「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」これがイエスの前に進み出た、ある役人の質問であった。彼は「小さい時から」戒めを守り、人々からの尊敬を得る生活をしていたものの、未だ「永遠のいのち」を受けたとの確信はなく、平安がなかったのである。彼には足りないことがあった。それは地上の生活への執着を捨てること、そのうえで、主イエスに従うことであった。しかし、その一番肝心なことについては、裕福な人のみならず、すべての人が無力であり、だれひとり、自分の力で救いに至るのは不可能と、その場にいただれもが、意気消沈せざるを得なかった。けれども、主イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」救いは神の大いなる業、神が人を救ってくださるのだ・・・と。
主のもとを去っていった役人と比べて、自分たちは主に従っている事実、それまでしていた生活を捨てた事実、どれも不思議であり、神がさせて下さったことを思い返すことができたのであろう。しかし、同時に役人との違いは何なのか、それも知りたいと、心の中は揺れていた。マタイ福音書では、ペテロが、「私たちは何がいただけるでしょうか」と問うている。(マタイ19:27)何もかも捨てて、主に従ったこと、それを誇るつもりはなく、そのようにした者たちに、神がどのように報いてくださるのか、それを知りたいと願った。そして主イエスは、その思いに答えておられる。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」(29〜30節)
捨てた者には、この世で「その幾倍か」を報いてくださること、後の世で「永遠のいのち」を報いてくださること、二重にも三重にも、報いは確か!と。「何がいただけるでしょうか」など、全く心配する必要はない!とも言われたのである。神が報いを備えておられること、そして、究極的には「永遠のいのち」を備えておられることを忘れないようにと。永遠のいのちを得るために、何もかも捨てることが求められているのではない。イエスに従うのに、何もかも捨てることがあっても、それがこの世で何と不合理で、損なこと、不条理と思えても、神が用意してくださる報いは、この世でも、後の世でも、豊かで完全なのである。主は、弟子たちに、「安心しなさい」と、語っておられた。弟子たちは、ただ主を信じ、すべてを捨てて従うかどうか、それが問われていた。
けれども、この十字架の受難の予告には、三日目のよみがえりも触れられている。主は三度の予告において、いずれも受難=十字架の死と、死からのよみがえりに触れておられた。ところが、弟子たちは死の予告が強烈だったためか、よみがえりの予告は、ほとんど耳に入らなかったようである。今回も、語られた意味が「何一つわからなかった。」彼らの心の鈍さだけでなく、「彼らには、このことばが隠されていた」からであった。(34節)神のご計画は、イエスがだれにも妨げられることなく十字架の死に至ること、そして罪の身代わりの死が成就することが、何よりも優先させられていた。弟子たちの無理解さ、「何一つわからなかった」と言われることは、私たちには、何とも不可解である。けれども、メシヤが地上的に勝利することを期待する人々には、やはり、人の子が苦しみを受けるとは、考え難いことだったのである。
この救いの確かさを多くの人は認めず、今なお自分の思いのまま生きようとしている。けれども私たちは、弟子たちが最初は分からなかった十字架とよみがえりについて、後になって理解した事実のあることを心に留めたい。すなわち、弟子たちが考えを大転換する出来事があったということである。それなしに今日の教会は存在し得なかった。十字架とよみがえり、主イエス・キリストの受難と復活があって、弟子たちはすべてを理解する者となった。彼らもまたどんな苦難が待ち受けていたとしても、主イエスの十字架とよみがえりの出来事を、喜びの知らせとして、全世界に告げ知らせる者となって立ち上がったのである。私たちも、この喜びの知らせ、福音の確かさを信じ、主によって世に送り出されたい。主の証し人として生きる者、歩む者として!
