礼拝説教要旨(2022.12.18)

律法と福音


(出エジプト記 20:16〜17) 横田俊樹 師 


<今日の要点>
福音に立って、御言葉に生きる

<はじめに:十戒は教訓以上のもの。>

第九戒は「嘘をつくな」これまた当たり前のことです。
ちまたにも「嘘つきは泥棒の始まり」と言います。
平気で嘘をつくような者は、良心がすでに怪しくなっている証拠だから、いづれ盗みもするようになってしまうぞ、というのでしょうか。
第十戒は「隣人のものをほしがるな」または「むさぼるな」。
欲張りが良くないことは、昔の人たちもよーく知っていました。

紀元前2300年頃、エジプトの知恵文学なるものに「他人が所有する者を欲しがる者は、愚か者である」とあるそうです。
日本の昔話でも、正直者のおじいさんと強欲なおじいさんが登場し、最後は欲をかいた方が痛い目にあってオシマイという筋書きがあります。

しかし、聖書の嘘をつくな、むさぼるな、は単なる教訓にとどまりません。
十戒という基本的な「律法」の中に入れられています。
その意味することは、これに対する違反は「罪」ということです。
厳しいようですが、しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれるのです(ローマ5:20、新約p.297)。
Bでそのことをみていきます。

<@第九戒 偽ってはならない:隣人愛に立って>

嘘をついてはいけない。
しかし「嘘も方便」という諺もあり、これはこれで都合の良い諺なこともあって、多くの人の根強い支持を集めているようです。
もちろん、方便とは言え、そこには自ずと節度があることは言うまでもありませんが。
ともかく、そういう「嘘の効用」を説く諺もあって、この問題はそう単純ではないようです。

ウエストミンスター大教理144。
この戒めが命じる義務から。
「…私たち自身の名声と同様に隣人の名声を保持・増進すること。」
自分や隣人の、名誉も不名誉も、事実だからありのまま明らかにせよ、ではなく、その名声を保持し、増進するという方向を打ち出しています。


その延長線上に「隣人の名声を愛し、願い、喜ぶこと」とか、逆に「彼らの欠点を悲しみ、包むこと」ともあります。

欠点や失敗のない人はいません。
それを「事実だから」と言って、言いふらすのは、たとえ偽りではないにしても、隣人愛という最大の戒めを破っていることになります。

隣人の欠けや失敗に気付いたら、心の中で自分のことのように悲しみ、その人のために祈り、包むのが、真実な態度ではないでしょうか(創世記9:20-27)。

同様に「人の好評を受け入れるのに早く、悪評を認めるのに遅くあること
中にはこの逆に、悪評に飛びつき、尾ひれをつけて、言いふらす人がいるのが世の常。
これくらいで公平が保たれるのかも知れません。
ツイッターで誰かがつぶやいたネガティブなことを、無責任に、軽い気持ちで拡散することも、第九戒違反です。
たとえ事実だったとしても、舌先三寸で人を殺すという言葉があるくらい、ときに思いもしない結果をもたらす、恐ろしい罪です。


そして「裁判・正義・その他すべての事柄に関して、心から・誠実に…真実を、そして真実のみを語ること。
隣人愛という方向性を十分にふまえながら、なお、やはり強調しておかなければならないのは、真理、真実を重んじること。
真理の神聖ということです。真理は、神に属するもの。
神聖なのです。
たとえ自分の愛する人の裁判でも、裁きは主のものであって、決して曲げてはならず、真実のみを証言しなければならない。

また、真理が神のものであるがゆえに、そうすることが最善の結果をもたらすという信仰に立つことでもあります。
実際、良かれと思ってついた嘘が、かえって悪い結果になるということもあるでしょう。

しかし、究極の状況で、良い目的のために嘘を言うことはどうか、という問題はあります。
ナチスに「ユダヤ人はいるか」と聞かれて、嘘はいけないからと杓子定規に「いるけど渡さない」などと言っていいのか。

真理の神聖は、決して軽々しく考えてはならず、意図が良ければ嘘は許されると、安易に言ってはいけないけれども、それを踏まえた上で、真にやむを得ない事情というのは、あるのではないかと、個人的には考えます。

もし仮に、私がそういう状況になったら、やはり「いない」と言って、あとで神に、やむを得ないとは言え、嘘を言ったことの赦しを乞うと思います。
これが私の精一杯です、と。

しかし大原則としては、嘘は人に対する罪である前に、真理の神に対して反抗していることに他なりません。
神が真実な方であり、偽りを憎む方だからです。
私たちは神の似姿に造られた神の子ですから、私たちも真実を愛する者でありましょう。

A第十戒 むさぼってはならない:心そのもののあり方の戒め
昔から、隣の芝生は青く見えると言います。
「よその飯は白い」「うちの鯛より隣の鰯」とも。
人間という生物の不思議な習性です。
また資本主義社会の弊害でしょうか、CMなどあの手この手で欲を刺激して、むさぼれ、もっとむさぼれ、むさぼりはいいことだ、とあおるものもあるようです。
こういう時代にこそ、第十戒は一層、必要なものと感じます。

ウ大教理問答147では、第十戒で求められている義務として二つのことをあげています。
一つは、自分自身の状態について完全に満足すること。
もちろん、生活に必要なものが与えられているうえで、それ以上の欲、むさぼりを戒めているのです。

第一テモテ6:6-10
6:6 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。

6:7私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。

6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。


そしてウ大教理問答が言う、この戒めが命じるもう一つの義務は、隣人の幸いを願い、助ける心を持つことです。
隣人のものを欲しがる反対に。
カルヴァンは、「神は、私たちの心が隣人愛の感情によって占められることを欲しておられる。
だから、隣人愛に反する一切の欲望は、心のうちから追放されるべきである。
と注釈しています。

むさぼりは、自分自身に害をもたらすだけでなく、隣人愛という最大の戒めに反するものであるがゆえに、禁じられているというのです。

しかし、禁じられていると言っても、です。
心の衝動は、そう簡単に思うようには、ならないのではないでしょうか。
悪い思いが起こったときに、それを抑えるのが難しいこともあるでしょう。
たとえ抑えることはできたとしても、そもそも、そのような思いが発生しないほどに、心がまったく隣人愛に占められることを、神は望んでおられるというのですから、これは努力でどうにかなるものではないように思います。
事実、聖書は、滝に打たれたり、断食したり、どれほど修行を積んでも、それは肉のほしいままな欲望に対しては、何の効き目もないと喝破しています(コロサイ2:23,新約p. 392)。

しかし神の言葉は、むさぼりは罪と定めています。
欲の皮が突っ張ってると、ろくなことがないよ、という教訓でなく、神の法廷では罪だと。
造り主は、そのようには人間を造らなかった。
神は人を神の似姿に造られた。
人間はその本来あるべき状態から、離れてしまった状態なのだと教えてくれているのです。
このままではダメだと。
救いが必要だと気付かせてくれるのです。
神の律法は、痛みを伴うけれども、癒すために振るわれるメスです。

<B律法と福音の関係:すべての戒めはキリストに通ず>
実は、ウ大教理問答149、十戒の解説の最後に、こんなオチがついています。

「誰か、神の戒めを完全に守ることができるか」
答「誰も、自分自身でも、あるいはこの世で受けたどのような恵みによってでも、神の戒めを完全に守ることはできない。
かえって思いと言葉と行為において、それを日ごとに破っている。」と。
ちょっとホッとするのでは、ないでしょうか。
しかしみんなが守れないからと言って、無罪になるわけではありません。
肝心なのは次です。

ウ大教理問答152「すべての罪は、神の御手にあって、何に値するか。
答「すべての罪は、最も小さい罪でも、神の主権、慈愛、きよさに逆らい、神の正しい律法に反するものであるから、この世でも来世でも、神の怒りと呪いに値し、キリストの血によるほかに償われることはできない。
つまりキリストによって、罪は償われるということです。
今度こそ、ホッとしていいでしょう。

誰もこの世では完全に律法を行える人はいないとありました。
使徒パウロも例外ではありません。
彼は率直に告白していました。

ローマ7:24,25、新約p. 300。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。
だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。


心では神の律法に仕えたいのに、自分の生まれながらの性質―聖書ではこれを「肉」と呼びますーには、まだ罪の法則が残っている。
そのことをパウロは嘆いているのです。
パウロでさえ、です。
この直前でも、彼は、自分のしていることがわからない、自分はしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っている、と告白しています。

そして、もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや自分ではなくて、自分のうちに住む罪だ。
それで、自分は善をしたいと願っているが、その自分に悪が宿っているという原理を見い出す、と言っています。
まだからだが贖われていない(復活にあずかっていない)信仰者は、この状態なのです。
これがノーマルなのです。
自分にはもう罪がないというのは、偽りです(第一ヨハネ1:8,10,新約p. 465)。
世にある信仰者は、からだが贖われることを切に待ち望んでいる状態です。

自分の肉に罪の性質が残っているからと言って、パウロは落ち込んでいません。
だからこそ、そんな自分のために、キリストが十字架にかかって、罪の呪いから救い出して下さった、とキリストを指さします。
これです。
これがクリスチャンです。

彼は、キリストのおかげで、今は、神の御怒りの下にはなく、神の愛する子として、決して揺るがない恵みの関係の中に生かされていると、感謝しているのです。
信じたときだけでなく、信仰生活を長く送っている間にも、絶えず、何度でも。
イエス様が、こんな醜い、自我の塊である自分を救うために、十字架にかかって下さった。
自分の肉には、罪の性質が残っているという現実はあるけれども、私たちはただ、その十字架につけられたキリストのゆえに、罪赦され、救われ、揺るぎない恵みの関係に入れられている。
ただキリストのゆえに、感謝します!と。

キリストを信じる者にとって、十戒は神に受け入れられる条件ではなく、すでに神の子として受け入れられた者が、どう生きるべきかを教えるものです。
この違いは大きいです。
神の御怒りの下にいるか、恵みの下にいるかの違いです。
キリストを信じたものは、罪の性質が残っていても、神の恵みの下にいるのです。
そして御言葉によって生きる訓練を受けるのです。
誰でも、生まれたときから、大人としてふるまえる人はいません。
少しずつ教えられて学んで、失敗して学んで、それを長い間繰り返して、大人になります。
信仰の歩みもそうです。
以前、話した綱渡りのたとえを思い出して下さい。
キリストを信じて、御霊を頂いている私たちは、御言葉と御霊によって、少しずつ肉の力が弱められ、神の似姿が回復していく歩みが用意されています。
誰か愛する人が長く病気になったとき、完全ではなくても、少しでも良い方向になったと聞くと、うれしいものです。
私たちの魂も、完全ではないにしても、少しでも神の似姿が回復することを、天の父は大いに喜ばれるはずです。

「 心をきよめ 宮となして 今よりときわに 住まい給え 」新聖歌 84番

考えてみれば、イエス様こそ、隣人愛に反する一切の欲をこれっぽっちも持たず、100%心を隣人愛で占められた御方でした。
神の御子でありながら、私たちの隣人となって下さり、私たちを救うために、神としての栄光をかなぐり捨てて世に降り、十字架上で命さえ捨てて下さった。
ここまでご自分を捨てきって、私たちを救って下さった。
その隣人愛には、ただひれ伏すのみです。
主は、一方的に無理な注文をしているのでなく、自ら、完全な隣人愛を、身をもって実践しておられました。
あなた方は、このわたしの似姿に造られているのです、その似姿を回復する道を、恐れずに歩みなさい、と語っておられるようです。
このイエス様を心にお迎えして、少しずつでも私たちの心そのものをきよめて頂けますように。