礼拝説教要旨(2020.09.27)
ひれ伏して感謝した
(ルカ17:11-19) 横田俊樹師 
<今日の要点>
キリストが下さった恵みにふさわしく応答する

<今日のあらすじ>
今日は新約聖書ルカの福音書からです。
イエス様の地上のお働きもいよいよ終りが近づいてきて、十字架にかかられるべくエルサレムに向かう途中でのことです。
言うまでもなく、イエス様は、これが地上では最後の旅になることをご存じで、エルサレムでは十字架につけられることをご存じの上で、その場所に向かっておられました。
むしろ、ただ知っていたというより、そのために、そこに向かっておられたというべきでしょう。

どうしてそんなことを?というと、私達にいのちを得させるためには、ご自分が十字架に掛からなければならないことをご存じだったから。
愛する私達にまことのいのちを得させるために、今、御自分の足で一歩一歩、十字架に向かっておられたのです。

そのエルサレムに上られる途中、ガリラヤからエルサレムに行くには、サマリヤ地方を通ります。
イスラエル人は、サマリヤ人をさげすみ、嫌っていました。
サマリヤ人は、元々イスラエル人でしたが、外国人との混血が進んで純粋なイスラエル人とは言えない、と選民であることを誇るイスラエル人は彼らを見下していたのです。
もちろん、サマリヤ人のほうも、ユダヤ人を嫌っていて、両者は犬猿の仲でした。

そんなサマリヤとガリラヤの接する境のあたりでの出来事です。
そこで10人のツァラアトと呼ばれる病を持った人たちがイエス様にあわれみを乞いました。
12−13節「ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。
彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、『イエス様、先生。
どうぞあわれんでください』と言った。」
この10人の中には、サマリヤ人とユダヤ人と両方いたと思われます。
民族同士のいがみ合いとは離れたところで、ツァラアトに冒された者同士は、いっしょにいたのでしょうか。

「ツァラアト」とは、聞き慣れない言葉ですが、これはヘブル語である種の皮膚病を指す言葉のようです。
当時のイスラエルでは、このツァラアトという病は、伝染性の病で、これにかかった人は汚れた者とみなされていました。
それで、人びとから離れた所に住まなければなりませんでした。
家族とさえ一緒に住むことができませんでした。
そればかりか、誰か人が近くに来るのが見えたら、「私は汚れている!私は汚れている!」と大きな声で叫ばなければなりませんでした。

ですから、ここでも、彼らは遠く離れたところから大きな声で叫んだのです。
人からは呪われた者とみなされ、自分でもそう思っていたかもしれません。
社会から追い出され、普通の生活ができない。
何の因果でこんなことになってしまったのか、、、。
嘆きは尽きなかったでしょう。

そんな彼らに、誰かがイエス様のことを伝えていたのでしょう。
イエス様が来られたと噂を聞いて、この千載一遇のチャンスを逃すものかと、声を張り上げてあわれみを乞うたのです。

「イエス様。
どうぞあわれんでください」喉も張り裂けよとばかりに、必死に叫びました。
ここで人生が変わる。
今までの、何のために生まれてきたのか、わからないと思っていた人生から、新しい人生に、希望に満ちた人生に変えられる。
そう思えば、誰が叫ばずにいられましょう。

困難な状況に置かれた時、イエス様に「イエス様、私をあわれんでください。」
と叫びましょう。
自分の力ではどうにもならない事がある時、「イエス様、私をあわれんでください」と叫びましょう。
ツァラアトという病気も、自分の力でどうにかできるものではありませんでした。
自分のがんばりで、自分の心構え一つで、どうにかなる、というものではなかった。
イエス様の超自然的な力が必要でした。
自分の力を越えた助けが必要な時、自分の限界を超えたところに神の力が必要な時、「イエス様、私をあわれんでください」と叫んでみましょう。

イエス様は、あわれみを求める声に、一番、心を動かされるお方です。
イエス様の心を動かすのは、あわれみです。
ここを、勘違いしないようにしましょう。
私達は、ともすると、自分が何か、立派な信仰生活を送っていたら、神様にお願いをきいてもらえるけれども、ちゃんとした教会生活を送れていないと、何も神様にお願いしてはいけないかのように、思うことがないでしょうか。

どうせ自分みたいな者がお願いしたって、聞いてくれるはずがない、と。
でも、イエス様は、あわれみ深いお方なのだ、ということをよーく弁えておきましょう。
人によってはもう耳にタコができるほど聞いて、聞き飽きたという方もおられるかもしれませんが、それだけに聞き流してしまっているかもしれません。
イエス様は、あわれみ深いお方なのです。
優秀な、キンキラキンの功績、人からすごいと言われるようなものを持っている人だけ、受け入れる人のことは、あわれみ深いとは言いません。

むしろそうではなくて、傷つき、挫折し、無力で、助けを必要としていて、イエス様より他に望みはない、、、そんな人のことをこそ、見ていられなくて、そういう人のことのほうが、気に掛かって、心に留めていてくれる。
そういうのを、あわれみ深いというでしょう。

社会的に立派なのが悪いというのでなく、そういうことに関係なく、自分の罪深さを嘆いて、弱さを嘆いて、救いはイエス・キリスト以外にない、とイエス様のあわれみにのみ、望みを置く人を、イエス様は決してお見捨てになりません。
イエス様は、憐れみ深い方なのです。
逆に、プライドが高くて、神様に頼るなんて、あわれみを乞うなんて、そこまで俺は落ちぶれていない、なんていう人の前は、イエス様は通り過ぎられるでしょう。

ここにも、このツァラアトの人たちが、大声で叫んで、あわれみを乞いました。
そしてイエス様は、あわれみを乞われて、無視することのできないお方です。
彼らはイエス様から、待望の御言葉を頂きました。

14節「イエスはこれを見て言われた。
『行きなさい。
そして自分を祭司に見せなさい。』彼らは行く途中できよめられた。」
「祭司に見せる」というのは、当時は、祭司が、ツァラアトに冒された人がきよめられたかどうかを判断することになっていて、もし大丈夫ということになったら、きよめの儀式なるものを行なうことになっていました。
これによって正式に社会復帰ができるようになるのです。

ですからイエス様は、ここで、彼らに癒しを宣言されたわけです。
まだ実際には癒されていませんが、祭司の所に行って、癒やされたという証明をしてもらいに行きなさい、と仰ったのです。

で、彼らは、そのイエス様の御言葉を信じて、すぐにその場を離れ、祭司の所に向かいました。
すると、その途中でツァラアトがきよめられたのです。
イエス様に御言葉を頂いて、すぐその場で癒されたのでなく、彼らがイエス様の御言葉を信じて、まず従った時に、そのあとに癒された。

言うならば、イエス様から約束を頂いて、信じて、従った時に、神様の御業が起こり、神様の栄光を見ることができたということです。
癒されたら、信じて従う、ではない。
順番が違います。
信じて、従った時に、癒されたのです。
救いの御業が起こったのです。
キリストの御業は、まず信じて、従った時にあらわれるものです。

ですから、10人が10人とも、信じて、従って、祭司のところに行く途中で癒されたのですから、10人とも癒されるだけの信仰はあったのです。
それは立派です。
ところが、その後、イエス様のお心をガッカリさせてしまうことになりました。

癒された10人のうちの1人、たった1人だけが、大声で神様をほめたたえながら、引き返してきて、イエス様の足もとにひれ伏して感謝したのです。
17−18節のイエス様の言葉には、ガッカリされた様子がうかがわれるのではないでしょうか。
「そこでイエスは言われた。
『十人きよめられたのではないか。
九人はどこにいるのか。
神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。
』」イスラエル人が見下していたサマリヤ人だけが、ちゃんと恵みに感謝する心をもっていたのでした。
イエス様のお心を慰めて差し上げることができたのは、彼だけでした。

そして、まだ感動して、喜びにあふれ、感謝にあふれて、ひれ伏していた彼に、イエス様は言葉をかけられました。
「それからその人に言われた。
『立ち上がって、行きなさい。
あなたの信仰が、あなたを直したのです。』」「

直した」は、直訳は「救った」です。
「立ち上がって、行きなさい。
あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」
その信仰を持って、神様のあわれみに望みを置く信仰を持って、その感謝と喜びをあなたにもたらした、その信仰をもって、これから始まる新しい人生に歩み出しなさい。
彼のために用意されている明るい未来に向かって、彼を送り出されたのでした。

<十字架にかかって下さった方への感謝>
今日の箇所に登場した、イエスさまに感謝をしに戻ってきた人から、いくつかのことを学びたいと思います。

まず彼は、大声で神様をほめたたえました。
最初にツァラアトから癒されるために声を張り上げたのと同じくらい大きな声で、神様をほめたたえました。
もちろん、声が大きければ良いというものではありません。

大切なのは、彼がそうせずにはいられなかったほどに、彼の心には神様への感謝、賛美があふれていたということです。
その表し方、表れ方は文化の違いや性格の違いがあるでしょう。
ただ神様をほめたたえるその心、その思いは、抑えてしまうことなく、神様に向かって表現するべきです。

神様を心からあがめるということは、実はそれ自体が、あがめている私達自身の心を喜びで満たし、キリストの似姿へと造り変えてくれるものです。
神様をほめたたえる事自体が、私達自身にとっての益であり、恵みなのです。
私はもっともっと神様ご自身をほめたたえる事自体を大切にしたいと思っています。
それを神様は喜ばれますし、私達自身の益にもなるからです。

それから彼は途中で「引き返して」来ました。
どうしてそのまま祭司の所に行って、きよめの儀式を済ませてから、でないのでしょうか。
どうしても、すぐに、まっさきにイエス様に感謝を表わしたくて、その、あふれるイエス様への感謝の気持ちを抑えられずに、すぐさま、来た道を戻ってきたのでしょう。
何かあると、まずまっさきにイエス様のことを後回しにしてしまうような者には、悔い改めを迫られるところです。
私達もできる限り、日曜日は会堂であれ自宅であれ、まっさきにイエス様の御前に出て、感謝をあらわす者でありたいものです。

そして三つ目に、彼はイエス様の足もとにひれ伏して感謝しました。
ただ感謝したというのでありません。
ひれ伏して感謝したのです。
私達は、イエス様にひれ伏して感謝したことがあるでしょうか。
ひれ伏して感謝すると言っても、文化の違いがありますから、文字通りではないにしても、それくらいの心を持ったことがあるでしょうか。

考えてみれば、本当なら、イエス様が、この自分の罪のために、身代わりに十字架にかかって下さったと知った時に、ひれ伏して感謝してしかるべきでしょう。
そして生涯、イエス様にひれ伏して感謝し続ける気持ちで、お仕えし、お従いしてしかるべきだったのではないでしょうか。

全宇宙を造られた生ける神の御子が、何の義務も義理もないのに、ただ私達を愛してくださったがゆえに、私達を罪と滅びから救い出してくださるために、ご自分を犠牲に、それも十字架に釘付けにされ、肉を引き裂かれ、私達の身代わりとして御父から御怒りを受けて下さったのですから。
そして私達に永遠のいのちをー文字通りの永遠のいのちをー与えてくださったのですから!

もし、イエス様が目の前でむち打たれ、十字架に釘を打ちづけられたら、きっと私達もいたたまれないでしょう。
しかしイエス様は三日目に復活されました。
手には釘跡が残ったまま、脇腹には槍で突き刺された傷跡を残しながら、復活の栄光の身体をもって復活されました。

私達は、復活されたイエス様が目の前に現れて下さったら、その傷跡を見たら、私達もきっとひれ伏して感謝するでしょう。
けれども、目には見えないお方なので、普段、感謝することを忘れてしまっているのかもしれません。

それで、残りの9人のように、イエス様に残念な思いをさせてしまっているのが、私達の実際の所かもしれません。
私達も誰も見ていないところででもいいですから、ひれ伏してイエス様に感謝をあらわすということをしてもよいのではないでしょうか。
あるいは実際にひれ伏さなくても、それくらいの熱い心をもってイエス様をあがめ、感謝をささげるべきではないでしょうか。

私達も、毎週、イエス様に心からの感謝の思いをもって、礼拝をお捧げして、少しでもイエス様をお喜ばせしたいと願います。
そしてイエス様から「立ち上がって、行きなさい。
あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」
との御言葉を頂いて、喜んで、それぞれのところに送り出して頂きたいものです。