<今日の要点>
神さまに信頼して、柔和であるように
<今日のあらすじ>
前回、イサクは、滞在先のペリシテ人たちを恐れて、妻リベカを妹と偽ったため、アビメレク王に叱責されたくだりを見ました。
もっとも最後はアビメレク王が、イサク夫妻に手を出す者は殺される、とお触れを出してくれたので、一安心。
神さまの守りを実感したことでしょう。
そうして仕事に精を出して収穫の時を迎えました。
12節に「その年に」とあります。
まだききんがひどかったその年に、です。
イサクが滞在していたゲラル地方は、他の地域よりはマシだったとは言え、まだまだそれほど収穫も多くはなかったであろうその年に、イサクには、イサクにだけは、百倍の収穫があったというのです。
まわりは凶作なのに、イサクだけは豊作も豊作、大豊作。
なぜそんなことになったのか。
何か特別な技術をイサクが持っていたからか。
特別な工夫、知識があったからか。
いえいえ、そこには種も仕掛けもございません。
理由はそこにハッキリと書いてあります。
「主が彼を祝福してくださったのである。」と。
それだけです。
それに尽きるのです。
主はイサクに、「あなたはこの地に、滞在しなさい。
わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。」(3節)
と仰っておられましたが、神さまの御言葉に従ってゲラルの地に留まったイサクを、神さまはお言葉通り、特別に祝福されたのです。
「神の国とその義をまず第一に求めよ。
そうすれば、それに加えてすべての必要は与えられます」という信仰生活の大原則の実例です。
しかも、神さまの祝福はこのとき限りではなく、続いたので「こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。」(13節)のでした。
「よし、神さまに従おう」と何かを決断して、そのすぐ後に、何か好ましくないことが起こるということが、しばしばあります。
このときのイサクも、主の仰せに従って、ゲラルの地にとどまることにしたものの、周囲のペリシテ人たちがこわくなって、前回見たようなことになってしまいました。
しかし、そこで「神さまに従って損をした。」とすぐに方向転換するようでは、まだまだのようです。
そこを乗り越えて、その場所に留まって、その後に祝福が待っているということがあるのです。
前回見たようなことがあっても、なお主の御言葉に従い、ゲラルの地に留まったイサクに、イサクの信仰に、主はこうして報いてくださったのでした。
さて、祝福は大いに喜ばしいこと、うれしいことです。
しかし、罪人の世では、「隣に蔵が建つとこちらは腹が立つ」と言います。
しかも、イサクはよそ者です。
寄留者です。
よそ者のくせに、と始まり、それがついに行動となって、父アブラハムのしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たして埋めてしまったというのです。
何ということを、、、と思います。
それでも命を奪われなかっただけ、まだ良かったと思うべきなのでしょうか。
アビメレク王のお触れが効いていたのかもしれません。
しかしアビメレク王も、民の妬みが激しくなって、抑えきれないと見たか、また、アビメレク王自身も、力をつけてきたイサクに脅威を感じたのか、ついにイサクに、ここから出て行ってくれ、と立ち退きを求めるに至りました。
やむなくイサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住みました。
ここの「谷間」(17節)は、「ワディ」と呼ばれるもので、普段は水がないけれども、雨が降るとどっと水の集まる谷のことのようです。
そこにアブラハムが掘ってあった井戸があったのですが、それもペリシテ人たちがふさいでしまっていました。
まったく何というひどいことを。
当時、井戸は命そのものです。
それがないと、家畜も自分たちも、死に絶えてしまう、なくてはならないものです。
それこそ、待ったなしで必要なもの。
これがなければ、いくらお金があっても、死が待つのみです。
しかもそれは、いくらでもそこここにあるようなものではありません。
せっかくアブラハムが見つけて掘った貴重な井戸を、土砂を投げ込んで塞いでしまうとは、イサクも相当、腹が立ったのではないかと思います。
しかし、それもまだ序の口。
今度はせっかくイサクのしもべたちが、気を取り直してでしょう、他に井戸を探して、湧き水の出る井戸を見つけたのに、地元ゲラルの性悪羊飼いたちが「この水は、われわれのものだ」と言って、横取りしようとしてきたのです。
それでイサクはその井戸の名を、争うという意味の「エセク」と名付けました。
当時は今日のような裁判制度もなかったでしょう。
あれば、正当な権利を主張してもよかったのでしょうが、当時はなかったでしょう。
また、よそ者のイサクは、周りの人に訴えることもできません。
力をつけてはいましたから、そしてアビメレク王が恐れを感じるほどでしたから、戦うことも、もしかしたらできたのかもしれません。
しかしイサクは戦うことを選ばず、別の井戸を探します。
そして、もう一つ、井戸を掘り当てました。
ところがところが、喜んだのもつかの間、それについても、地元の根性悪の羊飼いたちが争ってきたので、今度はそこを「敵意」という意味の「シテナ」と名付けました。
いい加減にシテナ、と言いたくなります。
しかしここでもイサクは、戦うことを選ばずに、場所を変えて、他の井戸を掘りました。
すると、今度はその井戸については争いがなかったので、その名を「広々とした場所」の意味の「レホボテ」と名付けたというのです。
さしものペリシテ人たちも、一向に戦わずに次々と場所を変えてはそのたびに井戸を与えられるイサクの姿を見て、逆に恐れを感じたのでしょうか。
イサクには確かに神がついていると(28節)。
負けるが勝ちというより、負けて勝つという、信仰の戦いに勝利したイサクでした。
もちろんそれは、神さまが次々と井戸を見つけさせて下さったからです。
神さまとイサクの信頼関係、チームワークの勝利と言っても良いでしょうか。
そして彼は「今や、やっと主は、私たちに広い所を与えて、私たちがこの地で増えるようにして下さった。
」と主に感謝をささげたのでした。
<主がおられるから>
今日の箇所を一読して、頭に浮かぶのはイエス様の山上の垂訓の一節です。
マタイ5:5
柔和な者は幸いです。
その人たちは地を受け継ぐから。
ある注解書は次のようにイサクを評していました。
「追われれば、身を引いて井戸を掘り、また追われれば身を引いて井戸を掘る。
そして、また、身を引いて井戸を掘る…。
『レホボテ』とは『広々とした所』の意味です。
意地悪をされ、居を転々とする。
それを悔しがるとか、憤るとかではなく、『ああ、こうしてこんなに自由な広々としたところへと導いてくださった』と、ほほえんでゆくイサクの豊かさ!」温厚の人、柔和の人イサクです。
「何で自分が退かなければいけないんだ」「あれは俺のものだ。
それを横取りしやがって」と、いつまでも過去の恨み、怒りを手放せないで、今与えられている恵みをふさいでしまうのでなく、今、与えられている恵みを感謝し、喜ぶことのできる人は、幸いです。
ロシアの文豪トルストイの書いた「イワンのばか」というお話があります。
昔ある国に、軍人のセミョーン、たいこ腹のタラース、それにみんなからいわゆるウマ・シカと言われるイワンの3兄弟がいました。
ある日、都会へ出ていた2人の兄たちが実家に戻ってきて「生活に金がかかって困っているので、財産を分けてほしい」と父親に言いました。
日頃、彼らの親不孝ぶりに憤慨していた父親が、イワンにそのことを言うと、イワンは二つ返事で「どうぞ、みんな二人に分けてあげてください。」と言いました。
3人の間にいさかいが起こることを狙っていた悪魔は、狙い通りに行かなかったことに腹を立て、今度は3匹の小悪魔どもを使って争いを起こさせようと、たくらみました。
一匹の悪魔は、長男のセミョーンをけしかけて、向こう見ずの無鉄砲者にし、おかげでさんざん戦いに負け、王様の怒りに触れ、全財産没収、家に帰るしかなくなりました。
もう一匹の悪魔は、次男のタラースを欲張りにしたために、見るもの聞くものなんでもかんでも欲しがって、借金しながら買い込むほどになり、こちらももう、家に泣きついてくることになりました。
ところがイワンだけは、小悪魔どもの手には乗りませんでした。
畑を石のように硬くしても、イワンは腹も立てずに、根気よく、ひたすら黙々と鋤を入れ、少しずつ少しずつ、掘り起こします。
いつもの何倍も時間をかけて、ひたすら掘り越して、ついに畑を全部掘り起こしてしまいます。
今度は草を刈るというので、小悪魔は鎌を鈍く、切れないようにしておいても、イワンは癇癪を起こさず、鎌を研いでは、草を刈り、研いでは刈りと、なんどもなんども、根気よく続けて、ついに草を刈ってしまいます。
この後も話は続くのですが、ともかくこうして、結局、長男のセミョーンも次男のタラスも、ウマシカと馬鹿にしていたイワンに食べさせてもらうことになった。
地を継いだのはイワンだったというわけでした。
これもなかなか、教訓的なお話しです。
最近は、ちょっと自分の思い通りにいかないと、すぐ「ムカツく!」と小悪魔の餌食になりそうな予備軍がたくさんいるようです。
少し、このイワンから柔和というものを教えられる必要があるかもしれません。
人によっては、こういう柔和さをもって、「だから、キリスト教は弱者の倫理なのだ」と言うかもしれません。
それに比べて、例えばナポレオンは、「世界を動かすために必要なのはただ一つ。
それは力だ。
力を強くする以外にない。」と豪語したそうです。
果たして、どうなのでしょう。
この辺のことについて、内村鑑三の注釈に聞きましょう。
元は昔の言葉ですので、少し今の言葉に変えて読みます。
「柔和なる者。
原語に、世に踏みつけられる者の意味があります。
すなわちつぶやかずに、世の侮蔑、無礼を忍ぶ者です。
すなわち何も知らない世の人は『意気地なし』という者です。
それが「地を譲り受ける」というのです。
これは、逆説の最も甚だしいもののように見えます。
弱肉強食は世界の精神となっています。
ところが世に踏みつけられる者が世界を相続するに至るという。
これは妄信の最も甚だしいもののように見えます。
しかし私は、断じて言います。
これは実に、世界を得る道であります、と。
争って得たものはやがて失うものです。
天が与えたものは、自然にきたものです。
競争は、獣の道です。
人の道は謙遜にあります。
いにしえから、争って得たもので長く保ったものはないではありませんか。
アレキサンダー、シーザー、ナポレオン、彼らの栄光は朝の露のごとく消えました。
ナポレオンがセントヘレナ島に流されて、晩年を迎えた時に、イエス・キリストについてこう言ったといいます。
『わたしは、かつてヨーロッパ全土の盟主となったというのに、今、私のために命を捨てるものは、一人もいない。
しかし見よ。
イエスは、十字架にかけられて惨めな死に方をしたというのに、今や何億万の人々が、彼のために命を捧げている。』と。
ナポレオンの感慨はまさにそのとおりであります。
ナポレオンは、地を得る道を知らなかったのであります。」引用はそこまでです。
かつて「世界を動かす秘訣はひとつしかない。
それは強力になることだ。」
と豪語したナポレオンは、晩年にその過ちに気づかされたのでしょうか。
「柔和な者は幸いです。
その人は、地を相続するからです。」不思議な言葉です。
力のある者ではなく、柔和な者こそが、地を受け継ぐ。
なぜそんなことがありえるのか。
それは、全地は、これを造られた神さまのものだから。
そして神さまは、平和の神であられるから、平和を好むものにこそ、その地を与えられるのです。
神さまは、争いを好む者を憎まれます。
全地は主のもの、ということを忘れて、自分の力で得よう得ようとはやって、自分の力で得なければ、と思い込んでいると、どうしても心に余裕がなくなり、目をつり上げ、戦闘モードになってしまいます。
いつしか角を生やし、牙をはやして、目を三角にして、鬼のようになって。
羊のはずが狼男・狼女の姿になっていた、ということもあるかもしれません。
全地は、これを造られた神さまに属するもの。
神さまの所有物。
ゆえに、神さまが、御心に適った時に、御心に適った人々にこれをお与えになる。
イサクはその信仰、信頼に立っていたのでしょう。
22節のイサクの言葉
「今や、【主】は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」
主が、与えてくださるものだと知っていたのです。
その信仰に立って、その信頼があったからこそ、ペリシテ人たちの悪意を受けては退くということを強いられながらも、腐らずに希望を持ち続けることができたのでしょう。
背後に神さまの御手を意識することが、大切なのではないでしょうか。
そしてそこから、心の余裕というものも生まれてくるのではないでしょうか。
悪をもって悪に報いず、主にお委ねして、柔和に誠実に歩むイサクの姿を心に留めたいと思います。
最後に、詩篇37:1−9(旧約p939)をお読みします。
37:1 悪を行う者に対して腹を立てるな。
不正を行う者に対してねたみを起こすな。
37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
37:3 【主】に信頼して善を行え。
地に住み、誠実を養え。
37:4 【主】をおのれの喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
37:5 あなたの道を【主】にゆだねよ。
主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる。
37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
37:7 【主】の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
37:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。
腹を立てるな。
それはただ悪への道だ。
37:9 悪を行う者は断ち切られる。
しかし【主】を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。」
祈り)
すべてを御手に収めておられる主なる神さま。
あなたがイサクとともにおられたように、今、私たちとも、ともにおられることを信じさせて下さい。
あなたがともにおられることに信頼して、義を主張すべき時は主張し、また引くべきときには引いて、ともにおられるあなたにお委ねする事ができますように。
柔和な私たちの主イエス・キリストの尊い御名によってお祈りいたします。
アーメン。
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