礼拝説教要旨(2018.12.09)  
エノシュへの恵み
(創世記4:17-26)  横田俊樹師

 ここは大きく分けて、24節までのカインの子孫と25節以下のアダム、セツと言う流れとが記されている。前者のカインの流れは、神から離れ去った神なき人の流れで、後者アダム、セツと続く流れは神の民の流れとなる。まずは、カインのほうから見ていくが、弟殺しのカインのその後、、、と聞くと、どんなに呪われた、悲惨な家系なのか、と思いきや、意外や意外、呪われるどころか、つつがなく、いやつつがなくどころか、むしろ世的には繁栄しているのである。
 <17-18節@ カインも普通の人だった?>
 まず、カインにも子どもが授かった。そしてカインは自ら建てた町に、自分の名前でなく子どもの名前をつけたという。そこそこ子煩悩な父親だっただろう。弟殺しと言っても、何も角を生やし、牙をはやした赤鬼のようなモンスターとは限らない。世にある殺人事件なども、多くは普段は普通の人だったと聞く。それが何かの拍子で、カッと頭に血が上って、気がついたら手が出ていた。相手が倒れたら打ち所が悪くて、、、という事もあるだろう。怒りという感情に支配されてしまうと、ろくな事はない。怒り、妬み、憎しみ、そういうネガティブな感情は、長く持ち続ければ持ち続けるほど、固くこびりついて、深く根を張って、手に負えなくなると言う。だから使徒パウロも、そういう感情はみな、さっさと捨ててしまいなさい、と言っている。(エペソ4:26−27、30-32)御霊の助けを祈らされる。
 <17-18節A カイン家が繁栄?>
 カインは、地上では、表面上は何事もなかったかのように栄え、町を建てるほどの生活を送っていた。しかも18節を見ると、孫、曽孫、玄孫(やしゃご)、その次のきしゃご、と次々と子孫が与えられた。次の5章を見ると当時は寿命がとても長かったので、恐らくカイン自身、これら孫のそのまた孫にまで囲まれて暮らしただろう。
 ここだけ見ると、ああ幸せな人生を送ったんだな、、、と素直に思えるのかもしれないが、創世記を順番に見てきた者にとっては、ちょっと複雑か。弟殺しのカインが、このようにヌクヌクと恵まれた生活を続けるのは不条理ではないか?と。現代でも、悪を行っている者がのうのうと幅をきかせて栄えているのを見て、神様、どうしてですか、、、と言いたくなる時もある。神がいるなら、どうして、こんな悪が裁かれずに、野放しにされているのか、、、思わずそう言いたくなる事件を耳にする。詩篇にもそういう祈りが収められていて(73篇)、いつの時代にも心ある人たちはそういう葛藤をもっていたようである。しかし、表面上、繁栄したからと言って、カインの忌まわしい過去が消えたわけではない。犯した罪は何年、何十年、何百年たっても消える事はない。たとえ本人が忘れ去っても、いや、本人が地上を去ってしまっても、永遠なる神の御前には忘れられる事がない。定められた時に、神がお裁きになる。一切をご存じの神が、最終的に完全に決着をつける時を定めておられると聖書はハッキリと記している。その信仰にしっかりと立ち続けたい。旧約聖書の最後、マラキ書3:13-18参照。
<19−22節 文化命令は堕落後も生きている>
 これらは一般に文明の起源と言われる。これらの人々は、産業を拡大させ、芸術を生み、道具を発明、工夫改良し、生活を豊かにするための知恵に秀でた人々だった。神の御前から迷い出たカインの子孫だが、随分とこの世的には才能を発揮して、生活を豊かにしていった。
 以前、神が人を造られた時、神は人を神に似せて、神のかたちに造られた事を学んだ。知識や理性、それに義や聖さといった倫理性。そういう本質を持った存在として人間は造られた。その性質は、人が地を満たし、地を治めるために与えられた。これを文化命令、また歴史形成の命令と言う。地を治めるというのは、神が造られたこの世界について、よく知り、その性質、構造などを良く理解しそれを活用して、神の栄光が表されるようにこの世界を治める事だろう。
 神は、この世界に実に数え切れないほどのたくさんの可能性を与えておられる。それらはいわば種子のような形で隠されていて、それをある時、人が発見し、発展させて、豊かな実を結ぶに至る。たとえば、そこの21節に、ユバルが立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となったとある。ピンと張った弦をはじくと、なんだかいい音がするなあ、と発見して、それからどんな種類の糸がどんな音を出すか、試してみたり、張り具合によって音の高低が変わったり、さらに、この音とあの音と同時にならすと、なんだかすごくいい感じの音になるなあ、と和音を発見したり。それは元々神が音というものにそういう性質を与えておられて、そういうふうに造っておられたわけで、それをある時、人が発見するのである。神が造られたこの世界は、神が隠しておられる宝の山なのかもしれない。それを、宝探しではないが、探して発見するのが、科学あるいは技術というものだろう。こうして文明というものが発展して、歴史が進展していく。
 カインの家系から、このように文明が発展した事からもわかるように、神に背を向けている人であっても、人はみな、神のかたちに造られているので、こうして文明を作り上げていく。もちろん本人たちは、神のためにとは思っていないし、文化命令なんて神がお命じになっている事も知らずにやっている場合がほとんどだろう。そして彼らはその努力の対価として報酬を手にして満足しているだろう。しかし実際の所は、創世記1:28の神のことばは、今も生きていて、神を知らない人をも動かして、歴史を動かしているのである。
 ただし、人間が作り上げた文明を、そのまま無批判に肯定する事もできない。堕落の影響は、人間が創り出した文化、文明にもあらわれる。たとえば22節のトバル・カインは、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であったとある。古代の事だから、青銅で鏡を作ったり、あるいは鉄で鍋を作る分にはいいが、人が考える事は、そこではとどまらない。青銅の剣、さらにそれよりも強い鉄の剣、と武器にたどり着く。武器を持った方が勝ちという考えは、昔も今も、罪人の行動原理だろう。文明には、良いところもあればそうでないところもある。そういう中で、文明や科学技術というものは、そのまま全面的に肯定するわけでもなければ、もちろん全面的に否定するのでもなく、良い物を取り入れて、悪い物はできるだけ抑制していくという、主体性が求められる。たとえば、一部が腐ったリンゴがあるとして、一部分が腐っているからと言って全部を捨てるのはもったいない。腐っているところだけ切って捨てて、他の所は食べる。そのように、世の中の文明のあれやこれやも、良いところを用いていく。
 また、日本のような異教国で生活していると、偶像の問題にぶつかる事がある。例えば、どこかの島に船で渡らないといけないとする。ところがその船の先っぽには、偶像が飾ってある時、みなさんならどうするだろうか?答えは、使徒の働き28:11。元々はこの世界を造られた神が与えておられるものなのだから、必要なものは遠慮なく使えばいい。
 創造主なる神がこの世界に与えた可能性を見つけ出し、それを賜物のある人が工夫し、役立つものに作り上げて、文明を作り、歴史を作っている。こういう世界観を私たちは持っている。
<23−24節 神への恐れを失った人のなれの果て>
 神の御前を去ったカインの家系は、物質的には豊かになっていき、文明を築いていった。しかしそんなカインの子孫から、神を恐れぬ凶暴な男が出現した。レメクは二人の妻をめとった。神が定めた一夫一婦制の定めを覆し、己の欲しいままに振舞う尊大不遜な男である。
 23、24節では、さらにレメクのモンスターぶりが記されている。レメクは傷を受けたお返しに、一人の人の命を奪ったと言う。目には目、ではないのである。片目をやられたら、両目をやり返さないと納まらないのが罪人の腹。現代にも通じるのではないか。肩がちょっとぶつかって、殴る。蹴る。刃物で刺す。みんなレメクの子孫である。そしてレメクは「神が、カインを殺すものには7倍の復讐を宣言したと言うが、このレメク様はそんな甘っちょろい事はしない。77倍だ」と凄む。もはや、神をも恐れない、自分こそ神だ、と言わんばかりのモンスターに成り下がったのである。公義に基づいて理性的に判断のできる、神のかたちとしての人間ではない。これも、先に見た青銅、鉄と言った武器の発明とも関係があるのか。強い武器を持ったものが勝ちという世界。当時は、警察組織もなければ、今の日本のように法治国家でもない。無法地帯。それはすなわち力が全てという世界である。正義というものはなく、力が強いものが勝つ。だから鉄のような武器を手にしたら、ますます思いのまま。弱い者から略奪をほしいままにし、時には人の命を奪って土地を奪い、暴虐が横行する。(6:11参照)。それを思うと、今の日本は、いろいろ言いたい事はあるが、一応、法治国家であり、警察組織もあるというのは、ありがたい神の恵みである。完璧ではないにせよ、一応の法の正義が保たれているおかげで、一応の落ち着いた生活を営む事ができる。これが法治国家でなく、力が全てという無法国家だったら、どんなに恐ろしい事か。このレメクのような輩が好き勝手し放題では、この世の地獄だろう。
<25−26節 エノシュへの恵み>
 さて、以上は神の御前から離れ去ったカインの子孫の姿だったが、これと比べて25節以下はアダムの信仰を受け継いだ子孫である。
 この時代、既に多くの者らは、カイン一族に魅入られたように引き寄せられていき、純粋な神礼拝を守っているものはごくわずかしかいなかっただろう、とカルヴァンは言っている。確かに、羽振りの良い生活をして、この世の春を謳歌しているカイン一族のほうが、人の目には魅力的だっただろう事は、容易に想像できる。カインのような生活をするにはカインにならうにしかず、とカインに右ならえをした人たちが多くいた事だろう。そんな中で、ただひとりかどうかは、わからないが、純粋な信仰を受け継いでいたアベル。そのアベルがカインによって殺されてしまった。そんな中で与えられたセツ。「セツ」は、置かれた者、指定された者、という意味。アベルの代わりにと、神が置かれた者、指定された者。そしてセツは我が子に「エノシュ」と名付けた。エノシュは「アダム」と同じく人、人間という意味だが、弱くもろい者、というニュアンス。レメクは強いという意味だが、こちらは弱くもろい者。カイン、レメクとつらなる強さの系譜と、最初の殉教者アベルからエノシュに至る、いわば弱さの系譜と、いかにも対照的である。カインの系列は、富を蓄え、音楽を楽しみ、当時最強の武器を手にして怖いものなし。ますますこの世で力を増し加え、繁栄し、我が世の春を謳歌していただろう。22節の「ナアマ」なる名が、「楽しみ」「快楽」という意味なのも、何か象徴的である。しかしそれに対して、そういう状況に、心を痛めていた人、正しい良心を失わなかった人たちがいた。そして彼らは、主の御名によって神に祈り始めたのである。彼らは世にあっては少数派だったのかもしれない。レメクの子どもたちのような活躍は記されていない。しかし彼らは、主の御名によって神に祈るように導かれた人々である。神に、正しい裁きを求めて祈ったのだろうか。荒々しい暴力から、守られるように祈ったのだろうか。彼らのよりどころ、守り手は、主なる神だと、神にのみ目を向け、手を上げて、助けを求めたのだろうか。力を増し加え、強くなり、神を神とも思わない所まで堕落してしまったレメクと対照的に、人のはかなさ、もろさを覚える系列に主の御名によって祈る恵みが与えられたという事は、いろいろと考えさせられる。今日の招詞で読んだ山上の説教のイエス様のみことばを思い返したい。マタイ5:3−10。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
<結び:>
 世の中がますますレメク的になっていっている現代、その流れに巻き込まれ、飲み込まれてしまう事のないように、神がエノシュに与えられた恵みを覚えたい。その同じ恵みを私たちにも与えられている事を覚えて、喜びたいと思う。