礼拝説教要旨 2003年7月20日
道を共に歩く二人の小さな挿絵

共に歩いて下さる主

ルカ 24:13〜35

十字架の死から三日目の朝、主イエスは死からよみがえって、もう墓にはおられなかった。この復活の出来事の知らせはたちまちの内に広まったか、と言うとそうではなく、少しずつ、ゆっくりと知られ、信じられるようになって行った。初めはとても信じられない、とんでもない知らせだったからである。

1、この聖書箇所は、エマオの町に行く二人の弟子に復活の主が近づいて、ご自身を現されたことを記している。(参照マルコ16:12) この記事においても、主イエスの復活は弟子たちにの間で全く予想も期待もされていなかったことが告げられている。

二人の弟子(一人の名はクレオパ)は、多分エルサレムからエマオの自分の家に帰るところであった。……イエスに関してのことは十字架の死でもう終わった。終わったのに、「イエスは生きている」と言う者が現れ、墓は空っぽ……と訳の分からないことになっている……という認識で、頭の中は混乱していた。

二人は、望みをかけたイエスが死なれたことで絶望していたのである。よみがえって生きておられると聞いても、そこに光を見いだすことはなかった。よみがえられた主が近づき、二人と共に歩いて下さっても気づかず、その絶望した思いを語るだけであった。

「ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからのかった」のは何故なのか。共に歩いて下さる主イエスに顔を向けることもなく、心が沈み切っていたのにちがいなかった。目を向けていたとしても、絶望した二人はイエスとは気づかなかったのである。

2、主イエスはその沈み切った二人、どこに望みを置いてよいのか分からなくなっていた者たちに近づいておられた。そしてその二人に語りかけ、心の内を開かせるように語り、痛む心、恐れ惑う思いを聞いて下さるのである。(「何のことですか」(17節) 「どんな事ですか」(19節))

主は、この二人が何で心を痛めているか、何を悲しんでいるかを知っておられたはずである。けれどもあえて聞いておられる。知っているから……といって、教えようとするのでなく、二人に語らせ、それを聞くことから始めておられるのである。(※人と接する時の大切な視点……)

クレオパが懸命になって話すのを聞いた上で、主は、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか」(26節)と語られた。そして更に聖書全体から説き明かされた。「十字架の死と死からのよみがえりという出来事こそ、イエスがキリストであることの証拠ではありませんか。」また、「絶望に沈むどころか、十字架に死なれた方こそキリスト!と望みをかけてよいのです。」と。

3、人が何かに望みをかけ、ここに幸いがあると自分の人生を託そうとする場合、たいていは力によって勝利がもたらされることに向いやすい。ようするに強いものに引かれるのである。弱いもの、みすぼらしい者には目も向けない……ものである。

イスラエルの民は神の民としての幸いの中にありながら、その本当の幸いには目を留めず、力をもって国を治めてくれる王を求め続けた。イエスに対してもそのように期待し、その期待が叶えられないと見捨て、十字架の死に追いやり、イエスの弟子でさえ失望にするしかなかった。

けれども、聖書をよくよく読み返すなら、苦しみを受け、退けられるメシヤ(キリスト)こそ栄光にはいるはず……という視点、これを見落としてはならない。これこそ、神が神の民に対して取り続けておられる原理、原則である。苦しみの中で民を守り、必ず栄光の勝利に導き入れて下さることを神の民自身が気づくこと、それが大切なことなのである。(※神の民の歴史:出エジプト他)

二人は少しずつ心が解きほぐされ、ついに主イエスと食卓を共にしたその時、目が開かれイエスだと分かった。彼らは、道々主が話して下さった時のこと、聖書を説き明かして下さったその間、心が内に燃えていたことを思い出し、いっそう心が熱くなるのを覚えた。聖書の説き明かしに、胸の高なりを感じていた。それで「もっと聞きたい……」との思いが湧き上がり、イエスを引き留めていたのである。

こうして二人は、共に歩み、共に食卓を囲んで下さる主イエスが、今生きて働いて下さることを悟ることができた。そのことが分かった二人は、主イエスが去って、見えなくなっても、もはや動揺せず、心が内に燃えたその熱い心で、その経験を他の弟子たちに語る者となったのである。

<結び>よみがえった主イエスは、弟子たちの前に現れ、彼らの側にいて、信じない者を信じる者になるように導いておられた。

「ああ、愚かな人たち。……信じない、心の鈍い人たち」と、主は嘆いておられるが、そしてその言葉には叱責の意味も含まれていたとしても、二人の心を無理やりこじ開けるよりは、彼ら自身が気づいて悟れるようにと語っておられた。主は、失望し、落胆している者にご自分から近づき、彼らと共に歩んで、彼らの心が(心の目)が開かれるのを待っておられたのである。

その同じ主は私たち一人一人にも近づいて、私たちと共に歩いて下さる方である。復活の主、よみがえりの主イエスは、私たちをも信じる者とするため、たとえどのような困難の中にあっても、「わたしはあなたと共にいる」と約束していて下さる。「どんな事があろうと、あなたと共に歩いている」と聖書を通して教えていて下さるのである。

◎もし何か問題を抱えているなら、主イエスに話すこと。主は、「よみがえったわたしがいるではないか!と言われる。また、聖書の中には、神に頼り、神によって助けられた人が大勢いるではないか……と言われる。

◎私たちの側で心すべきこと、それは「この方と共にいたい」という求め、願いを強くすることである。心が燃えるのを感じて、いっそう主と共にいたい!と。主は、私たちの側で本当にこの方と共にいたいという思いを強くするように……と待っておられる。そのようにして、信仰の成長をとげさせようとして下さるのである。

※食卓で目が開かれる……:生活の真只中で主に向き、主によって養われる ことの大切さ!
聖餐式の度に、復活の主にお会いして目が開か れることの大切さ!

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