私たちは「主の2010年」の教会の歩みを元旦礼拝から始めた。この年の始めに思うことの第一は何であったか。神を信頼する日々を歩ませていただきたい、との祈りであった。一方、日々の生活の現実は今週から具体的に迫ってくる。あれも、これも、全てが大切なことである。実際に疎かにできるものは何一つなく、一つ一つのことに心を傾けることこそ尊い。あれこれの思い煩いに心を掻き乱されることなく、主に信頼する道を歩みたいと心から願わされる。それには御言葉に聞き従うことが何よりである。その教えに耳を傾け、また御言葉を心に蓄えることの大切さを、詩篇から学んでみたい。
その最高の幸せを、詩篇119篇は全篇をもって歌い上げている。壮大な思想が、類まれなる構成によって歌われる。「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。まことに、彼らは不正を行わず、主の道を歩む。」(1〜3節)幸いな人とは、主の教えを心に刻んで、その教えに聞き従って歩む人である。しかも、「心を尽くして」と言われるように、熱心に、また一筋に「主を尋ね求める人々」である。神によって造られ、生かされている人間にとっての幸い、それは「神のことば」に従うことであると。御言葉なしに生きるのは、全く拠り所のない、危うい日々を生きることだからである。
主の教えを聞き、そのさとしを心に蓄える時、神への祈りが導かれる。主が戒めを教え、さとして下さるからである。「どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。」(4〜6節)主の教えの正しさは、人がどんなに努力したとしても、到達し得ない高さにある。そのことに気づく時、自分の弱さに気づき、自分の不完全さに絶望することによって、人は祈り始めるのである。祈りは弱い人がするもの・・・と、多くの人が信仰や祈りを軽んじたとしても、真実な祈りは、神の教えを聞き、自分の罪や汚れを知ることによって、その時、心の底からのうめきのように湧き上がるものなのである。
息子についた霊を追い出してもらおうと願った父親が、「もし、おできになるものなら・・・」と言ってイエスに諭された時、「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫んだ。「信じます」と言いつつも、彼は信じ切れない弱さを認めていた。(マルコの福音書 9:14〜29)また、主イエスが、自己義認をよしとする人々に語られた教えにおいて、取税人は「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈っている。(ルカの福音書 18:9〜13)いずれも自分に絶望することから、神への信仰が無限に広がることを示している。「全き道を行く人々」「主のみおしえによって歩む人々」「心を尽くして主を尋ね求める人々」、その人々が不正に走らず、「主の道を歩む」幸いな人々であるのは、神に頼り、神によって正しい道を歩ませていただくからである。「主の道を歩む」人とは、「どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように」と心から祈る人であり、また「どうか私を、見捨てないでください」と祈る人なのである。
<結び> この新しい年、私たちは神に祈りをささげ、神の御言葉を心に留め、「主の道を歩む」ことを導かれようではないか。主に従うことに対して、この世で目に見える報いがなくても、この道を歩み続けるのか、その意味では、神は実に厳しく私たちに問い掛けてもおられる。教会の歴史においては、神に従うことで、この世では報われなかった人がおり、かえって苦しみや死の恐れに包まれた人も数知れないのが事実である。彼らは信仰によって生きることを恥とせず、生き抜いて天の故郷に憧れたのである。この世での報いではなく、また不正に心を惹かれることなく、「主の道を歩む」こと、その幸いこそ、私たちも追い求めさせていただきたいものである。
(※ヘブル人への手紙 11:36〜40)
