礼拝説教要旨(2018.11.18)  
主が目を留めたささげ物
(創世記4:1-16)  横田俊樹師

<1−2節 恵みに感謝しよう!>
 3章で見た通り、神は、堕落後のアダムとエバにも、寛大にも恵みを残すと仰っておられたが、その言葉の通りに、エバには子どもが与えられ、土地は収穫をもたらした。エバには長子カナンが与えられて「私は主によってひとりの男の子を得た。」と喜びの声をあげた。またカインとアベルは長じてそれぞれ土を耕す者、羊を飼う者となった。罪の結果、出産の苦しみは大いに増し、労働に伴う労苦も増したものの、なお子の誕生そのものは取り去られず、労働の実りは与えられた。創世記を順番に読み進めてきた私たちには、これが決して当たり前の事ではなく、まさしく恵み以外の何物でもない事がわかるだろう。今なお、与えられているすべての良き物は、人が神に背き、罪を犯したにもかかわらず、神が恵み深くも与えて下さっているものである。決して与えられて当然なのではない。恵みである事を覚えて、心から感謝していたい。
<3−5節 喜ばれる捧げ物・残念な捧げ物:主は心をご覧になる。>
 カインとアベルはそれぞれの労働の実りから、捧げ物を持ってきた。しかし主は、アベルの捧げ物には目を留めたが、カインのには目を留めなかった。なぜか。
 注意してみてみると、4節には「主はアベルとその捧げ物とに目を留められた。」5節に「カインとその捧げ物には目を留められなかった。」とある。捧げ「物」の前に、捧げる「人」をご覧になるのである。では二人はどこがどういう風に違っていたのか?ヘブル12:4に「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に捧げ」とある。捧げ物自体のどこがどうとかではなく、捧げる人の信仰が決定的な違いだったのである。二人ともアダムたちから神の事、堕落の事、にもかかわらず神が恵み深く良き物を与えて下さっている事を教えられていただろう。それを聞いて、アベルは心からそんな恵み深い神に感謝し、心から最高の物をお捧げしたいと思ったのだろう。その心が、彼の捧げ物にあらわれている。4節「アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきた。」誤解なきよう。あくまでも神は心をご覧になるのだから、たとえば感謝する心なしに、ただ単に、そうか、最高の物を捧げればいいんだな、と形だけまねしても意味がない。ルカの福音書では、貧しいやもめの捧げたわずかの捧げ物の方が、金持ちたちがジャラジャラと投げ入れた大金よりも、たくさん捧げたのだ、とイエス様が仰っている。外見や金額ではなく、捧げる心にこそ、主の関心は向いている。
他方、カインの捧げ物は顧みられなかった。心が伴っていなかったのだろう。主がカインの捧げ物に目を留めなかった時の彼の態度に、彼の性質があらわれている。彼は怒って顔を伏せた。捧げてやったのに、という心がどこかにあったのか。この時、カインは怒るのでなく、どうして私の捧げ物は受け入れられないのでしょうか、どこがまちがっていたのでしょうか、申し訳ありません、と主に教えを請い、むしろわびるべきではなかったのか。
<6−16節 どこまでもジコチューなカイン>
 主は、怒りに身を震わせているカインに、さらなる罪を犯さないよう、悔い改める事ができるよう、警告を与える。主はえこひいきをしているのではない。カインも正しく行っているのであれば受け入れられる、と。だからどこが間違っていたのか、顧みる謙虚さが必要であった。この警告にもかかわらず、正しく行うつもりがないならば、すなわちかたくなに悔い改めを拒み続けるなら、さらなる罪をひきよせる事になり、その罪を治めなければならなくなる、と。
 しかしカインは悔い改めなかった。むしろ腹の虫が治まらない彼の怒りは弟アベルに向かった。Tヨハネ3:12参照。創世記はまだ4章で、この悲惨である。罪の猛威、恐るべし。神が与える警告を軽んずべからず、である。こうしてアベルが殺され、カインが残った。第一ヨハネ5:19参照。最初の殉教者となったアベルは、のちにイエス様から「義人」と呼ばれている。彼は自分の役割を終えてこの世からは去ったが、神が用意された場所に移されたのである。
 兄弟殺しとなったカインに、なおも神は罪の告白の機会を与える。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と。だがカインは知らぬと突っぱね、私は弟の番人ですか?と言い返す。ここに至ってやむなく神は宣告を下す。あなたが弟の血で汚したその土地は、もはやあなたのために収穫を生じない。それであなたは地上をさまよい歩くさすらい人となる、と。この宣告が下されるや、カインの態度は一変した。13,14節の言葉は、一見、殊勝な事を言っているように見える。が、よく見てみると、ここには一言も、アベルに対して取り返しのつかない事をしてしまったという言葉がない。あるのはただ自分が大変な事になる、という事だけである。アベルの事など頭になく、保身の事でいっぱいなのである。やはりジコチュー。
 主は、そんなカインに保護を与えた。誰も彼を殺す事がないようにしるしを与えた。本来ならば、命を奪った者は、命をもって償わなければならない。ここではまだ、そのさばきは延期されたようである。そして、主から身の安全を保証されるや、なんとカインはさっさと主の前から去ったという。神にはお守りの役割さえ果たしてもらえば、あとは用はない、とばかりに。感謝の言葉もなく、礼拝したという事もなく。どこまでいってもジコチューなのである。
 こうしてみると、やはりカインは、捧げ物もジコチューな理由から捧げたに過ぎないように思われる。罰が当たらないようにとか、来年も収穫が得られるようにとか。それでは、形は捧げ物でも、実質は自分のために投資?しているに過ぎない。
<結び:主が目を留めて下さるとは!>
 考えてみると、主に何かをお捧げできるという事は、恵みである。主は何物も必要としていない。にもかかわらず私たちのささげ物を受けられる。全宇宙の造り主なる方が、ちっぽけな人間に過ぎない者の捧げものに、事実、目を留められるというのである。この事実をよく思い巡らしたい。献金の業を通してなされる主との生き生きとした人格的な交わりは、私たちの心に喜びをもたらす。心を見ておられる主の視線を意識しつつ、この後の献金の時を持ちたい。