礼拝説教要旨(2003.09.07)

主に聞き従う幸い

(列王記第一 20:1~43(朗読1~25))

※'94.10.2以来、列王記第一20:1以下、旧約聖書を読み、主のみ心を探ることとする。

1、神の民イスラエルはダビデ王の時、王国が統一されるという一つの頂点を経験した。しかしその統一王国はソロモン王の時までで、その子レハブアムの時、北王国と南王国に分裂してしまった。主なる神がダビデとの間に立てて下さった恵みの契約は南王国によって継承されるのであるが、神に聞き従う信仰という点では、どちらの王国も絶えず揺れ動きながら歴史を刻むのである。

イスラエルの歴史において特長的なことは、国が物質的に豊になり盛んになると信仰がおろそかになり、神を忘れ偶像に走ることを繰り返していることである。そのような時、預言者が遣わされ、やがて神の裁きとして近隣諸国の脅威にさらされ、打ちのめされて、やっと悔い改める・・・・という繰り返しである。しかし主ご自身は一貫して、主の戒めに聞き従って幸いを得よ、と語り続け、招き続けておられた。※サムエル第一15:22~23

聖書を読む私たちには、民のかたくなさがよく分かる。けれども果して自分自身はどうなのか、神に対してかたくなではないのか・・・・自己吟味が迫られるのである。

2、預言者エリヤが活躍した頃(BC870年頃)、北イスラエル王国はアハブ王の時代であった。この北王国はアハブの父オムリの時に勢力を増し、首都をサマリヤにかまえ、一層強力となっていた。イスラエルの北にはアラムがあり、更にその北にはアッシリヤが力をつけ南方をうかがっているという政治状況であった。そうした状況下でのイスラエルとアラムの王たちのことが20章に記されている。霊的、信仰的なことについては、16:25~26、16:30~33に記されているように、オムリ、アハブともますます主の怒りを引き起こしていた、いわば最悪の状態であった。

この20章に記されていることを読むとき、政治的な力関係というものは、一種の駆引きそのものなのかと思えてくる。アラムの王ベン・ハダデが全軍勢を集め、32人もの王(指揮官)を従えてサマリヤを包囲して圧力をかけ、使いをやって、ほぼ無条件に降伏するようイスラエルに迫ったとき、アハブはいともあっさりとその要求を受け入れてしまっている。(4節)

ところがアラム側がその降伏を実際に迫ると、アハブと長老たちはそれをためらって、対応を協議している。敵の要求が宮殿の財宝などにおよび、富が失われることに危機感をを覚え、国が滅びることには異議を唱えたのである。こうして使者を追い返してしまった。(5~9節)

3、両者の対立は決定的となり、ついに戦闘は避けられなくなって行った。アラムの王にしてみれば、サマリヤを包囲し、余裕を見せて降伏要求をしていたのであるが、もうすでに勝ったかのように酒盛りをする油断があった。他方イスラエルの王は覚悟を決めたのか、主が遣わされた預言者の言葉に耳を傾けている。(10~13節)

状況の全てを知り、一切を支配しておられるのは神である。この神が預言者を遣わして、イスラエルの勝利を約束された。敵がいかに大軍であろうと、「わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。」と。預言者はアハブの問に答えて、だれが出て行くのか、だれが先頭に立つのかを告げている。おびただしい大軍に対して、若者たち232人と民7,000人は数の上では劣勢であっても、主が勝利するというのである。(14~15節)

戦闘は預言者が告げた通り、アラムの王は大損害を受けて逃走した。一度兵を引き、立て直して反撃するときを待つのであった。預言者はその反撃に備えるようにと注意を促している。(16~22節)

4、一年後アラムは反撃したが、イスラエルは再びこれに勝利した。しかしアハブ王はこの勝利から学ばなかったようである。神、主が勝利されたことを。彼は一連の勝利によって、主を恐れ、主に聞き従う信仰を学ぶことはせず、かえって勝利によっておごり高ぶり、アラムと同盟を結ぶことを選んだのである。アラムの王に対して寛大な扱いをしたのは、アッシリヤの脅威に対して、今この同盟は必要と考える政略にほかならなかった。(26~34節)

主は預言者を遣わして、アラムに対する勝利は「わたしの手によること」と繰り返し告げておられた。(13節、28節) そして勝利によって、「あなたは(あなたがたは)、わたしこそ主であることを知ろう(知るであろう)」と告げておられた。勝利は主によること、主にこそより頼むことを知らしめ、学ばせようとしておられたわけである。しかしアハブは、主のみ声、み教えに聞き従うことは学ばなかった。政治的に自らの判断でアラムの王ベン・ハダデと同盟する契約を結んだのである。

<結び> 主はなお預言者を遣わされた。主のみ声に聞き従うことこそ、人にとっての幸いであることを教えようとされたのである。(35~43節)

預言者自身が具体的な実例を体験させられた上で遣わされ、その上で、アハブ王に一つの例え話を示している。主はアハブ王自身に答を出させようとされた。人はだれでも、なかなか自分の非を認めることはしないからである。

アハブは例え話を理解し、主なる神に聞き従うべきこと、それを勝手に取り違えてはならないことを他の人には迫ることができた。しかし自分自身のことでは、なお悔い改めることを拒んでいる。不機嫌になり、激しく怒って自分の家に戻ったという。家で何をしたのか。ふてくされた寝てしまったのか・・・・。

☆ダビデ:悔い改めた。「私は主に対して罪を犯した。」サムエル第二12:13
主は悔い改める者を赦してくださる。詩篇32:1~2、ローマ4:7~8

☆ペテロ:悔い改めの涙を流した。ルカ22:61~62