礼拝説教要旨(2019.08.25)  
汝、姦淫するなかれ  =ハイデルベルク信仰問答= 問答:108〜109
(マタイ 5:27〜32) 柳吉弥太師 

『第三部 感謝について:十戒について               第41主日

問108 第七戒は、何を求めていますか。
答  すべてみだらなことは神に呪われるということ。
   それゆえ、わたしたちはそれを心から憎み、
    神聖な結婚生活においてもそれ以外の場合においても、
    純潔で慎み深く生きるべきである、ということです。
問109 神はこの戒めで、姦淫とそのような汚らわしいこと以外は
   禁じておられないのですか。
答  わたしたちの体と魂とは共に聖霊の宮です。
   ですから、この方はわたしたちがそれら二つを、
    清く聖なるものとして保つことを望んでおられます。
   それゆえ、あらゆるみだらな行い、態度、言葉、思い、欲望、
    またおよそ人をそれらに誘うおそれのある事柄を
    禁じておられるのです。

 「十戒」の第七戒も、「汝、姦淫するなかれ」(文語訳)と、短い一言の戒めである。新改訳は「姦淫してはならない」(出エジプト20:14)と訳している。「殺してはならない」に続き、「あなたの父と母を敬え」に続いて、隣人との関係における大事な戒めが並ぶ。神が一人一人を尊い存在として覚えて下さっている事実を踏まえながら、人の命を尊び、隣人を心から愛して生きることの大切さを心に刻むよう導いて下さる神は、第六戒の次に、愛の交わりを具体的に経験する結婚の尊さについて、「姦淫してはならない」との戒めによって教えて下さる。第一には「結婚の神聖さ」に触れるもので、関連して、人間の命の始まりと密接な「性」の全般に関わる戒めと理解できる。それにしても今日、「性」を巡って情報は氾濫し、考え方が混乱し、「結婚」は軽んじられ、「家庭崩壊」「人間疎外」「人権軽視」等、人間の尊厳軽視がまかり通っている。第七戒で何が求められているのか、心の耳を傾けることができるように。

1、私たちが、「結婚」のこと、また「性」のことを考える時、決して忘れてならないのは、創世記に記されている命の始まりについてである。神は人間をご自身のかたちとして、ご自身に似せて、「男と女」とに造られた。しかも「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と言って、「人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた」のであった。男と女が互いに助け合って生きること、二人が心も体も一体となって、全人格的な交わりをする存在として生きるように、神は人間をお造りになったのである。(創世記1:26-27、2:18-25)結婚の祝福には、夫婦における性の関係が含まれており、人は神の前に自由な存在として世に送り出されていた。ところが、神に背いて罪に堕ちたため、人は幸いな祝福、また健全な関係を見失ってしまい、「殺してはならない」に続いて「姦淫してはならない」と、戒めを聞かねばならなくなったのである。(創世記3:6-8)問108「第七戒は、何を求めていますか。」答「すべてみだらなことは神に呪われるということ。それゆえ、わたしたちはそれを心から憎み、神聖な結婚生活においてもそれ以外の場合においても、純潔で慎み深く生きるべきである、ということです。」結婚を神聖なものと定められた神は「すべてみだらなこと」を呪っておられるのであって、だから私たちも「それを心から憎む」ことが求められている。「神聖な結婚生活において」はもちろん、「それ以外の場合においても」と。

2、聖書において、結婚生活における「性」は祝福されたもの、良いもので、聖いものである。けれども、結婚以外においての性的関係について、これを厳しく禁じている。主イエスは、山上の説教で、そのことをはっきり教えておられる。「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体がゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。・・・」(27〜30節)厳密には、「姦淫の罪」は結婚関係を破るもので、夫または妻に対する裏切りの行為を指す。けれども、戒めの本意は、行為に至る以前の心の思いを、神は知っておられることにある。この点で、言い逃れできる人は、一人もいないことに気づかされる。すなわち、十戒のどの戒めも、私たちが戒め照らして、「自分は大丈夫」と気づくことではなく、「自分は確かに罪がある」「自分には神の助け、救いが必要」と、気づかせてくれるものである。神は、私たちの心の内を見ておられ、心の思いを知っておられ、もし、罪を悔い改めることがないなら、自分には滅びしかないと、神の前にひれ伏すことを求めておられるのである。

3、第七戒も、単なる禁止命令というだけはない。問109「神はこの戒めで、姦淫とそのような汚らわしいこと以外は禁じておられないのですか。」答「わたしたちの体と魂とは共に聖霊の宮です。ですから、この方はわたしたちがそれら二つを清く聖なるものとして保つことを望んでおられます。それゆえ、あらゆるみだらな行い、態度、言葉、思い、欲望、またおよそ人をそれらに誘うおそれのある事柄を禁じておられるのです。」およそ世にあるいわゆる宗教で、結婚の神聖さを尊び、人間の肉欲、また性的な事柄に厳しさを求めるのは、キリスト教会だけであろう。他の多くはいたって寛容で、おおらかさを誇っているのかもしれない。しかし、聖書は、人間が神のかたちに似せて造られたもので、内面のこと、心を尊び、理性ある存在であることを大事にしている。そして、キリストを信じた私たちは、キリストを内に宿す存在とされるのである。「わたしたちの体と魂は共に聖霊の宮です」と言われる。(コリント第一6:19-20) だから、私たちが自分自身を「清く聖なるものとして保つことを」、神が望んでおられる。「あらゆるみだらな行い、態度、言葉、思い、欲望、またおよそ人をそれらに誘うおそれのある事柄を禁じておられる」のは、私たちが誘惑に晒されることなく、神にふさわしい者として保たれるためなのである。(ペテロ第一1:13-16)

<結び> 「汝、姦淫するなかれ」の戒めは、一人一人が自分に求められているのは何か、それぞれが考える必要のある戒めである。結婚している人は、今一度夫と妻の関係の尊さを思い、互いの愛を真実なもの、誠実なものとされるよう、一層祈り求めることができるように。将来に結婚を願う人は、惑わしの多い、この不確かな時代にあって「純潔で慎み深く生きる」、その心備えができるよう祈ること。そして、結婚はしないと決めた方、また、これからは一人で生きると決めた方、誰であっても、今の世の中には、あらゆるみだらな行いや言葉や、罪に誘う事柄が溢れていることを覚えて、神はそれらを禁じておられることを、決して忘れないようにすること。それらの極めて具体的で、切実なことが求められている。このような大変な時代だからこそ、私たちは主イエス・キリストを仰ぎ見て、十字架の血潮で罪を贖われたことを感謝して歩めるように。キリストにあって、罪を赦されて生きるところに平安があり、喜びがあり、感謝があることを証しすることが導かれるように。