創世記4章はカインの子孫たちが地に広がってゆく様子を描いているところです。カインの子どもたちによって立てられた強大な都市。おびただしい羊やヤギの群れを飼う豊かな牧畜。そして音楽が豊かに奏でられる芸術の開花。青銅と鉄を巧みに操る農耕技術、建築技術。更にそのような技術が兵器に転用されて武器が開発されてゆきます。そのようにして、カインの子孫たちは、驚くほどの勢いで勢力を伸ばし、力を得ていきます。
小さな村落は町となり、巨大な都市へと成長してゆく。豊かになり、豪華になり、にぎやかになり、美しくなる。しかしそのように発展してゆく都市建設の中に貫かれている原則を4章16節はこのように記しています。
「それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。」
「主の前から去って」
これがカインとその子どもたちが歩んでいった道です。神から離れたカイン。神を拒絶したカイン。そして神を忘れたカイン。この傾向は子どもの世代、孫の世代になるとより深く徹底されてゆく事になります。カインから数えて6代目のレメクとなりますと、見るものは権力と暴力と燃えるような復讐心。世界を治める原則も人生を切り開く原則も力と権力と貪欲と情欲。レメクの世代になると一夫多妻が始まります。
ますます神から離れ、神が分からなくなってゆく。そのような不信仰の時代を、カインの子供たちは切り開いてゆくのです。巨大な都市建設、芸術とビジネスの発展。それ自体は何にも悪い事ではありません。しかしその都市建設とあらゆる文化発展を貫く原則は、人間の力を打ち建てることです。豪華になり、豊かになる都市の中で、強欲と暴力と力とが世の中の原則となり、そこに神も、信仰も出てこないのです。
そこに神というお方を見上げるものは、一人もいなかったのです。近代化を歩み、現代へと文化発展した、今日の先進国の歩みも、このカインの子供たちと同じ原則を見ることができるように思います。西欧の近代化、現代に至る歩みは、むしろキリスト教の神を前提とする、神を知っているはずの社会の中で、このカインの子供たちと同じように、人間の力と支配の拡大を求めてゆく原則が、色濃く表れているように思います。
口では神の名を語り、信仰を語りながら、しかしその生き方の実態は、実にカイン的な支配の拡大を求める生き方さながらです。
さて、このように原則に塗りつぶされてゆく人類の文化発展の脇に、信仰の家族が、創世記4章の終わりにひっそりと記されています。それはたった二節だけの極めて簡潔な記述でありますが、人間の力を求めること一色に塗りたくられた世界に、一筋の全く別な光をともしているように思います。
「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。
「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、
神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」実に簡単な記述です。誰々が、誰々に、何々という名前を付けた。ということが二つ記されているだけです。
「それがどうした」と言いたくなるところです。
しかし、この、誰々が誰々に何々と言う名前を付けた、とある、このところに彼らが、この時代の中で何に望みを置き、何を求めていったかが、明らかに示しているのです。
ではまず25節。アダムが、カインとアベルの次に子を授かり、その子に「セツ」という名を付けたということ。セツという名前の意味は、「種」とか「子孫」とか
「子ども」という意味です。
これは、次なる子孫が与えられたから「子孫・セツ」という名前を付けたのだ、というような意味ではありません。単純に、長男カインが、神から離れてゆき、弟のアベルは殺された。しかしその後にもう一人の子を授かったことを喜んでいる、というような意味でもありません。アダムとエバが、新たに授かった子に
「子孫・セツ」という名を付けたのは、明らかに
創世記3:15節の、堕落して神から離れた人類に対する神の救いの約束を大前提にして「子孫」という名を付けたもの、であることは明らかです。創世記3:15を確認してみましょう。
「わたしは、おまえと女との間に、また、
おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」これは、アダムとエバを誘惑し堕落させたサタンへの裁きを語る中で、語られた言葉です。サタンの裁きは、その時即座に実行されるものというよりかは、サタンの子孫と女の子孫とが敵対し、女の子孫がサタンに勝利することを通して実現してゆくことを教えているものです。そのことは同時に、堕落したアダムの子どもたちの救いを語っているものです。
本来であれば、堕落し、神から離れた人類は、神に敵対する側にいるのです。サタンと同じ側にいて、神と敵対している側にいるはずなのです。そのような神に敵対し、サタンと同盟関係にあるはずの人類の中から、サタンに敵対する側につく、つまり神の側につく女の子孫が与えられることを約束しているものです。つまりサタンの仲間から、サタンの敵に変わる子孫たち、神の敵から神の側に就く悔い改め神に帰る子孫たちが与えられていることを約束した、いわば救いの約束を記しているものです。ですから創世記3:15節は「原始福音」とも呼ばれています。アダムとエバが、新たに授かった子に
「セツ・子孫」という名を付けたのは、明らかに、神が
創世記3:15節で語られたこの救いの約束、「女の子孫」の約束に望みを託したことを現しているものです。そういえば創世記4章の初めのカインの誕生の時にも、4章の1節でエバはカインを産んだ時に
「私は、主によってひとりの男子を得た。」と語って、
「私は得る」という意味の「カイン」という名を付けています。この時も、単に、子どもを私は得たということを語りたいのではなく、
「一人の男子」という言葉には、
創世記3:15節の「女の子孫」の約束に対する希望があります。しかも今回は、主語が「私は得た」ではなく「神が授けた」に、変わっておりまして、その救いの御業を定め、それを実現される神に依り頼む信仰が増しているように思います。アダムとエバは、この間、堕落から不信仰に歩んでゆくカインの子供たちの様子を目の当たりにして来たはずです。ますます神から離れ、人間の力を追い求め傲慢になっていく人類の不信仰がより鮮明に、より深刻になってゆく様を見てきたと思います。
状況はますます絶望的になり、希望は消え果てゆく現状。しかしだからこそ「人間」に希望を置くのではなく、あの創世記3:15の約束を与えてくださった神に望みを置くアダムとエバの信仰を物語っているものと思います。
「神は私にもうひとりの子を授けられた」。
しかもカインが奪い、打ち壊した者を、神は取り返してくださった。殺されたアベルの代りに神はもう一人の子孫を、女の子孫を授けてくださった。このように、この時エバは子どもを再び得た自分にではなく、約束の子孫を授けられた神に目を向けています。しかも4:1でも、本日の4:25節でも名前を付けた者に、家長であるアダムの名前ではなくエバの名が記されています。これは最初に善悪の知識の実を食べ、神に背いたエバが悔い改めの告白ではないでしょうか。
このようにエバも、そしてアダムも、人類が堕落から堕落に歩むこの長い年月の中で、ますます悔い改めを深め、救いを約束された神に望みを置く信仰を深めてゆくことになったのです。そんな不信仰に染まる世界の中で、信仰に生きた姿を、この名付けられた「セツ」の名前は記録しているのです。さて、次にセツにも、また子どもが与えられました。
「セツにもまた男の子が生まれた。
彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」このセツの子どもの名前が実に不思議な名前なのです。
「エノシュ」という名前の意味は「弱々しい」とか
「ひ弱な」という意味なのです。普通このような名前を子どもにつける親がいるでしょうか。
「健太くん」と言う名前は付けても、
「弱しくん」とか「のびたくん」
なんていう名前はなかなかマンガでしか見られません。どうしてセツがこのような名前をその子につけたのか。その理由は何も書かれてありませんが、人間の弱さに注目を置き、その弱さを告白しているものでしょう。カインの子供たちが強さを追い求めていったのとは対照できです。ひょっとして、生まれつき弱い子どもだったのか、未熟児であったのか、それとも何らかの障害を負っていたのか、想像の域は出ませんが。このエノシュという名前は、カインの6代目の名前が
「レメク」つまり「権力・力・支配」という名前と
何と対照的でしょうか。確かにレメクの家庭には膨大な数の牧畜が発展をしていたり、音楽が鳴りとどろいていたり、鍛冶屋の技術が発達したりと、実に豊かで、美しいきらびやかな社会というものが印象的ですが、方やセツの家系となりますと、そのようなものは何一つなく、非常に地味にすら見えます。豊かさもなければ、勢いもなし。そして生まれた子どもの名前は「弱しくん」でありますから、何とも心もとなく、何とも弱々しい、パッとしないと思うでしょうか。
まさにカインがノデの地に建設した豪華な巨大都市とは対照的に見えます。しかしセツの子孫が大事にしたものが、人間の弱さ、はかなさ、小ささを覚えることだったのです。人の弱さ、罪深さ、悲惨さを覚えるがゆえに、ますます神の救いの約束に望みを置き、希望を置く。この信仰の視点が、このセツの子孫が大事にしたものであり、彼らの特徴だったのです。
「彼は、その子をエノシュと名づけた。
そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」この時以前もアダムもエバもセツも神に祈らなかったわけではなかったと思います。しかしこのエノシュ誕生に至って、彼らは神への祈りに至らざるをえなくなっていったのでしょうか。それは弱さを障害か何かの弱さを負ったエノシュのゆえに、人間の小ささをよりいっそう覚え、主に頼らなければどうしようもならないようになっていったのか。
または人類の堕落をこの時より深刻に心を痛め、全能の神にしか望みを置く事ができないことをいよいよ深く覚えさせられて行ったのか。いずれにしても、カインの子孫が求めるものは人の力と権力と富であり、それがゆえにますます傲慢になり、神に対しておごり高ぶるようになり、自分の力に頼み、神に寄り頼むなんて感覚はますます消えうせてしまいました。しかしセツに与えられたエノシュという子を通して、ますます人の弱さ、小ささを告白し、神に信頼するという恵みへと導かれ、むしろ神の恵みに基づいて助け合う社会を現していったのです。
私たちが負う弱さのゆえに、神への信仰を学んだということは何と私たちの生涯の中にも思い当たる恵みではないでしょうか。順風満帆に成功している時には決して見えない、神に望みを置く信仰の世界を、深い挫折を味わった時に教えられるということは何と多い事でしょうか。深い悩みの中で神と出会い、新たに神を信じる祝福を頂くことの何と多いことでしょうか。豊かな者が幸せで、貧しい者が不幸かというと、決してそんなことはなかった。
強いものが有利で、弱い者が不利かというと、決してそうとは限らない。その弱さのゆえに、人のはかなさを正しく見つめ、悔い改めることを通して罪の告白に導かれ、まことにより頼むべき神への信仰に正しく導かれるという世界があることを、私たちはこの箇所から覚えたいと思うのです。ますますカイン流に、人間の力を求め、勢力を求める世界へ傾倒する時代の中で、いや増して重要なこととなるでしょう。
このエノシュの家にはレメクの家のように豪華な豊かさも、権力も、威勢も、きらびやかさもありません。しかしこの家庭にはレメクが築いた社会には絶対にない宝があったのではないでしょうか。それは神を礼拝するという宝です。神への信仰と言う祝福です。人の力により頼まず、むしろその弱さを告白し、ますますこの神に望みを置く信仰はエノシュの弱さから導かれたものです。人は弱い、という前提に立つとき、助け合わなければならない、共に生きる社会が生まれます。
人は強いという前提に基づく時、必然的に競争社会となり、助け合い、共に生きる社会からますます遠のきます。今日、勝ち組、負け組みというこの時代の価値観を、もう一度聖書の光の中で捉えなおさせていただきたいと思います。静かに神の御前に、小さなものとして主の恵みを求めて礼拝をささげた。そして互いの弱さのゆえに、助け合った、この家族の祝福された姿を、もう一度私たちの手本とさせていただきたいと思います。
神はこのような堕落しきった世界をお見捨てにならなかった。いやむしろ、あっというまに不信仰真っ黒に塗りたくられた創世記4章の世界の中に、神の恵みがセツの子孫を通して現され、前進しているのをこの短い箇所から皆様は、見ることが出来ますでしょうか。この世の視点から見れば、圧倒的な勢力を誇り、力強い国を建てて勢力を伸ばすカインの子供たちに対して、その世の中で、肩身狭く、勢力もなく、地味に、ひっそりと心もとなく生きているようにしか見えないセツの子孫。
しかしセツの子孫が確かに見て、そこに望みを置いて生きた世界は、全く違う世界でした。そこにこそ価値を置いてこの時代の中で忍耐の中を歩んだ、このセツの子孫の記述から、神の力強い進軍ラッパを聴くことができるでしょうか。暗闇に覆われてゆく世界にも拘らず、その真っただ中を切込み、静かに、しかし確かに前進し進軍している、神の恵みの力強く前進している様を、本日の箇所から皆様は見ることが出来ますでしょうか。