<今日の要点>
試練の向こう側に、人の思いをはるかに超えた祝福がある。
主の真実を信じて、主に従うべし。
<あらすじ>
20年前、不幸にして恨み恨まれの関係のまま、離れていたエサウとヤコブ兄弟の、感動の和解シーンとなります。
もし私に絵心があったら、一つ絵にしてみたいような劇的な対面の場面です。
ゴツゴツした岩山を背景に、少し離れたところに羊やらくだ、それにしもべや家族達。
そして地面にひざまずくヤコブと、その上からかがむようにして彼の首に腕を回して抱擁する毛むくじゃらのエサウと。
旧約聖書中、屈指の心に残る場面です。
心からの和解というのは、神の形に造られた人間だけがなしうる、最もキリストの似姿が輝き出る行為でしょう。
「我らに罪を犯すものを、我らも赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」
との主の祈りでも、イエス様は私達に、人を赦すことの必要を教えておられました。
昔々のお侍さんの時代は、たすきに鉢巻で、父の仇!などと復讐を果たすことを美徳としたとしても、神の国では互いに赦し会うことが最上の美徳であり、ルールと言えるでしょうか。
もしかしたら、天の御国では、地上では和解することなく召されてしまった人たちが、あっちこっちでこういう感動の和解をして抱き合っている光景が見られるのかも知れません。
今朝は、幸いにして天を待たずに、神様の恵みによって、地上で和解することができたエサウとヤコブの再会シーンです。
主に打たれた足を引きずって、ボチボチ進んでいたヤコブ。
ふと目を上げると、何やら遠くの方に大勢の人々を引き連れた一団が見えました。
目を凝らしてみると、先頭に立つは、あのエサウでした。
1節「ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。
…」
ついにこの時が来ました。
ヤコブの心臓は、早鐘のように打ったでしょうか。
すぐさま手際よく家族の者達を女奴隷たちとその子どもたち、レアとその子どもたち、そしてラケルとその子ヨセフと分けて整列させました。
これはエサウが攻撃してきた場合に備えて、というよりも、いよいよ会う段になったので、彼らを紹介する順番に整えたのでしょう。
そして、ヤコブ自身が先頭に立って進みます。
ヤコブは、ひたすら罪の赦しを乞うかのように、七度も地にひれふしてお辞儀したと言います。
古代の文献によると、これは王に謁見する時の儀礼だったようです。
最大級の敬意と謝罪の意思を表したのでしょう。
エサウは、一応、警戒して400人を引き連れてきたのでしょうが、ヤコブのこの姿を見るや、20年ぶりの弟との再会に胸が熱くなったか、エサウの方から走り寄ってヤコブの首を抱いたのでした。
感動の4節「エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。」
前の晩まで、いや、つい夜が明ける直前まで、あれほど恐れていたのは、何だったのか…。
こんな結末が待っていただなんて…。
ヤコブは、助かった!という思いと、エサウの示してくれた兄弟愛への感動のあまり、むせび泣いたでしょう。
エサウもまた、元々が激情家で、「ヤコブのやつ、殺してやる!」と息巻いたのですが、また激情家だけに、天の下にたった一人しかいない、血を分けた弟との再会に、それも昔のことをこれほど悔いている弟の姿に、こみあげるものがあったのでしょう。
和解は天の業などと言いますが、確かにこの時、神様が双方の気持ちを整えて下さって、こうして無事、和解がなったという次第でした。
さて、こうして、ひとしきり、それぞれに、さまざまな感情のこもった涙を流し終えて、エサウはそれにしても杖一本で出たヤコブが随分と大所帯で帰ってきたな、とちょっと驚いたのでしょう。
改めて、近くにいるこの女子供たちは?と水を向けると、ヤコブはそれに応じて「神がこのしもべに恵んでくださった子供たちです」と家族の紹介です。
まず、女奴隷とその子供たち、そしてレアとその子供たち、それから最後にヤコブ最愛のラケルとヨセフが出てきて、丁寧にお辞儀をして、お顔合せはすみました。
ヤコブ以外はみな、初対面。
毛むくじゃらで、赤鬼のような風貌で、でもよく見ると、温かみのある目をしているエサウに会って、「案外、良い人そう…」と安堵したでしょうか。
次に「私が道々出会ったこの一団はいったいどういうものなのか。」
とエサウが尋ねると、ヤコブは「これはあなたさまのご好意を得るための贈り物です。」
と答えました。
しかし、これに対するエサウの応えがまた良い。
「弟よ。私はたくさんに持っている。
あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」と欲のないこと!ラバンと大違い!しかし、ヤコブにとって、ちょっと前まではエサウをなだめるためのプレゼントでしたが、今や、なだめる必要はなく、純粋に感謝の気持ちをあらわすものとなったでしょう。
ヤコブはぜひ、受け取って頂きたいと続けます。
特に印象的なのは10節後半「私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。
あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。」
これは、おべっかを使っているというより、この時のヤコブの偽らざる心境だったのでしょう。
罪を赦して、命を救ってくれたのですから、神々しく感じられたでしょう。
またヤコブは、ここに神様の御業がなされたのを感じ、神様の臨在を感じたのかもしれません。
こうしてしつこく、どうか受け取って下さいと勧めるヤコブに、最後は豪放磊落なエサウは、もう面倒くさくなったのでしょう。
そこまで言うなら、と納めたのでした。
さて、一通り、家族のお顔あわせもすみ、プレゼントの一件もおさまって、エサウはさあ、自分が前に出てお前達を護衛してあげるから、私の後から安心してついてきたらいい、と優しい心使いを示します。
「セイルのエサウ」と言えば、そのあたりでは誰もが知る、一目置かれる存在になっていたのかもしれません。
治安の悪い当時のこと、心強いことです。
しかし、ヤコブは、子どもたちはまだ弱く、群れも追い立てることができないから、私にかまわず先に行ってください、と辞退します。
そしてあとから、子どもや家畜のペースに合わせてゆっくり、エサウのいるセイルへ行きます、と言いました。
確かにここまでの旅の疲れもあったでしょう。
ですが、この後、ヤコブはセイルに行った形跡はありません。
せっかくのエサウの申し出をむげに断るのも顔をつぶすようなので、とってつけたように言っただけなのでしょうか。
エサウはしかし「それなら、腕の立つ若い衆を何人か置いてやろう」という心遣いまで見せてくれましたが、やはりヤコブは「どうしてそんなことまで」と辞退しました。
ならばと、エサウはそれ以上、しつこく言うのをやめて自分の家へ帰ったのでした。
エサウという人物は、好ましい男です。
昔のことを根に持たず、広い心で赦し、水に流して、後腐れなし。
欲もなくあっさりしています。
親分肌で、地元に睨みの利く自分が先頭に立って護衛してやると言ってくれて、それをヤコブが断ると、ならば、うちの若い衆を何人か、つけてやろう、と至れり尽くせり。
人間的には、魅力的です。
しかししかし、残念ながらエサウには、神への思いがみられないようです。
彼の口からは、神という言葉は出ません。
それに対してヤコブの口からは、くりかえし神の名が出てきました。
自分の家族のことを「神が恵んでくださった子どもたち」と呼び、持ち物のことも「神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っています」と神を覚えます。
同じくたくさん持っていても、エサウは「弟よ、私はたくさん持っている」として「神の恵みで」という思いはない。
ある人は次のように言っています。
「エサウは人間的魅力の人。けれども、救いは人間的魅力によらない。
救いは神に頼るところにある。
人に好かれ、人々の拍手に囲まれることによって、救いは来たらない。
救いはただ、神を信じることによる。
…魅力に富むエサウを人は好く。
しかし、魅力乏しいヤコブを神は離さぬ。
-だから、同じく人間的魅力のないこの者も、神にお頼りできるというもの。
人情の世界と宗教の世界とは、別世界だった。
あの孝行兄貴と放蕩の弟の例(ルカ15:11‐32)、あのパリサイ人と取税人の例(ルカ18:10‐14)が思い浮かびます。」
さて、ヤコブはエサウと分かれるや、セイルとは反対のほうへ進路を取って、小屋を建て、しばらく滞在することにしました。
その町はのちに、そのヤコブの「小屋」にちなんで「スコテ(「小屋」の意)」と呼ばれるようになりました。
町に「スコテ」と名付けられるくらいだから、それなりに、数年はいただろう、という人もいます。
そののち、そこからヨルダン川を渡ってシェケムというところに来て、その近くに土地を買って腰を据えました。
ここは、祖父アブラハムがカナンの地に入って最初に足を止めた場所、神がアブラハムに現れて「あなたの子孫に……この地を与える」と最初に仰せられた場所です。
父祖の地、約束の地に着いたという思いをもって、ヤコブは、祭壇を築いて神様を礼拝し、そこを「エル・エロヘ・イスラエル」(「イスラエルの神である神」)と名付けました。
無事にヤコブを約束の地に帰らせるという、主のお約束はこうして成就したのでした。
「主の真実は くしきかな …大いなるは 主の真実ぞ」(新聖歌20番)
それにしても、ふたを開けてみれば、あんなに恐れ、おののいていたのは、何だったのだろう、というような結果でした。
神様は、約束通り、ちゃんと全てを備えて、守って下さっていたのでした。
こうして二十年来、ヤコブの心を暗く重くしていたエサウに対する罪の負債を、ようやくおろすことができ、解放されたヤコブでした。
ありがたい神様の恵みの賜物でした。
せっかく神様は、こんな素晴らしい結末を用意しておられたのに、もしヤコブが途中で怖気づいて、引き返していたら、この恵みは味わえませんでした。
もし逃げ出していたら、この先まだ何年も、罪の重荷を背負ったまま、重い心を引きずっていなければならなかったのです。
ビクビク震えながらでも、主の約束を握りしめて、従ったからこそ、この和解と平安の恵みにあずかったのです。
勇気を振り絞って従って、本当に良かったのです。
ローマ10:11(新約p305)
聖書はこう言っています。
「彼(キリスト)に信頼する者は、失望させられることがない。」
主は、ご自身に心から信頼するものを、決して失望させることはないと、今日の箇所から改めて心に刻みたいと思います。
また、もし前の晩に、主がヤコブのもものつがいを打って下さらなかったら、そうして逃げられないようして下さらなかったら、ヤコブは、もしかしたら迫りくるプレッシャーに耐え切れず、闇に紛れてエサウから逃げ出していたかもしれません。
そうしたらヤコブは、仮にうまく逃げおおせたとしても、やはりまだこの先何年も、罪の重荷を負い続け、おびえ続けなければならなかったのです。
ですから、主がヤコブのもものつがいを打って下さって、良かったのです。
主は真実な方なのです。
それは、痛いけれども、逃げていては決して与えられなかった和解と平安を与えるための外科手術だったのです。
へブル12:11‐13(新約p441)
12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
12:12 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。
12:13 また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。
なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。
本当に苦しい試練だったと思います。
私たちは観客席で見ているだけなので、気楽なものですが、ヤコブは、実際に、もしかしたら一面、血の海、一族の破滅かという正真正銘の危機に直面していたのですから。
私だったら耐えられなかったかもしれません。
はじめから結果が分かっていれば、恐れるどころか、楽しみにしてこの日を迎えたでしょうけれども、そうではありません。
私たちには将来のこと、未来のことは、一分先だって確かなことは、わからないのです
ただ、主が真実なお方ということは、わかっているはずです。
主は、私たちを愛して、尊い御子を十字架に渡して下さったという事実のうちに、神様の愛は口先だけでなく、実際の行動であらわして下さったことが、わかります。
御子の犠牲を払ってでも、私たちのための救いのわざを成し遂げられたお方です。
そのお方の真実を疑うことなど、ゆめゆめあってはならないはずでした。
この年も、主に信頼し、主のお約束を握りしめてー時に恐れ、ヤコブのようにジタバタしながらでもーお従いしましょう。
Ⅰコリ 10:13(新約p331)
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
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