「エルサレムに上られる途中」の主イエスとその弟子たちの一行は、果たして、どれくらいの数になっていたのであろうか。決して寂しげな一団ではなく、意外と目立っていたに違いなかった。北のガリラヤ地方から南に下るようにして、旅を続けていた。ガリラヤ地方からサマリアの地方にさしかかり、その境を通られた時のことであった。ある村に入ると、「十人のツアラアトに冒された人がイエスに出会った。」(12節)彼らは、その病のために人々から隔離され、町には入れてもらえなかったが、図らずも、イエスの一行に出会う幸いにあずかることになった。
彼らはツアラアトに冒されて以来、何としても癒され、清められることを願っていたはずである。そして、イエスの噂を耳にしていたのである。そのイエスが来られたので、この時を決して逃すことはできないと考えた。彼らが聞いていた噂は、イエスが、いろいろな病に苦しむ人々を治されたこと、悪霊につかれた人を癒されたこと、またツアラアトの人には、彼にさわって治してくださったことなど、どれも心躍る事柄ばかりであった。もし自分の身に起こるなら・・・と期待して、「どうぞあわれんでください」と声を張り上げたのである。遠くに離れたまま、近づかなかったのは、彼らが身を慎んでいたからであろう。それとともに、イエスに対する信頼を持ち合わせていたこともうかがわれる。いたずらに「癒してください、治してください」とは言わず、私も「さわって欲しいのです」とも願わなかった。ただ「あわれんでください」と願ったのであった。
(参照:ルカ4:35、40、5:13、15)
十人とも、癒される信仰があったことになる。それだけでも素晴らしいことが起こっていた。けれども、「きよめられた」十人の内の一人は、「自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」のであった。(15〜16節)彼も祭司の所に向かっていたが、自分が癒されたと分かると、たちまち引き返し、癒し主はイエスであると、その足もとにひれ伏したのであった。彼は「きよめられた」だけでなく、「いやされた」と気づいた時、癒してくださったイエスに感謝しようとした。単なる社会復帰より、主イエスに感謝し、天の父をあがめようと、それが自分にとっての、一番大切なことと直感したのである。そしてこの人は「サマリア人であった」と、記されている。
それは、確かな救いの宣告であった。(※共同訳:あなたの信仰があなたを救った)病が直って喜ぶにとどまらず、治してくださった方にこそ感謝しようとしたその信仰は、神をほめたたえる信仰であり、神をあがめる信仰である。他の九人も、それなりに確かな信仰があった。けれども、主イエスは、その彼らが戻ってはこなかったことに、幾分か寂しい思いをされていた。しかし、それは自分に感謝することがなかったと嘆いておられることではない。生きておられる神がこのことを成してくださったと、彼らがはっきり気づくことを願われたのである。ただ一人だけが、主イエスから、「あなたの信仰があなたを直したのです」との救いの宣告を聞いたわけで、この人の人生は、その日から劇的に変化したのは間違いない。本人も驚くほどの勇気や力をいただいたに違いなかった。
神は私たちの思いを超えて、日々祝福を注いで下さっている。日々に恵みを与え、御言葉を信じて従う者に助けを与え、道を開いて下さっている。ところが、ともすると自分の知恵や力を過信し、神に栄光を帰することを忘れるのが私たちである。癒されても、イエスのもとに戻ることのなかった九人のように・・・。神が豊かに報いて下さり、祝福してくださるなら、そのお方に心から感謝することを忘れずに歩みたい。私と共に歩んでくださる方、いつもそばにいて支えて、私を強くしてくださる方、主イエスが共におられることを感謝し、神をあがめる信仰に生きる者としていただけるよう、日々、祈りを導かれたい。
