十字架への道を歩まれた主は、ゲッセマネで捕らえられ、夜通しの裁判に引き回され、金曜日の早朝から、ローマ総督ピラトの前に立たされ、遂に十字架刑へと引き渡された。人々の嘲りの中、ゴルゴダの刑場へ、自分の十字架を負って進まれた。そして、二人の犯罪人とともに、朝の9時頃、十字架につけられた。人々の嘲りは止まず、「もし神なら自分を救ってみろ」と、ののしりの言葉は激しかった。十字架のイエスの姿は、人々が目を背けるほど、見すぼらしかったに違いなかった。けれども主は、その痛みと苦しみを耐えておられた。その最中、犯罪人の一人は、自分の信仰を言い表した。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」彼は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と、御国を約束される幸いにあずかっていた。
最後の言葉が発せられる前に、「神殿の幕は真っ二つに裂けた」と記されている。(45節)神殿にあった隔ての幕が裂けたことは、旧約聖書が定める様々の儀式が、もはや取り払われることを意味する出来事であった。その大きな変化を、神ご自身が成し遂げておられ、十字架の死を境に、神が人々の心を大きく変えようとしておられた。その事実は、十字架のイエスを見上げていた人々の心に、確かな変化のあったことに表れていた。百人隊長しかり、またそこにいた群衆の心が、変わりはじめていた。(47〜48節)そして「イエスのからだの下げ渡しを願った」ヨセフも、その心を大きく動かされていた。(50〜53節)主イエスご自身が、父にその霊をゆだねられた時から、次は、父なる神が人を動かしはじめておられた。その事実を覚える時、私たちは、神に身を任せることの確かさを知ることができる。(※マルコ15:43「思い切って」)
けれども時は、確実に過ぎていた。弟子たちには、重苦しい、失意の一日となった「安息日」が明け、「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。」(1節)そこで目にしたのは、空になった墓で、「主イエスのからだはなかった。」彼女たちは途方に暮れるしかなかった。彼女たちも、復活を予告されていたが、それを期待することはなかったからである。その婦人たちに、神は御使いを遣わして、主イエスは「よみがえられたのです」と告げておられる。そして、これまでに聞いていたことを思い出すように、確かに「よみがえり」について聞いていたでしょうと、彼女たちの心に語り掛けておられた。彼女たちの心は次第に開かれ、「イエスのみことばを思い出した。」(2〜8節)マグダラのマリヤとヨハンナ、ヤコブの母マリヤ、その名を記された婦人たちが、イエスのよみがえりを信じるように導かれていた。彼女たちは、この出来事を他の弟子たち、特に使徒たちに話して聞かせている。一生懸命、繰り返し語ったようである。(9〜10節)
使徒たちの中で、さすがにペテロは、事の真相を確かめたいと願ったのか、「立ち上がると走って墓へ」と向かった。(12節)彼が見たのはやはり、亜麻布だけが残された空虚な墓である。彼は「この出来事に驚いて家に帰った」が、やがてそのペテロに、主ご自身が姿を現し、彼を、イエスのよみがえりを信じる者へと導かれるのであった。誰ひとり、人から伝え聞かされただけでは、イエスのよみがえりを信じることにならなかったようである。すなわち、よみがえりの出来事は、簡単に信じられるわけでなく、また信じようとして信じられることではなかった。人に説得されても無理なこと、それゆえに、無理に信じようとすることはいらない、それほど不思議な出来事と言える。では、信じる者と信じない者の違いは、一体どこにあるのか。(※コリント第一15:3以下)
そして、今日私たちが、主イエスを信じることができるのは、私たちも聖書を通し、主イエスの約束の言葉に触れ、主が生きておられることを、一人ひとり、不思議にも信じる者に変えられたからにほかならない。よみがえって、今も生きておられるイエスご自身が、語り掛けてくださり、私たちの心に宿ってくださっているのである。他の人に説明しても、また説得しようとしても、その人を信じる者にすることは、到底できないことである。けれども、生きておられる主イエスが、「みことば」を通して語り掛け、その人の心に宿って下さる時、その人も、イエスを信じる者に変えられるのである。私たちはそのようにして、教会の交わりの中で、この途方もない奇跡を経験し続けることになる。感謝をもって、主イエスの十字架とよみがえりを宣べ伝え続けたいものである。
