「私は二心の者どもを憎みます。しかし、あなたのみおしえを愛します。」(113節)このように歌うのは、ただ自分の周りにいる「二心の者どもを憎みます」と言うのではなく、自戒しつつ、ただ一人真実で正しい方、義なる神の前に、自分も立っていたからであった。その自戒は、祈りとなって次の段落に進む。「私は公正と義とを行いました。私をしいたげる者どもに私をゆだねないでください。」(121節)自分の善行を誇るのではなく、自分の欠けを知りつつ、人の手に陥ることなく、なおも「公正と義」の道を歩ませてください・・・と。
神を私の「助け」と言うのに、前の段落では「隠れ場」「盾」と言い、ここでは「保証人」と言う。詩篇には、「岩」「救い」「やぐら」「避け所」等の、いずれも「身を隠す場所」、そこにいると安心できる場所を表す言葉を使って、神の「助け」を言い表すことが多く見られる。そのような安心できる場所として、親鳥の翼の陰に守られる雛鳥のことも語られる。(詩篇 61:4、63:7、91:4等々)正しく「幸いの保証人」として神がおられること、そのことの確かさを、聖書は繰り返し語り続けている。それゆえに、「私の目は、あなたの救いと、あなたの義のことばを慕って絶え入るばかりです」(123節)と、この世で、この地上でどれほどの困難があろうと、ただ「あなたの救いと、あなたの義のことば」を慕い求めますと願う。一晩中泣きはらした目を思い描いていたのか、それとも目を閉じて、ただ神だけを待とうとしていたのか・・・。
常に一歩退いて、神が事をなしてくださるのを待つので、また自分では何も成し得ないと悟るので、「今こそ主が事をなさる時です。彼らはあなたのおしえを破りました」と、神を待ち望んだ。実際に祈る時、「神よ。急いでください」と、神の出動を待ちわびることが多いのが私たち人間である。「急いでください。早くしてください」「どうして、なぜ?」と、心を騒がせてばかりしている。けれども、はやる気持ちを鎮めて、「今こそ主が事をなさる時です」と祈るなら、神の絶大な力、そして測り知れない知恵に任せることが導かれる。敵対している者たちを恐れる自分のためにではなく、彼らに報いることは、ただ神のお心一つと納得することによって、「それゆえ、私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します」と、確かな信仰に達するのである。(126〜127節)
この世の生活において、誰に「保証人」になってもらうのか、一生の間に何度かそれを考えねばならないことがある。世間の常識として、安易に「連帯保証人」にならないよう気をつけなさいとも言われる。要は、「保証人」の資格のないまま保証人になってはならず、資格要件のない人に保証人になってもらっては危ないのである。神に造られた人間が、誰に「保証人」となってもらうのか、それはただ一人、人間を造られた神だけが、本当の意味で「保証人」になる資格がある、ということである。この詩篇の記者は、神を私の「幸いの保証人」として依り頼んだ。私を決してお見捨てになることはないと、心から信じて神を頼った。神はいつも、どこにあっても、ご自分の所に来る者を、決して退けることはなさらないからである。
立ち止まって、神がおられること、神が救い主を遣わし、救い主キリストのもとに来なさいと、いつも招いておられることに気づこうではないか。神の招きを心から感謝しようではないか。真の神が備えてくださっている安心こそ、確かな幸いである。この世界がどれだけ変わったとしても変わらないもの、時代が変わり、価値観が入れ替わったとしても揺るがないものである。私たち人間がどれだけ無力で、どれだけ弱くても、確かな守りを与えてくださるものである。それこそ、雛鳥が親鳥の翼の陰で守られるように守られる。※ヨハネ14:27、16:33
主イエスは、神の守りと救いへの招きは、「めんどりがひなを翼の下にかばうように」してなされていたと語っておられる。(ルカ13:34)今もまた神の救いへの招きと神の御手の守りは、同じように万全である。だからこそ、私たちは感謝と喜びをもって、神の御手の守りの中にある幸いを受けることができる。私たちも、「あなたのしもべの幸いの保証人となってください。高ぶる者どもが私をしいたげることのないようにしてください。・・・あなたの恵みによってあなたのしもべをあしらってください。私にあなたのおきてを教えてください」と、心を込めて祈らせていただこうではないか。
