ルカの福音書の17章以下、十字架を見据えてエルサレムへ向かっておられた、その主イエスのお心に触れながら読み進みたいと願っている。1節からの教えは、弟子たちにとって、「えっ!」と戸惑うものであった。「つまずきを起こさせる者はわざわいだ」と言い切り、「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら・・・」と語って、罪を犯す兄弟があるならば、戒めること、悔い改めに導き、赦すようにと、主イエスは命じておられた。一日に七度罪を犯しても、七度悔い改めてやって来るなら、「赦してやりなさい」と。教えを聞いていた弟子たちの間に、とてもできない・・・、自分たちには不可能なこととの思いが広がったようである。
その願いに対する主イエスの答えは、「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」であった。(6節)「信仰を増してください」との願いを聞かなかったかのように、「からし種ほどの信仰があったなら」と語って、信仰のあるなしを問い、もし信仰があるなら、「からし種ほどの信仰」で十分との視点に気づかせようとされた。本物の信仰があるかないか、本物の信仰なら、必ず生きて働くことを知りなさいと。実際に、信仰について、それが大きいか、小さいか、強いか弱いか、また、熱いか冷たいか、その量や質が問われるのは確かである。そして、質より量の点を問いやすく、とても不可能なことも、信仰が増し加えられるなら、可能となるのではないか・・・と期待する。けれども、大切なのは「本物の信仰があるかないか」なのである。
「自分に言いつけられたことをみな、してしまった」としても、「『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」と主は命じておられる。(共同訳:取るに足りない僕 口語訳:ふつつかな僕)命じられた仕事をすべて果しても、なお「なすべきことをしただけです」と言うのは、人にとって、難しいことである。けれども、神の前での人間は、それほどに、はっきりした主従関係があって、神の前での自分を、徹底的に「しもべ」とし、仕える者であることを自覚すること、その信仰があるなら、それは「からし種ほどの信仰」で十分と、主は言われたのである。しもべの立場、仕える者の立場は、「自分に言いつけられたことをみな」果たしていても、それでも「私たちは役に立たないしもべです」と言うのは、この世の人々にとって、理解し難いもの。弟子たち、使徒たちでさえ、複雑な思いであったに違いない。
わざわざ、主がこのような教えを語られたのはなぜか。弟子たちの中で、使徒たちが、「信仰を増してください」と願い出ていた。今日においても、私たちは、人と比べて自分の信仰を推し量ることがある。世の人々が、イエスに従おうとせず、教会に足を向けようともしない時、私たちは不思議にも教会に導かれ、イエスを信じる信仰に導かれた。自分に信仰が与えられたことを感謝する反面、人々はなぜ拒むのかと、次第に優越感を抱いていることはないだろうか。また、熱心に教会の務めを果たす内に、自分で自分を誉めるような落とし穴のあることに気づかされる。主イエスは、ご自分が歩まれたように、弟子たちも歩むように、心を低くして神に仕え、人にも仕える道を教えようとされていた。神を信じ、神を愛し、神に仕える者しもべとして、地上の生涯を歩み抜いてほしいと、心から願っておられたのである。
生ける真の神は、そのように私たちに報いてくださる方であるからこそ、私たちはこの方に、心からお仕えする者として歩むように、召されているのである。私たちは信仰の大小や、多い少ない、強い弱いに心を騒がせることなく、生ける本物の信仰のあるなしを大切にしたい。本物の信仰があるなら、その信仰は、「からし種ほどの信仰」で十分と信じて歩みたい。そして、なすべき務めを果しても、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と、謙遜に言える者として歩ませていただきたいものである。
