ご自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び またそれにふさわしくなるように、整えてくださるのです。」

「ただ一つの慰め」のもう一つの根拠は、「聖霊なる神」がおられることにある。私たちの信仰は、実に聖霊の働きによることなのである。聖霊によって、確信が導かれ、喜びに与り、信仰者として整えられる。これについては、次週に更に学ぶこととする。