よく誤解されることですが、日曜日いそいそと教会の礼拝に出かける人はみな立派な人たちと見られがちです。けれどもこれは全く見当はずれです。
主イエス・キリストはいわれました。
「医者を必要とする人は丈夫な人ではなく病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
(ルカ5:31ー32)
礼拝でまことの神、主の前にぬかづく人はみな、自分を罪びと、神の赦しとあわれみなしには顔を上げることのできない者であると心から認めています。
そうです。自分の心の内側を神に知っていただいて、罪や汚れを許していただかない限り、人の前にも立てないと知ってイエス・キリストを救い主と信じたのです。キリストの十字架は「私の罪のための身代わりの死であった!」と。

私たちの底なしの罪と汚れを許してくださる神の恵みと哀れみに憐みにふれるとき、私たちは初めて神の愛を知るのです。
そして初めて人を愛することを学ぶのです。教会ではこの神の愛に生きることを目指します。神を愛し、神に仕え、人を愛し、人に仕えます。
私たちは決して立派な人ではなく、罪があり、弱さがあり、愚かでこの世で力も地位もありません。
でも、主イエス・キリストは世の終わりまで共にいて下さるので勇気をいただいています。あなたもキリストを信じて私たちと共に歩みませんか。
。
|