礼拝説教要旨(2022.12.25)
すばらしい喜びの知らせ
(ルカ 2:1〜17) 横田俊樹 師 
<今日の要点>
神の御子キリストは、罪の赦し、永遠のいのち、神の愛を与えるために世に来られた

<はじめに:クリスマスは救い主のご降誕を祝うこと>
 クリスマスは、イエス・キリストのご降誕をお祝いする日とされています。
実際にお生まれになった日はわかりませんが、永遠の神の御子であられるお方が、時満ちて、天から世に降り、人としてお生まれになったという、その事実自体を祝います。
単にイエス・キリストがお生まれになった、という言い方もしますが、天から降りて来て下さったのでご降誕という言い方もします。
この世界を、宇宙を造られた神の御子であられる方が、どうして、御自ら、わざわざ肉体をまとってこの世界に来られたのでしょう。
観光に来られたのでしょうか。
そうではなくて、11節の御使いの言葉によると、神の御子は、私たちの救い主として来られたのでした。
ずっと昔から、神はご自身の民のために、救い主をお遣わしになる、と預言を与えておられ、それは旧約聖書に記録されていたので、人々はその時を待望していました。
その、神が遣わす救い主が、数千年のときを経て、時満ちて、ついに世に来られたのです。
ある意味、歴史の中心点、一つのクライマックスとも言える出来事です。
世界を造られた方が、人類の救い主として歴史の中に登場されたのですから。

今日は、クリスマスの主役である御子イエス・キリストが、何からの、どういう救い主なのかについて、三つのことを述べたいと思います。

<@ 罪からの救い主:罪の赦しを与える方>
先ほど読んだ「今日の聖句」マタイ1:21に「この方こそ、ご自分の民をその罪から救って下さる方です。」とありました。
よく、世の中の悲惨なありさまを指さして、「神がいるなら、どうしてこんなことが」という声を聞きますが、その原因はハッキリしています。
罪です。
世界にも、国内にも、またご近所、親戚、それに家族の間でも、争い、嘆き、悲しみ、怒り、喪失があるのは、罪の故です。
また聖書によると、罪によって世に死が入りました。
人を不幸にするこれらの悲惨はすべて、罪から出て来ます。
神の御子は、その罪からの救い主となるために、世に来られました。

罪からの救い主というとき、さらに二つの意味に分けられます。
一つは罪の赦し、もう一つは罪の力そのものからの解放です。
前者は信じた瞬間に与えられ、後者は生涯を通して少しずつ進んで行き、最終的には世の終わり、歴史の完成のときに、実現します。
そのときに、私たちは完全に罪の力から解放されます。
その結果、世界レベルでも個人レベルでも、あらゆる争い、悲惨はなくなり、平和が実現します。
一日も早くその時が来てほしい、と熱望するばかりです。

が、前者の恵みだけでも、すばらしい喜びをもたらします。
人は、事の大小はあれ、罪を犯さずには生きていけないものではないでしょうか。
良心に背いたことが一度もない人は、いるのでしょうか?罪を犯すと、意識する・しないにかかわらず、心が重くなります。
やり直しがきかないこと、償いようのないこと、人に傷を負わせてしまったこと…。
良心的な人ほど、悲しみ、苦しみます。
それは、人としてとても尊いことです。
それは神のかたちに造られた人間の本質だからです。
逆に、そのような心を失うことは、人の心を失うということです。
罪を犯しても平気になってしまった人間は、人間の姿をした獣か悪魔と言っても過言ではないでしょう。

神の御子は、そのように罪に苦しむ人間に赦しを与えるために、世に来て下さいました。
それは何の痛みも犠牲もなくできることではありませんでした。
それは、私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかり、私たちが苦しむべき刑罰を代わりに受けるということでした。
私たちの罪からの救い主になるということは、そういうことだったのです。
神の御子は、それを引き受けて下さいました。
そのことを信じるなら、神は心の重荷を取って下さいます。
重荷から解放されて、心が軽くされます。
人の良心は、ただ気にするな、忘れろ、では決して納得しません。
ただ、この神の御子が身代わりに、ちゃんと罰を受けて下さったという事実によってのみ、納得します。
これだけが、人の良心を麻痺させるのでなく、ある意味、罪によって死んでいた良心を生き返らせるものなのだと思います。
そこに真の喜び、平安、自由があるのではないでしょうか。

神の御子は、私たちにまったき罪の赦しを与えるために、ご自身が身代わりに十字架にかかるために、世に来られました。

<A 死からの救い主:永遠のいのちを与える方>
罪は、人と人との関係を壊して不幸を引き起こすだけでなく、聖なる神との関係に決定的な断絶をもたらしているものです。
その、いのちの源である神との断絶のことを、聖書では「霊的に死んでいる状態」と言います。
そしてその霊的な死は、身体の死をもたらします。
神の憐れみ、恵みによって、霊的な死の状態のまま(神から断絶した状態のまま)、しばらくの間は、身体は生かされています。
しかしそれはいつまでもではありません。
地上に生かされている間に、イエス・キリストを信じて、罪の赦しを得、神との関係を回復するためです。
霊的に死んでいる状態(神から断絶した状態)から、霊的に生きている状態(神との関係が回復した状態)になるためです。
地上のいのちは、その霊的に生き返るチャンスを与えられている時間です。
この猶予期間に、いのちの源である神との関係が回復したら、その関係は、決して断たれることがありません。
この世にあっても、その後も、二度と神から離れることはありません。
いつまでも、永遠に神と共に生きる者とされます。
永遠のいのちとは、神から離れて一人でいつまでも生きることではありません。
人間は有限な存在です。
ただ、いのちの源である神との愛の関係に入れられて、神と共にあって、はじめて永遠に生きるのです。
永遠のいのちとは、そういうことです。

私たちの魂は、神とキリストと共に、この世にあっても、その後も、永遠に続く愛の関係の中にあります。
そして世の終わりのとき、歴史の完成のときに、永遠の身体をもって復活します。
神と共にいつまでも生きるとは、どんなにすばらしいことでしょうか。
今の肉体はいつかは、役目を終えますが、私たちの魂は、古い肉体からは離れますが、神から離れることはなく、神と共にいるのです。
神に対して霊的に生きている状態は、いつまでも続くのです。
ですから、死んでも生きるということです。
生きたまま、天に移されるということです。
また、私たちの魂は、死を見ない、経験しないということです。
この、神と共にある永遠のいのちを頂いているということを、静まって、よく心で思い巡らしてみて下さい。
確かなこと、現実のこととして、深く思い巡らして下さい。
心の底から静かな、深い喜びが湧いてくるのを感じないでしょうか。

へブル2:14-15、新約p. 426
2:14 (神の御子が肉体を取って世に来られ、十字架にかかられたのは)その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。


神の御子は、私たちに永遠のいのちを与えるために、世に来られました。
 
<B 孤独からの救い主:神の愛を与える方>
永遠のいのちとは、私たちがいつまでも神と共にあることだと言いました。
そのために御子キリストは、世に来て下さいました。
どうして神は、私たちといつまでも共にいたいと思われたのでしょう。
私たちを愛しているからです。
神の御子も、私たちを愛して、私たちがいつまでも共にいることができるようにと、世に降って来られたのです。
そして十字架にまで従われたのです。
私たちを霊的な死から取り戻して、共に永遠に生きることができる喜びのゆえに、十字架をさえも喜んで従われたと言います。
私たちと共にいるようになることを、神の御子は、どれほど、どれほど喜んでおられることか。

ある心理学者は、「愛とは、共に、という願望である。」と言ったそうです。
親子、夫婦、友人、恋愛の愛。
皆、共に、という願い、思いと言えます。
人は深い問題、困難にあるとき、孤独を感じると言います。
誰かが助けることができればいいですが、人間の能力を超えた問題というものもあります。
そういうときでも、問題解決には無力であっても、ただそばにいてくれるだけで、少なくとも孤独からは救われます。

水野源三さんという方の名前は、ご存じの方も多いでしょう。
1937年長野県に生まれましたが、9歳の時、赤痢にかかり、その高熱によって脳性麻痺を起こして、やがて目と耳の機能以外のすべてを失いました。
彼は、話すことも書くことも出来なくなりましたが、母親は何とか彼と意思の疎通をしようと五十音順の板をもって、指で指し示したところ、源三さんは目の動きで応答した。
これが47歳で天に召されるまでの彼の唯一のコミュニケーション手段となりました。
それで「瞬きの詩人」と呼ばれるようになりました。
彼が病気になってから4年目の12才の時、町の教会の牧師が訪れて、聖書を置いていったそうです。
それを母親にページをめくってもらって、丹念に読んだ源三さんは、やがてクリスチャンとなりました。
そして18歳の時から詩作を開始して、多くの作品を生み出されました。
その詩風は神への喜びを表す純粋な詩であったと評されます。
彼は、寝たきりの難病の中で次のように歌いました。
「キリストの御愛に触れたその時に、キリストの御愛に触れたその時に、私の心は変わりました。
憎しみも、恨みも、霧のように消え去りました。
キリストの御愛に触れたその時に、キリストの御愛に触れたその時に、私の心は変わりました。
悲しみも、不安も、雲のように消え去りました。
キリストの御愛に触れたその時に、キリストの御愛に触れたその時に、私の心は変わりました。
喜びと、希望の朝の光が、差してきました。」
神は全能であられ、世の終わり、世の完成のときには、すべての人に完全な救いを与えられますが、そこに至るまで、今の世では、必ずしも私たちの願い通りにはならない場合もあります。
しかし、神のご愛は今すでに、信じる者たちに一人びとりに注がれ、神はいつも、片時も離れずに、信じる者たちと共におられます。
神はどこにおられるのか?と私たちが思うときにも、そばにおられます。
そしてこの、共にいて下さる神の愛は、この世にあっても、その先も、永遠に続き、永遠に私たちの心を満たし続けるのでしょう。

神の御子は、その神の愛を与えるために世に来られました。

「 尽きぬ命を 与うるために 今ぞ生まれし 君をたたえよ」新聖歌 79 番
10節で、イエス様のご降誕を告げる御使いは「すばらしい喜びを知らせに来た」と言いました。
「すばらしい」と訳されたことばは、原語でメガという言葉で、とてつもなく大きい、巨大な、という意味です。
それほどの喜びというのです。
「パンセ」の著者で、哲学者、数学者、科学者であるブレーズ・パスカルは31歳のとき、夜中に聖書を読んでいて、キリストを知った経験をこんな風に書き残しました。
「歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。永遠のいのち。
永遠、唯一まことの神でいます、あなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ること。
イエス・キリスト。
イエス・キリスト。
イエス・キリスト。」

この言葉を自分の洋服の裏に縫い付けていたと言います。
水野源三さんの詩に通じるものがあるように感じられます。
水野源三さんも、パスカルも、「すばらしい喜び」を味わっていたのでしょうか。

その喜びにあずかっていないとしたら、もしかしたら、真に喜ぶべきことを、私たちが喜べていないだけなのかもしれません。
目が明後日の方を向いて、求めるべきものを求めていなかったとか。
真に価値あるもの、永続するものよりも、目に見えるもの、やがて過ぎ去るこの世のものを求めているとか…。
喜びがないのは、すでに与えられているものの価値がわかっていなかったから、といういことが、もしかしたら、あるのかもしれません。
罪の赦し、永遠のいのち、神の愛。
これらの価値を本当に知ることができたら、景色が一変するのかもしれません。
私たちの霊の目が開かれることを祈らされます。
そして、クリスマスの日だけでなく、生涯をかけて、いのちの源であられる神と御子イエス・キリストを、ますます知り、「すばらしい喜び」を深められる歩みに導かれるように、と願わされます。