律法を行う人々ではなく、「信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」(9節)と言ったパウロは、さらに「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶ...」(14節)と言っています。それは、神様がアブラハムとされた約束が、「子孫」、「相続」としてのイエス様によって成し遂げられ続けているというのです。
私たちは、アブラハムとの約束において、イエス様を備えられ、真実を貫かれる神様に目を留めたいと思います。
パウロが、この手紙の2章と3章で言おうとしているのは、こういうことです。人は、イエス様を信じることによってだけ義とされるのであってそれ以外に義とされる道は全くないこと、当然、律法を行うことで義と認められることも決してない、とです。
神様に義とされる、義と認められるとはどういうことであったでしょうか。
神様に「あなたは正しい者である」とされることですが、具体的には、「あなたがわたしを信じている、あなたのその信仰は、正しい」とされることであり、そこから「あなたはわたしと正しい関係にある」と認められることです。
まことの神様を正しく信じ、まことの神様と正しい関係に入れられることなしに、どうして、神様の祝福を受けることができるでしょうか。まことの神様との正しい関係からズレていて−これが「罪」です。−どうして神様のご愛を受けることができるというのでしょうか。
イエス様は、山上での教えを締めくくられる終わりの方で、こう言われました。「 神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイの福音書 6:33)。私たちは、まことの神様が治められ、ご支配されることを受け入れ、喜ぶこと、そして、神様との正しい関係に入れられることを最優先し、何をさしおいても求めたいのです。
私たちの教会は、この2年間、特にこの教えを覚えて歩むように導かれてきたことを感謝したいと思います。2011年度のみことばについてすでに備えられていますが、イエス様は「求め続けなさい」(33節脚注)と言われています。
私たちは、この地上、この世を生きるために必要ことを求めることに先んじて、まず、信仰の正しさ、まことの神様との正しい関係を神様に求め続ける者でありたいと思います。
今日の聖書箇所には、「契約」という言葉が2回、「約束」が4回出て来ます。
いずれも神様と人間との間で交わされる誓(ちかい)の出来事ですが、神様の契約の特徴がよく現れています。
神様がアブラハムと交わされたおもな契約は、2つです。一つは、神様がアブラハムの子孫にカナンの地を与える(創世記 12:7)という契約です。契約というよりも一方的なアブラハムへの約束です。
二つ目は、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」(創世記 15:5)。これも契約というよりも一方的なアブラハムへの約束です。アブラハムは、受け入れるだけでよかったのですが、それでもアブラハム受け入れきれません。あまりにも大きな恵みで、信じ切れなかったのです。神様は、ご自身で約束の確かさを示されます。それが創世記15:7−17の記事です。神様はご自身の約束についてこうまでされて、約束を結び、アブラハムを祝福されたのです。
神様の一方的な約束によって人間が救われるというあり方は、イエス様において私たちにも及んでいます。パウロは言います。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ人への手紙 4:25)。神様はこのイエス様を私たちのために一方的に備えられて、私たちに、この私の独り子イエスを救い主と信じますか。と言ってくださっているのです。
私たちは、このイエス様を心に受け入れ、信じるだけです。イエス様と一つに結びつけられるだけです。神様が着なさいと備えてくださったイエス様を着ればよいだけです(ローマ人への手紙 13:14)。
神様は、人間を救うためにイエス様を備えられて一方的な約束をされていることこれこそが恵みです。福音です。
私たちは、イエス様に出会いこの一方的な恵みが、真実であることを知っており、この恵みに生かされています。さらに、この恵みに感謝し、証しする喜びがあります。喜びがあるから証があるのです。からし種ほどの小さな証であってもこの恵みにいのちがありますから時が来れば確かな実を結びます。この幸いを改めて覚えたいと思います。
パウロは、神様の約束は、アブラハムとひとりの子孫に告げられており、そのひとりの子孫とは、イエス様であると言って(16b)、イエス様をアブラハムのひとりの子孫として大胆に結びつけています。
神様のアブラハムへの約束は、子どもを持つことを全く望み得ないアブラハムにあなたの子孫は、星の数のようになる、あなたは多くの国民の父となる(創世記 17:4)、というものでした。
アブラハムは、望み得ないときに望みを抱いて信じます(ローマ人への手紙 4:18)。アブラハムは、神の約束と「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」(ローマ人への手紙 4:21)とあるように、約束された神様ご自身を信じたのでした。「だからこそ、それがアブラハムの義とみなされたのです。」(ローマ人への手紙 4:22)。
このようにして義とされたアブラハムへの「あなたは多くの国民の父となる」という約束は、アブラハムの家系にアブラハムの子孫として生まれたイエス様に告げられ、受け継がれ、相続され成就されます。それは、イエス様が罪人のために十字架に死なれ、罪人が義と認められるためによみがえられたからです。
神様は、このイエス様を信じる人をユダヤ人であれ、異邦人であれ、すべての人の罪を赦し、義と認められてアブラハムの信仰の子孫とされたからです。
こうしてアブラハムは多くの国民の信仰の父となったのです。神様はアブラハムとの約束を今もなお真実をもって果たされ、成し遂げられています。
私たちは、神様に義と認められること、そして私たちの信仰、信仰の生活、信仰の生涯の歩みの確かさをどこに置いているでしょうか。私たち自身ではありません。イエス様を信じる者との約束を真実をもって貫かれる神様に与えられ、支えられ、保たれて確かにされているのです。
私たちは、このことを感謝と平安をもって覚え続ける者でありたいと思います。
