<今日の要点>
物事が願い通りにならないとき、@神を聖として仰ぐA神の愛を確信して、さらに祈り求める。
<今日のあらすじ>
創世記30章は、昼ドラにでもなりそうな、ドロドロした人間模様となります。
前半はラケルとレアのすさまじい女の争い。
それに振り回されるヤコブ。
後半は、ラバン狸とヤコブ狐のだましあい。
読んでいて、これが聖書か?と思わずつぶやきそうになる人間臭い章です。
創世記も30章まで来ると、あの最初のエデンの園の光景はどこへやら。
エデンの園は遠くになりにけり、と言った観となりました。
しかしそんなところにも、主なる神様は「こんなことまで付き合っていられない。
勝手にやってなさい」などとそっぽを向かれず、そのドロドロの中にも御手を差し伸べて、かかわって下さるのでした。
これが聖書というべきでしょうか。
きれいごとではない、人間の生の現実を見据えた上での神の恵みに目を向けよと語りかけているようです。
さて、不本意ながら二人の妻をめとる羽目になったヤコブでしたが、前回見たように妹ラケルが本命で、もともと結婚するつもりのなかった姉レアに対してはどうしてもつれない態度になっていたので、神様はレアをあわれんで、ヤコブにとっての第一子長男ルベン以下、4人の子どもを恵まれました。
子どもを産むたびに、ヤコブは自分の方を向いてくれると期待しては落胆を繰り返したレアは、最後4人目が与えられた時はヤコブに見切りをつけ「今度は主をほめたたえよう」と心を主の方に向けて歩み出したのでした。
その一方で、ラケルは、ふつふつと嫉妬の炎に身を焦がしていました。
悔しくて、夜も眠れないラケルは、ついに悔しさを爆発させ、ヤコブにぶつけました。
1節「ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。
『私に子どもを下さい。
でなければ、私は死んでしまいます。』」
子どもをくれないと、死んでやるから!とは、穏やかではありません。
負けず嫌いのラケル。
人と比べる、張り合うことは、人間の業病でしょうか。
結果はろくなことにならないのに。
愚かなことだけども、やめられない、罪びとの病です。
嫉妬は人を狂わせます。
こうなると理屈もへったくれもありません。
さしものヤコブも、こんな不条理な要求を突き付けられて、怒りを燃やして応じました。
2節「ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。
『私が神に代わることができようか。
おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ。』」
ヤコブはヤコブで、ラケルはつらい思いをしているだろうな、と気遣って、心を痛めていたでしょう。
それを、まるでこっちが悪いみたいに食って掛かって。
しかしお構いなしに、ラケルはヤコブの言葉尻を捕えて言います。
「神様が、私の胎に子を宿らせないと言うのなら、ではほかの人の胎になら、宿らせて下さるでしょう」と、自分の女奴隷のお腹を借りて子を得ようと言いました(3節)「彼女が私のひざの上に子を産むように」とは、女奴隷によって生まれた子は、ラケルのものになるという意味です。
これは当時、普通に行われていたことで、こういう方法についての規定が、ハンムラビ法典にも見えるそうです。
おまえに子を宿らせないのは神なのだ、と神様の主権を一応弁えていたヤコブですが、なにしろ、「子どもが与えられなければ、死んでしまう」ときてますから、そこまで言うなら…と押し切られました。
その結果、生まれたのが「ダン」(裁くの意)。
6節でラケルは「神は私をかばって下さり、私の声を聞き入れて、私に男の子を賜った」とありますが、「かばう」は欄外注のように「正しく裁く」とも訳されます。
まるで自分が被害者であるかのように神に訴え、神が正しく裁いて下さったと言いたいようです。
ですが多くの注解書は、これはラケルの独りよがり、むしろ神様の神聖な御名に対する冒涜だとしています。
レアが何か悪いことをしたわけでもなく、むしろ神様はレアをあわれんで4人の子どもを与えられたわけで、神様がレアとラケルの間を正しく裁いて、ダン君を与えたわけではありません。
ラケルのわけのわからない雄たけびは、次の子の時も続きます。
女奴隷ビルハによって二人目の子を得たラケルは8節「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、その子を「ナフタリ」と名づけました。
ナフタリは「争う」の意。
姉と死に物狂いの争いをして、というところに悲壮感を感じます。
負けず嫌いの気持ちが、人一倍強かったのでしょうか。
そして、ついに勝ったというのですが、どこがどう勝ったのか、よくわかりません。
レアは自分で4人産んでいます。
ラケルは女奴隷によって2人。
どこをどうみたらラケルの勝ちになるのか、、、。
もしかしたら、幼い子ども二人で手がかかるので、ヤコブがまたラケルのところにいる時間が少し、長くなったから、ヤコブをレアの手から取り戻したということなのでしょうか。
さて、一度は、「今度は主をほめたたえよう」と言ったレアでしたが、ラケルから嫉妬され、勝手に死に物狂いの争いをされて、また泥沼に引きずり込まれてしまいました。
私たちの神様に向かう心と言うのは、もろいものです。
レアは自分が子を産まなくなったので、ラケルと同じく、自分の女奴隷ジルパによって子を得ることにしました。
一人目の子を「幸運が来た」と言って「ガド」(「幸運」の意)と名付け、二人目が与えられると「なんとしあわせなこと。
女たちは、私をしあわせ者と呼ぶでしょう」と言って「アシェル」(「幸せと思う」の意)と名付けました。
「幸運がきた」と「なんとしあわせなこと」というレアの言葉は、ラケルの「死に物狂いの争いをして勝った」と比べると、余裕が感じられるようにも思えます。
ラケルに二人分、差を縮められたかと思ったらすぐさま二人分、引き離した格好のレアには、ラケルのような悲壮感はなく、笑いがこみあげてくるかのようです。
別にラケルが悪いわけではありませんが、ただヤコブに愛されることのないレアをあわれに思われた神様は、レアの方によくしておられたのでしょうか。
<祈れ物事 皆ままならず…>
2節のヤコブの言葉を掘り下げてみたいと思います。
「私が神に代わることができようか。
おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ。」
怒りを燃やして言った言葉ですが、これは期せずしてヤコブの信仰を教えてくれるものでした。
ヤコブは、神様の主権をハッキリと認めていました。
現代では不妊治療などということもありますが、当時はこういう事柄は、まったく神様に属する事柄、神様の専権事項です。
ところが、往々にして人は、神様が願いを聞いてくれないと、神以外のところに求め始めます。
自分の願望を遂げたくて、あの手この手を考え出し、時には御心でない方法を取ってでも、遂げようとします。
神様がノーと言っていることも、自分の力で、あるいは自分たちの力で得ようとします。
これは、神を押しのけて、自分が神に代わって、神の座に就くことに通じます。
「善悪の知識の木から取って食べるその時、あなたは神のようになる」というあの創世記3章のサタンのささやきが聞こえてくるようです。
すべてのことを自分がコントロールして、何でも自分たちの思い通りにならないことはない。
神などに頼らなくても自分たちの知恵と力で願いをかなえることができる。
神は不要、むしろ邪魔でしかない。
目の上のタンコブのような神なしの楽園を自分の手で作ろう…サタンの声です。
文明が発達し、技術が進んで、人類はかつては不可能だった多くのことを可能にしてきました。
医療の発展を先頭に、あらゆる面で人々の生活は便利さを増し、地球の裏側の人とも電話で話すことさえできるようになりました。
それも一般恩恵と言って、神様の恵みです。
しかし副作用ではありませんが、それによって現代人は、できないことに対する耐性が衰えてきているのかもしれません。
神様のノーに対する耐性、忍耐する力が弱っている。
カップ麺一つを食べるのも3分でも長すぎる!という人もいるくらいです。
こういう文化の中に生きている私たちも、いつのまにか、その影響を受けているのかもしれません。
ラケルの胎を開かない神(のちに開きますが)をどう思うか。
ひどい神と思うでしょうか。
しかし考えてみれば、それは神様を裁く立場に立っています。
神はひどいと、神に対して有罪判決を下しているのです。
全世界、全宇宙を治めておられる方に対して、地上に這いつくばって生きている泡のような存在の人間が。
とんでもないことです。
立ち位置を間違っています。
私たちは人間であって、神ではありません。
私たちは、天地万物をお造りになり、今もすべてを治めておられるお方をあがめるべき者です。
そこに立ち続けることが必要です。
主の祈りの第一の祈願は、新改訳2017では「御名が聖なるものとされますように」と訳されています。
神の御名を聖なるものとせよ。
願い通りにならないと、すぐに神様の御名を袋叩きにするのが罪びとの性です。
気持ちとしては、そういう言葉が自然に出てきます。
傷ついていると特に。
しかしそういうときに、神を裁く言葉を出すのでなく、神の御名を聖なるものとせよ、と自分に言い聞かせる。
そしてその聖なる神様の御心もまた聖なるものなのですから、神様の御心を聖なるものとして、仰ぐ。
神様の御心は、私たちが批判したり、云々したりするべき対象なのではなく、あがめ、受け入れ、従うべき対象です。
そしてそうすることによってー正しい立ち位置に立つことによってー自分が支えられるのです。
またそこから次のステップに導かれるのです。
思い通りにならないときに、感情に任せて神様の御名を冒涜しても、ネガティブな感情がますます出てくるだけで、いいことはありません。
神様の御名を聖とすることによって、ネガティブな言葉、感情が湧いて出てくるのを、止めることができます。
自分がそっちの方向に流されるのを留めることができるのです。
ある人は、いろいろなことがあって、心がささくれ立っていました。
その日の朝も、起きるなり「なんで神様、、、」と神様に対する苦々しい気持ちが湧いてきました。
するとそのとき、突然、「神の御名を聖とせよ」という言葉が心に浮かびました。
そして御霊が働かれたのでしょう。
そこで「神様の御名を聖なるものとするんだ」と気持ちを切り替えることができました。
そしてネガティブな方に流れていきそうな自分自身を持ち直すことができました。
しかしそれだけで終わるのではありません。
この聖なる神様は、私たちの父となって下さり、キリストを信じる私たちはこの聖なる神様の愛する子とされています。
この聖なるお方が、私たちの父として、私たちを親密な関係に入れて下さったのです。
ただただキリストにあってです。
キリストにあって、私たちは聖なる上にも聖なるお方を、親しく天のお父さんと呼びかけ、親密な関係に入れられているのです。
そして私たちに願いがあるなら、それを神様に願ってよい、それが御心にかなったことなら、私たちを愛しておられる天の父は、喜んでその願いを聞いて下さるというのです。
第一ヨハネ5:14‐15(新約p471)
5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いて下さるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いて下さると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
御心にかなった願いをするなら、神は私たちの願いに応えて下さる。
これが私たちクリスチャンの持つべき確信だと老ヨハネは言うのです。
これは老ヨハネの言葉です。
信じたばかりの人ではありません。
血気にはやった若い人でもありません。
何十年も信仰生活を送って、酸いも甘いも味わってきた老ヨハネの言葉です。
御心なら、祈っても祈らなくても与えられるだろう、というのは、老ヨハネの神学とは違うようです。
使徒ヤコブ(創世記のヤコブとは別人です。
新約時代の使徒です)も言います。
ヤコブ書4:2‐3(新約p449)
4:2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。
うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。
あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
今、祈り会のメッセージで「天の父よ」というところを何回かに分けて学んでいますが、神様の愛を確信することが、祈りの土台です。
聖なる神様が、私たちをこの上なく愛して下さって、ご自分の子として、また父なる神様がイエス様を愛するように、私たちをも愛して下さったという、その神様のご愛を確信して祈りたいものです。
現代はいろんな技術が進歩しましたが、それでもすべてが人間の思い通りになるかというと、そういうことは決してありません。
ままならないことが、人生にはあります。
そういうときに、まず神ご自身に求めましょう。
神様の聖さと愛を確信して、正しい立ち位置で祈りましょう。
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