エリコの町で、主イエスはザアカイに向かって、「きょう、救いがこの家に来ました。・・・」と告げられた。その時、家の周りには、大勢の人が集まり、次は何があるのか、聞き耳を立てていたようである。「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである。」(11節)「神の国の到来」について、ここでも人々は、その期待に胸を膨らませていた。けれども、この世の王としての「メシヤ」を待ち望んでいたので、主は、その誤解を正そうとされたのである。
主人は、王位を受けて帰って来たとき、早速、僕たちを呼んで、その働きぶりを問い質した。(15節)「ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました」と告げた僕は、「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい」と、主人からの褒め言葉をもらった。二人目は、「あなたの一ミナで、五ミナをもうけました」と告げると、「あなたも五つの町を治めなさい」と言われた。働きに応じて、それぞれ責任が増している。そして三人目は、「ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。・・・」と。彼は、無くすことを恐れたばかりか、主人を信用せず、その命令を無視していた。主人を正しく理解せず、反対にとんでもない悪人のように言い切った。その彼は、その無為無策が、主人によって責められたのである。(16〜23節)
エルサレムの十字架を目指して、主イエスは歩んでおられた。その十字架の予告は、既に三度なされ、その都度、人々の裏切りのあることが告げられていた。明らかに、このたとえは、ご自分を退ける民のことに触れている。イエスを王と認めたくない民のいること、しかし確かに王となること、そして王となって戻ってくること、その一つ一つのことは、十字架の死、死から復活、そして昇天、更には、終わりの日の再臨を告げている。全ての人が、これら一連の時間の流れの中で、それぞれ、どのように生きるのか、何をするのか、どんな人生を営むのか、よくよく考えるようにと迫られていた。十人が、それぞれ一ミナずつ与えられている。この世で生きることにおいては、特別な分け隔てはなく、果たすべき務めを与えられている事実を明らかに示している。主人の命令を心に留めて生きるか否か、神を恐れて生きるか否か・・・であった。
そして、このたとえは、私たちに警告を発している。くれぐれも、一ミナをふろしきに包んでしまった僕になることのないようにと。彼は、主人を恐れていた。それは間違った知識によっていた。「あなたは計算の細かい、きびしい方、・・・お預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから」とは、全くの誤解、言い掛かりであった。主人は、計算の細かい、きびしい方ではなく、豊かに報いて下さる方、無慈悲でも、冷酷でもなく、あわれみに富むお方である。その誤解が全てを狂わせた。神を正しく知ること、主イエスを、より一層よく知ること、それは何よりも大切である。私たちにとっても、天の父がどのようなお方であるか、神をよく知ることこそ大事と、改めて気づかされる。(出エジプト34:6、詩篇86:15、103:8)
主イエス・キリストは、私たちのために、ご自分のいのちを捨てるまで、私たちを愛して下さった。そのお方を、王として、心からお迎えし、この方から「よくやった。良いしもべだ」との言葉を、確かにいただけるよう、そのような生き方が導かれるように祈りつつ、この地上の日々を歩む者でありたい。

