礼拝説教要旨(2004.11.07)
 イエス・キリストの系図 (マタイ 1:1~17)

 バビロン補囚によって王国が滅びた後、神の民イスラエルは地上では国を持つことのない民として歩んでいた。途中、エルサレム帰還を許されたり、独立戦争を起こしたりと、その歴史は波乱に富んでいた。そしておよそ四百年以上が経過した後にイエス・キリストが誕生したのである。マタイの福音書は、キリストの誕生はまさしく旧約聖書の預言の成就であると告げている。(※今朝から12月のクリスマスに向けて、救い主キリストの誕生についてみことばを学ぶことにする。)

1、「マタイ福音書」は、イエスの弟子、取税人マタイが書き下ろしたイエス・キリストについての「良きおとずれの書」である。マタイ自身が胸踊る思いでこれを記し、一人でも多くの人々がイエスをキリストと信じる者となるよう、祈りを込めて記したのに違いなかった。これは喜びの知らせである、誰もがイエスの人格とそのみ業に触れ、救いに与り、人生に喜びを見出して欲しいと、彼は心を込め、祈りを込めて記している。(参照:ヨハネ20:31)

 ところが、その書き出しは、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」といたってシンプルで、それに続く系図の記述は、馴染みのない読者にとっては、「これ何?」と、戸惑いを引き起こすものである。折角聖書を読もうと開いたものの、最初のカタカナでもう挫折してしまったという話をよく耳にするほどである。しかし、マタイはこの系図をとても重要なものとして、先ず書き留めていたのである。そして最初の読者たちは、この系図を通して大切なメッセージを読み取っていたというのである。

2、ユダヤ人にとって系図は特別な意見合いを持っていた。北王国の滅亡や南王国の滅亡は民に外国への移住を強い、他方、諸国からの移民による混血を招いて、純粋なユダヤ人は自らの血筋を誇る歪んだ現実を引き起こしていたからである。そのような弊害はあったが、ここでこの系図が記されているのは、系図が残されていた事実を示すとともに、イエスは実在の人物として世に登場したこと、アブラハムの子孫、ダビデの子孫としてマリヤより生まれたことを告げるためであった。

 イエス・キリストの誕生はおとぎ話ではない、イエスはこの歴史上に確かに存在したというのである。これはやはりイエスの誕生の出来事を告げるルカの福音書にも当てはまる。ルカも系図を記すとともに、イエスの誕生当時の為政者たちの名を挙げ、救い主イエスが、何時、何処で、どのように生まれたかを書き記している。(ルカ2:1以下、3:23~38) 彼もまた、イエスは歴史上に確かに実在した人物で、神を信じようと信じまいと、世界の全ての人はこのイエスに対して自分の態度を決めなければならない、そういうお方であると問いかけているのである。

3、さて、系図そのものであるが、マタイは「アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」とまとめている。(17節) 「十四」という数にまとめながら、神の民の歩みは神の約束に守られ導かれ、確実にキリストの出現、誕生に至ったというのである。(※「7」は完全を表す象徴的な数、「14」はその二倍で、完全な完全、全くの完全を表している。)神の約束は完全に実現したことを表そうとしたのであり、読者はその意図を読み取ることが出来たのである。


 登場する人物の名前は、当時の読者には馴染み深いものであた。多くの人々がその人物にまつわるエピソードを一つ一つ思い出すことが出来た。従って、神が一人一人に関わりながらここまで導いて下さったと、感動を覚えながら読むことが出来たのである。ダビデが王となるまでの輝かしい歩み、しかし、その後のバビロン補囚に至る悲惨な歩み、さらに国を亡くした後の一層の転落等を走馬燈のように思い返しながら、今神は約束を果たして下さったと感謝と喜びをもって、イエスの誕生を迎えることになったと知るのであった。

<結び> 救い主の登場について、当時の多くの人々は、国力の上昇の頂点で、と期待していた節がある。しかし、神が遣わされるメシヤ=救い主=の登場は、人の思いとは異なり、ダビデの子孫とはいえ、ほとんど忘れられた貧しい大工ヨセフの許嫁マリヤより生まれたことによった。神のみ業は実にこのようにして成るのである。神は歴史を支配し、ご自身が約束されたことを必ず成し遂げられる。人の思いや予測を覆しながら・・・。手の届かないところではなく、誰もが近づき得るところに救いがあるのである。

 また、神のみ業の不思議は、この系図に四人の女性が登場していることにも表れている。通常、ユダヤの系図に女性が登場することはないという。しかしここには四人が登場し、しかもその一人一人にまつわる出来事は、恥ずべきこと、公にはしたくないことであったからである。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バテシバ)たちは皆、神のあわれみによって生かされ、キリストの誕生に関わりを持たせられていたのである。神は罪ある者をその罪と滅びの中から、また汚れや恥辱の底から必ず救い出して下さることが明らかにされている。

 それは系図の中の多くの者たちのほとんどが、清く正しく、模範的に生きた者たちというより、罪に汚れ、不信仰で邪悪な道に走っていた者たちであったことからも明白である。神は全ての人の人生を支配し、真実にご自身を求める者に救いを与えようとしておられるのである。神の救いの約束を信じるように、救いを必ず成し遂げて下さる神の力を信じて神に拠り頼むように、救いに招いているのがこのマタイの福音の書き出しである。私たちは系図の分かりにくさに戸惑うことなく、救いへの招きに答えることが出来るよう、祈りをもって福音に耳を傾ける者とならせていただきたい。