<今日の要点>
コロナ禍の今、改めて、心を尽くして主に信頼する。
<あらすじ>
20年ぶりに故郷に帰る旅に踏み出したものの、兄エサウの復讐を恐れおののくヤコブ。
しかし、それでも、主なる神様の約束を握りしめて、前に進もうとするヤコブの姿を前回、見ました。
生まれつきの豪胆さではなく、歯の根もあわないほど震えながらも、回れ右をせずに踏みとどまり、ただ神様が下さった約束を握りしめて、前に進もうとするヤコブの姿は、むしろ神々しく、神聖なものを感じさせるものでした。
その続きの場面です。
神に祈り、万が一のために妻や財産を分散させ、またエサウをなだめるための豪勢な贈り物も用意して、あとはその時を待つのみとなりました。
その日は何事もなくおわり、日は暮れて、夜がやってきました。
が、ヤコブはとてもじゃありませんが、眠ることができなかったようです。
神様に祈ったし、やることはやったし、あとは神様に委ねて、と手足を放り出して大の字にガーガー眠れるような神経の持ち主ではないのです。
もう明日にでもエサウが400人の手勢を引き連れて、やってくるかもしれない。
一夜明ければ一族の破滅が待っているのか。
それとも、神の守りがあって助かるのか。
いやいや、神様は守って下さると仰ったのだから、守って下さるに違いない。
しかし、しかし、本当に大丈夫だろうか。
やっぱり逃げたほうがいいのだろうか。
信仰、信仰と言わずに、もっと現実的にこの場は退散したほうが良いだろうか…。
いやいや、それはできない。
やはり神様のお約束にすがるのだ…。
信仰が試みられるときに、誰しもが経験する、心の揺れ動きでしょう。
祈っては横になり、横になってはまたガバッと起きて祈り、なかなか胸騒ぎがおさまらずに一晩中、横になったり、起きたり、祈ったりを繰り返す…。
ここでヤコブは何を思い立ってか、夜中に飛び起きたかと思うと、妻や子供たちも起こして、ヤボク川の浅瀬のところを渡らせました。
いったい何のために?多くの注解書には、これはヤコブが一人、静まって祈るためだった、とあるのですが、しかしそれならむしろ、妻達をたたき起こすより、自分がどこか離れたところにいって祈ったほうが早いでしょう。
もしかしたらヤコブは、夜のうちに、闇に紛れて父イサクのところに行ってしまおうと思ったのかもしれません。
父イサクの前ではエサウは手荒なことはしないかもしれない、と(27:41参照)。
しかし当時の夜の旅はそれ自体が、大きな危険。
妻達を川を渡らせてみたものの、やっぱりそれは無理筋というもの。
しかしとにかくじっとしていられず、一人、もう一度川を渡って戻り、祈ってみた、といったところでしょうか。
人は追いつめられると、目の前の大きな危険から避けるために、非合理的な行動をしてしまうものです。
刻一刻と迫るそのとき。
このままでは頭がどうにか、なってしまいそうだったでしょうか。
無理もありません。
何しろ、下手をしたら、一家全滅の危機ですから、落ち着けという方が無理というもの。
そこで、主なる神様は、ショック療法を取られたようです。
あたかも、腰が浮いてアタフタするばかりのヤコブを、グイッと首根っこをつかまえて押さえつけるかのように、主から遣わされたある人がヤコブの目の前に現れて、いきなり彼と取っ組み合いを始めたのです。
ハッケヨイ、ノコッタ!とばかりに。
有名なヤボクの渡しでの格闘シーンです。
24節「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。
すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。」
以下、続く数節は、何とも神秘的な場面です。
古来、この闇夜は、ヤコブの内面を表すとされます。
恐れ、葛藤、罪責感、絶望感…。
そんなところに、主から遣わされた一人の人、―これは受肉以前のキリストとされますーが突如としてあらわれ、取っ組み合いを始める。
強盗か、それともエサウか。
一瞬、身をこわばらせるヤコブ。
しかしこうなっては、あれこれ考えている余裕もありません。
とにかく目の前の「敵」との戦いに集中します。
させられます。
おかげで、あれこれ考えて、気がおかしくなることから守られました。
身体を動かすことは、精神衛生上、よろしいと言います。
そして不思議なのは25節「ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。」
神の使いなのに、勝てない?しかも勝てないと言いながら、ヤコブのもものつがいを打って、はずしている。
それで、勝ったことにはならないのか?もものつがいですから、足の付け根の関節です。
そこをはずされたら、闘えないどころか、立てもしない。
はじめからこうしてれば、勝てたんじゃないか?と思います。
このとき、主の使いとヤコブは、確かにとっくみあって格闘していたと思いますが、実は主は、このとき肉体の格闘ではなく、ヤコブと霊的な格闘をしておられたのだと思われます。
つまり、ヤコブは、先に何度か祈りましたが、主に対して全面降伏をしていなかった。
手を尽くして、祈って、あとはすべてを主にお委ねします、と信頼しきることができなかった。
委ねきれない自我が、しぶとくがんばっていた。
その、全面降伏しないヤコブの自我をさして、主の使いは「ヤコブに勝てないと見て取った」のではないか。
それで、もものつがいを打った。
これで逃げるという選択肢は、完全になくなりました。
もちろん、戦うにも戦えません。
ただでさえ腕っぷしの強さではエサウに叶わないのに、こんな状態ではお話になりません。
八方塞がってお手上げです。
ヤコブはもう、まな板の鯉状態…。
そこへ、最後の一押しの26節「するとその人は言った。
『わたしを去らせよ。
夜が明けるから。
』…」去って行ってしまわれる、というのです。
この時までには、ヤコブは自分と取っ組み合っている相手が、強盗の類でなく、神様の使いということがわかったのでしょう。
せっかく目の前に主の使いがおられるのに、このまま去ってしまわれる!と聞いて、ヤコブの中に眠っていた信仰が飛び起きました。
「…しかし、ヤコブは答えた。
『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。』」
これです。これがヤコブなのです。
信仰者ヤコブの本領発揮です。
「私はあなたを去らせません。私を祝福して下さらなければ。」
何が何でも、何としてでも、主の祝福を頂かなければ、という真剣さ、主に向かって「去らせません!」と引き下がる必死さが伝わってきます。
この時のヤコブにとって、神の祝福は、あってもなくてもいいけど、あった方が気分がいいかな…という気分の問題ではありませんでした。
それで生きるか死ぬかが決まるという、ぜひともなくてはならないものでした。
逃げることも闘うこともできない状態にされて、赤子同然のヤコブ。
しかしだからこそ、それこそ赤子のような心で主にしがみついて「あなたが私を祝福して下さらなければ、あなたを去らせません。」
と真剣に神の祝福を求めるに至ったのでした。
赤ん坊は、お腹がすいたり、どこか調子が悪いとき、自分の力でどうこうすることはできませんから、ひたすら泣きます。
親が何かしてくれるまで、ひたすら泣いて、泣き続けます。
それしかないのです。
ほかに手立てがありませんから。
それと同じようにヤコブも、もう、神様の祝福をもらうまでは放しません、とすそを固くつかんでしがみつくのです。
「彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。」
(ホセア12:4、旧約p1486)とある通りです。
ことここに及んで、さしものヤコブもジタバタすることをやめて、いや、やめさせられて、ただただ神に頼らされるに至ったのです。
そしてこれが、霊的な勝利への道でした。
主が、じっとしていられないほど恐れていたヤコブをむんずとつかまえて格闘して下さったのも、ヤコブの退路を断ち切るべく、もものつがいを打たれたのも、「わたしを去らせよ」と突き放すようなことを言ったのも、すべてヤコブから信仰を引き出すため。
そしてヤコブに信仰の勝利、霊的祝福を与えるため、でした。
こうして、神の恵みに真剣により頼まされたヤコブに、主は「あなたは神と戦って勝ち、人と戦って、勝ったのだ。」
とエールを送りました。
これは、神でありながら、人の姿を取って下さった方と戦って、勝ったということでしょうか。
この「勝ち」とは、先に見たように、ヤコブが全面降伏に追い込まれたことによって勝ち得た神の祝福でした。
ちなみに、「イスラエル」は、「神と戦う」という意味ですが、「戦う」の元の言葉は「支配」や「王子」という意味もあるようで「神と戦う」から転じて「イスラエル」を「神の支配」「神の王子」とする解釈もあるようです。
ヤコブは、目の前の主に名前を聞きましたが、主は「なぜ聞くのか」と答えました。
聞かなくても分かっているだろう、あなたの父イサクの神だということでしょう。
ヤコブは、神様の名前を知りたかったのかもしれません。
ヤコブたちはまだ、「神」としか、知らされておらず、名前を知らされていなかったからです。
(出エジプト記3:13-14,旧約p99、6:3,旧約p104参照)。
神様が、ご自分の名を明らかにされるのは、ずっと後、出エジプトの時代になってからのことです。
しかし主は、ヤコブが切実に願った祝福を授けました。
ヤコブはあとで、なんと恐れ多いことだろう、と思ってその地を「ペヌエル」(「神の御顔」の意)と名付けました。
神の御顔を見て、なお生きているとは、という畏敬の念から出たことでした。
こうして、ヤコブの長い長い夜が明けたのでした。
「げに主は より頼みて 従う者を 恵み給わん」(新聖歌316番)
宗教改革者のカルヴァンは、一人の人がヤコブに立ち向かい、格闘したことについて、「信仰者の前に立ちはだかる試練、戦いをもたらすのは、神ご自身である。
いわば、神は右の手で戦う相手をしながら、左の手で信仰者を支えたもう。」
と言っています。
これは試練の中にあるときに、支えとなる言葉ではないでしょうか。
一方では、試練なり戦いなり、私たちに立ち向かうものも、私たちが滅びないように、神様が加減をしてくれている。
他方で、私たちが自分ではもたないと思っても、神様が見えない御手によって、聖霊によって、支えておられる。
神様が、試練なり、戦いなりを与えるのは、私たちを滅ぼすためではなくて、私たちから信仰を引き出し、神様への信頼を増し加え、さらなる霊的祝福にあずからせるためだからです。
前回も引用しましたが、再度。
第二コリント12:9(新約p360)
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。
というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
弱さを誇ったパウロも、また、もものつがいを打たれて、それゆえ、必死で神の祝福を乞い求めたヤコブも、私達に、真に頼みとするべきお方に、心からより頼むようにと勧めているようです。
文明や科学技術が発達して、それはそれで恵みではありますが、他方でそういうものに頼んで、神ご自身に頼まなくなってしまっていたとしたら、残念なことです。
神に頼らなくても、やっていける、と。
しかし、主の祝福が必要なのは、ヤコブに限ったことではありませんでした。
詩篇127:1‐2(旧約p1038))
127:1 【主】が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。
【主】が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
127:2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。
主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
便利さ、華やかさを誇る現代文明は、ウィルスひとつで機能不全に陥ってしまうほど、脆弱なものであることを露呈しました。
見ようによっては、現代文明の「もものつがい」を打たれたとも見えます。
何を力として、頼りとして生きるのか、と問われるようです。
このようなときだからこそ、改めて主により頼む歩みを心に定めましょう。
そして聖書の御言葉を心に蓄えましょう。
もしヤコブが聖書を持っていたとしたら、むさぼるように聖書を読んだに違いありません。
ここには、彼が求めてやまない神様のことが詳しく書いてあるのですから。
聖書に親しんで神様を知り、心を尽くしてより頼んで歩みたいものです。
コロサイ 3:16「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、…」(新約p393)
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